序論 本論文では、韓国と日本の現代建築における伝統性表現について論じるなかで丹下健三と金壽根を中心的人物として扱っているが、その中でも特に金壽根の建築と思想を通して論じている。その理由は、金壽根が両国における伝統性表現の問題を一人の人間のなかで具体的に体験した建築家であったからである。
金壽根は、1960年代から始まる韓国政府の文化政策の一環としての国家建築プロジエクトに参加することによって、韓国における近代国家と民族のアイデンティティを視覚化する立場にたたされた。この点で彼は、丹下健三が1950年代を通して視覚化させた日本の国家建築における伝統性表現と認識を共通にしていた。そして、これは、まず国家がアイデンティティの視覚化を要求したことと、それに対して建築家が自らの手法で臨んだ結果、実現されたことである。しかし、近代国家建築におけるアイデンティティ表現の問題が具体化したのは、日本ではすでに明治時代のことであったが、韓国では1960年代にはいってからの一連の国家建築によって生じた。そしてそこで展開された手法は、大まかに言って「転写」と「転義」技法に特徴づけられよう。
まず「転写」と「転義」技法について定義するとすれば、「転写」とは、必然的にある理想化されたモデルを必要とし、モデルの外形をなるべく変えず、形態から意味性を抽出する手法である。すなわち、モデルに対する「コピー」概念といえる。
しかし「転義」とは、理想像を建築家の内側に秘め、相対立する概念を「結合」し視覚化するという意味で「変換」である。しかし、建築家の内面的解釈が民衆と共通の認識基盤を持たない場合、その解釈は歪められてしまう。
前者による伝統論争で代表的なものは、日本では日本国会議事堂建設を巡って生じ、また韓国では、国立総合(中央)博物館で生じた。しかし丹下と金壽根の手法は、いずれも後者に属するものであり、この手法によって、両者はそれぞれの国で伝統論争を巻き起こした。
そこで本論文では、両国における現代建築の伝統性表現としてあらわれた「転写」と「転義」技法について論じることにより、韓国と日本の近・現代建築において生じた伝統論争の把握と共に、今日まで韓国と日本との関係で比較されることの少なかった、近代と現代建築における手法性の問題を照らし合わせている。
本論 金壽根は1931年2月20日韓国のソウルに生まれ、1951年ソウル大学校工科大学建築学科を中退した後、1960年まで日本に留学したが、その時1954〜58年まで東京芸術大学建築学科に在学中、吉村順三から学んだ。そして1960〜62年まで東京大学大学院の都市工学科、高山英華研究室に在席しつつ丹下健三の打放しコンクリートの伝統性表現建築に影響を受けた。このような体験は、後になって金壽根が自己の建築思想を振り返る時意識される、ライト‐レーモンド‐吉村と、ル・コルビュジエ‐丹下の二つの系譜を認識する基盤となる。
金壽根が日本にいた時期は、戦後日本の伝統論が盛んに論じられていた時期であり、丹下健三の広島平和会館原爆記念陳列館(1952)、本館(1955)、香川県庁舎(1958)、そして東京計画-1960が発表された時期でもあった。
金壽根は、1960年韓国国会議事堂コンペに数人の韓国人留学生と共に応募し、当選することによって韓国に帰国するが、その当選案は丹下健三によって設計された香川県庁舎から多くの影響を受けていた。しかし、金壽根が韓国国会議事堂一等当選案にみせた丹下健三の影響は、香川県庁舎のイメージそのものよりも、むしろ伝統を捉える丹下の「転義」技法にあった。この手法は、近代建築に地域性と伝統性をあらわすだけでなく、丹下健三と白井晟一との伝統論争のなかでも述べられたように、「弥生」と「縄文」のような相対立する概念を結合するときに生じる矛盾を建築家の内面を通して表現することによって伝統を創造するものであった。この手法は、すでに広島平和会館陳列館(1952)のピロティの柱に特徴的に表れており、陳列堂を正面から捉えると「弥生的」に映るが、ピロティの中に入ると「縄文的」な量感が漂っている。すなわち、伝統を創造と同一次元で扱う丹下健三の姿勢には、建築家の内面的世界が常に中心にあり、この内面的世界によって矛盾し相対立する現実や概念が乗り越えようとされたのである。この韓国国会議事堂当選案は実現を見なかったが、後、同じように韓国国家プロジェクトである自由センター(1963)とタワー・ホテル(1963)によってほぼ同じ特徴を持って実現された。この時代の彼の建築に共通する点は、打ち放しコンクリートによるブルータルな新地方主義的傾向と韓国の伝統に対する自己流の解釈すなわち、「転義」技法を元に展開していることである。
韓国における本格的な伝統論争は、韓国総合博物館コンペによって引き起こされた。このコンペは国家が「転写」技法を要求したという点で韓国の建築家たちのあいだで大きな反発をもたらした。そこで要求された主な内容は「韓国国家様式」と「最新式の機能性」であったが、その中で特に問題となったのは「ある文化財の外観を模倣することとし」という条項である。これに対する当選案として選ばれたのが、幾つもの韓国古建築を組み合わせたいわば継ぎはぎの建物であった。このコンペに猛烈に反発した建築家たちの意見は、「転写」に対する建築倫理性の問題と、建築家という職能に対する政府の理解不足を問題にしていた。
そして国立総合博物館コンペによる伝統論争より一年後、金壽根は国立扶餘博物館設計(1967)における「転義」技法によって今度は逆に自らが伝統論争を引き起こす結果となった。この論争の中で一つ注目すべき点は、当時の韓国における世論の多くが、金壽根の国立扶餘博物館の打ち放しコンクリートの構造材に表れた象徴性を日本の神社における千木の表現の「模写」すなわち、「転写」という評価で批判したのに対し、金重業(1922〜87)だけが作家による「デフォルメ」という表現、すなわち、「転義」を問題にした点である。金壽根自身も「これは金壽根様式」という言葉で、建築家による「転義」技法を訴えたが、当時の世論には届かなかった。
結局、金壽相はこの扶餘博物館によって韓国的アイデンティティとは何であるかを本格的に自己に問う結果になった。そこで彼は特に丹下から影響を受けた「転義」技法からくる表現の歪みを乗り越える為に、韓国民族共通の認識基盤を求めて模索するが、その中では李朝民家の造営思想の根本にある自然主義的解釈へと積極的に向かうことになる。その中でも特に、李朝両班たちの自然と共に営むことによって磨かれる「眼目」概念や、そこから生まれる美意識としての「モォッ」概念へと向かっていったが、その変化は特に1969年から1970年にかけて建てられたハッピー・ホール(1969)と又村荘(1970)の二つの建物にはっきり表れている。まず、ハッピー・ホールの平面では、柱の不規則な配列によって小さなスケールが大きなスケールの回りに形成されているが、このような技法は、韓国民家のマダン空間の回りをチェ(棟)の小さな空間群が囲んでいることを想起させる。しかし、まだこの建物では、韓国民家で見るようなマルすなわち、縁的な空間や内部と外部空間の有機的つながりは見られない。いっぽう又村荘ではさらに具体的な変化が見られた。それは「内部空間からの発想」、「ヒューマン・スケール」の採用や「環境との調和のための煉瓦の使用」などである。そして又、ここで見逃せない点は、これらの事柄がブルーノ・ゼーヴィの「有機的空間」やノルベルグ・シュルツの「実存的空間」の影響を受けていたことである。すなわち、内部空間からの発想という点では「有機的空間」から、そして煉瓦の外壁による「環境イメージ」の形成という点では「実存的空間」からの影響がある。ヒューマン・スケールによる環境との調和という点も広くは「実存的空間」に入るといえよう。金壽根はこうした思想を通じて李朝民家の造営思想に近づいていったのである。
煉瓦という材料が韓国で持つ特別な意味を考えるとき、又村荘での灰色の煉瓦の使用は、画期的な意味を持っていた。すなわち灰色の煉瓦は、韓国古来の甎や瓦への「環境イメージ」形成の為に選ばれたと理解することができる。金壽根は、李朝末期から始まる洋式建築の主な材料として使われた赤い煉瓦に対しても初めは否定的意味で捉えていたが、後には韓国の土壁との連続性をもって捉えるようになり、ソウル大学環境芸術館(1974)などから彼の建築に登場し始める。すなわち、煉瓦という材料には、韓国の風土性と近代性が入り交じった構図の中に「知覚的シェマ」を形成させようとした金壽根の意図を読みとることができる。それは、十年を隔てる韓国科学技術院本館(1967)と農業経済研究院(1977)のあいだの変化が物語っている。両者の平面構成の類似性とは裏腹に、農業経済研究院では煉瓦外壁仕上げを用いることによって全く違う印象が生まれているのである。このような成果は空間社屋(1971〜77)においてある完成度を見せた。
そして、ここで見逃せない重要な点は、この空間社社屋における歴史的意義である。それは彼が日本支配下時代に建築を学び、その上に「朝鮮建築の近代的モデル」を作ろうとした朴吉龍の建築思想と、その作品である朝鮮生命保険会社社屋に少なからぬ影響を受けていることである。建築思想としては、まず朴吉龍の朝鮮建築の近代的モデルの追求姿勢が問題になるが、それは日本における国会議事堂建設をめぐってのべられた、伊東忠太の「進化論」や三橋四郎の「折衷案」とは違っていた。伊東や三橋の立場が「混成」による様式創造であるのに対して、朴吉龍においては、韓国の風土性原理が基盤にあり、その上に外来文明の合理的建築が吸収されるという意味での「重合性」を主張していることである。このように韓国の風土性原理を演繹的に理解しようとする姿勢は、金壽根が李朝民家を捉える姿勢に近いものであり、この点に韓国における近代建築と現代建築を結ぶ強いきずなを発見することがことができるのである。
例えば、金壽根の空間社社屋における煉瓦外壁と木製の窓枠、又、しっかり地に根づいたような重みのあるマッスの構成は、明らかに朴吉龍の建築に通底するものである。しかし金壽根は、朴吉龍を学ぶと同時に彼を乗り越えなければならない理由があった。それは朴吉龍の合理主義的姿勢にあっては、李朝民家におけるマダンを中心とする空間概念が否定的に捉えられている点である。それは朴古龍が1937年に発表した朝鮮住宅改良案からもはっきり読み取ることができる。金壽根が李朝民家をモデルにしたのは、むしろ、朴吉龍に約二百年さかのぼる李朝後期実学派の李重煥の『擇里志』などにみる「心性」を人間が窮極に行き着くべき次元として捉えていたゆえであり、このような価値観が金壽根の「ネガティビズム思想」の根底に流れていたのである。