学位論文要旨



No 110743
著者(漢字) 李,大俊
著者(英字)
著者(カナ) リー,テジュン
標題(和) 東アジアにおける現代建築の伝統性表現について : 韓国と日本の場合
標題(洋)
報告番号 110743
報告番号 甲10743
学位授与日 1994.04.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3234号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 横山,正
 東京大学 教授 香山,壽夫
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 助教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 藤井,恵介
内容要旨 序論

 本論文では、韓国と日本の現代建築における伝統性表現について論じるなかで丹下健三と金壽根を中心的人物として扱っているが、その中でも特に金壽根の建築と思想を通して論じている。その理由は、金壽根が両国における伝統性表現の問題を一人の人間のなかで具体的に体験した建築家であったからである。

 金壽根は、1960年代から始まる韓国政府の文化政策の一環としての国家建築プロジエクトに参加することによって、韓国における近代国家と民族のアイデンティティを視覚化する立場にたたされた。この点で彼は、丹下健三が1950年代を通して視覚化させた日本の国家建築における伝統性表現と認識を共通にしていた。そして、これは、まず国家がアイデンティティの視覚化を要求したことと、それに対して建築家が自らの手法で臨んだ結果、実現されたことである。しかし、近代国家建築におけるアイデンティティ表現の問題が具体化したのは、日本ではすでに明治時代のことであったが、韓国では1960年代にはいってからの一連の国家建築によって生じた。そしてそこで展開された手法は、大まかに言って「転写」と「転義」技法に特徴づけられよう。

 まず「転写」と「転義」技法について定義するとすれば、「転写」とは、必然的にある理想化されたモデルを必要とし、モデルの外形をなるべく変えず、形態から意味性を抽出する手法である。すなわち、モデルに対する「コピー」概念といえる。

 しかし「転義」とは、理想像を建築家の内側に秘め、相対立する概念を「結合」し視覚化するという意味で「変換」である。しかし、建築家の内面的解釈が民衆と共通の認識基盤を持たない場合、その解釈は歪められてしまう。

 前者による伝統論争で代表的なものは、日本では日本国会議事堂建設を巡って生じ、また韓国では、国立総合(中央)博物館で生じた。しかし丹下と金壽根の手法は、いずれも後者に属するものであり、この手法によって、両者はそれぞれの国で伝統論争を巻き起こした。

 そこで本論文では、両国における現代建築の伝統性表現としてあらわれた「転写」と「転義」技法について論じることにより、韓国と日本の近・現代建築において生じた伝統論争の把握と共に、今日まで韓国と日本との関係で比較されることの少なかった、近代と現代建築における手法性の問題を照らし合わせている。

本論

 金壽根は1931年2月20日韓国のソウルに生まれ、1951年ソウル大学校工科大学建築学科を中退した後、1960年まで日本に留学したが、その時1954〜58年まで東京芸術大学建築学科に在学中、吉村順三から学んだ。そして1960〜62年まで東京大学大学院の都市工学科、高山英華研究室に在席しつつ丹下健三の打放しコンクリートの伝統性表現建築に影響を受けた。このような体験は、後になって金壽根が自己の建築思想を振り返る時意識される、ライト‐レーモンド‐吉村と、ル・コルビュジエ‐丹下の二つの系譜を認識する基盤となる。

 金壽根が日本にいた時期は、戦後日本の伝統論が盛んに論じられていた時期であり、丹下健三の広島平和会館原爆記念陳列館(1952)、本館(1955)、香川県庁舎(1958)、そして東京計画-1960が発表された時期でもあった。

 金壽根は、1960年韓国国会議事堂コンペに数人の韓国人留学生と共に応募し、当選することによって韓国に帰国するが、その当選案は丹下健三によって設計された香川県庁舎から多くの影響を受けていた。しかし、金壽根が韓国国会議事堂一等当選案にみせた丹下健三の影響は、香川県庁舎のイメージそのものよりも、むしろ伝統を捉える丹下の「転義」技法にあった。この手法は、近代建築に地域性と伝統性をあらわすだけでなく、丹下健三と白井晟一との伝統論争のなかでも述べられたように、「弥生」と「縄文」のような相対立する概念を結合するときに生じる矛盾を建築家の内面を通して表現することによって伝統を創造するものであった。この手法は、すでに広島平和会館陳列館(1952)のピロティの柱に特徴的に表れており、陳列堂を正面から捉えると「弥生的」に映るが、ピロティの中に入ると「縄文的」な量感が漂っている。すなわち、伝統を創造と同一次元で扱う丹下健三の姿勢には、建築家の内面的世界が常に中心にあり、この内面的世界によって矛盾し相対立する現実や概念が乗り越えようとされたのである。この韓国国会議事堂当選案は実現を見なかったが、後、同じように韓国国家プロジェクトである自由センター(1963)とタワー・ホテル(1963)によってほぼ同じ特徴を持って実現された。この時代の彼の建築に共通する点は、打ち放しコンクリートによるブルータルな新地方主義的傾向と韓国の伝統に対する自己流の解釈すなわち、「転義」技法を元に展開していることである。

 韓国における本格的な伝統論争は、韓国総合博物館コンペによって引き起こされた。このコンペは国家が「転写」技法を要求したという点で韓国の建築家たちのあいだで大きな反発をもたらした。そこで要求された主な内容は「韓国国家様式」と「最新式の機能性」であったが、その中で特に問題となったのは「ある文化財の外観を模倣することとし」という条項である。これに対する当選案として選ばれたのが、幾つもの韓国古建築を組み合わせたいわば継ぎはぎの建物であった。このコンペに猛烈に反発した建築家たちの意見は、「転写」に対する建築倫理性の問題と、建築家という職能に対する政府の理解不足を問題にしていた。

 そして国立総合博物館コンペによる伝統論争より一年後、金壽根は国立扶餘博物館設計(1967)における「転義」技法によって今度は逆に自らが伝統論争を引き起こす結果となった。この論争の中で一つ注目すべき点は、当時の韓国における世論の多くが、金壽根の国立扶餘博物館の打ち放しコンクリートの構造材に表れた象徴性を日本の神社における千木の表現の「模写」すなわち、「転写」という評価で批判したのに対し、金重業(1922〜87)だけが作家による「デフォルメ」という表現、すなわち、「転義」を問題にした点である。金壽根自身も「これは金壽根様式」という言葉で、建築家による「転義」技法を訴えたが、当時の世論には届かなかった。

 結局、金壽相はこの扶餘博物館によって韓国的アイデンティティとは何であるかを本格的に自己に問う結果になった。そこで彼は特に丹下から影響を受けた「転義」技法からくる表現の歪みを乗り越える為に、韓国民族共通の認識基盤を求めて模索するが、その中では李朝民家の造営思想の根本にある自然主義的解釈へと積極的に向かうことになる。その中でも特に、李朝両班たちの自然と共に営むことによって磨かれる「眼目」概念や、そこから生まれる美意識としての「モォッ」概念へと向かっていったが、その変化は特に1969年から1970年にかけて建てられたハッピー・ホール(1969)と又村荘(1970)の二つの建物にはっきり表れている。まず、ハッピー・ホールの平面では、柱の不規則な配列によって小さなスケールが大きなスケールの回りに形成されているが、このような技法は、韓国民家のマダン空間の回りをチェ(棟)の小さな空間群が囲んでいることを想起させる。しかし、まだこの建物では、韓国民家で見るようなマルすなわち、縁的な空間や内部と外部空間の有機的つながりは見られない。いっぽう又村荘ではさらに具体的な変化が見られた。それは「内部空間からの発想」、「ヒューマン・スケール」の採用や「環境との調和のための煉瓦の使用」などである。そして又、ここで見逃せない点は、これらの事柄がブルーノ・ゼーヴィの「有機的空間」やノルベルグ・シュルツの「実存的空間」の影響を受けていたことである。すなわち、内部空間からの発想という点では「有機的空間」から、そして煉瓦の外壁による「環境イメージ」の形成という点では「実存的空間」からの影響がある。ヒューマン・スケールによる環境との調和という点も広くは「実存的空間」に入るといえよう。金壽根はこうした思想を通じて李朝民家の造営思想に近づいていったのである。

 煉瓦という材料が韓国で持つ特別な意味を考えるとき、又村荘での灰色の煉瓦の使用は、画期的な意味を持っていた。すなわち灰色の煉瓦は、韓国古来の甎や瓦への「環境イメージ」形成の為に選ばれたと理解することができる。金壽根は、李朝末期から始まる洋式建築の主な材料として使われた赤い煉瓦に対しても初めは否定的意味で捉えていたが、後には韓国の土壁との連続性をもって捉えるようになり、ソウル大学環境芸術館(1974)などから彼の建築に登場し始める。すなわち、煉瓦という材料には、韓国の風土性と近代性が入り交じった構図の中に「知覚的シェマ」を形成させようとした金壽根の意図を読みとることができる。それは、十年を隔てる韓国科学技術院本館(1967)と農業経済研究院(1977)のあいだの変化が物語っている。両者の平面構成の類似性とは裏腹に、農業経済研究院では煉瓦外壁仕上げを用いることによって全く違う印象が生まれているのである。このような成果は空間社屋(1971〜77)においてある完成度を見せた。

 そして、ここで見逃せない重要な点は、この空間社社屋における歴史的意義である。それは彼が日本支配下時代に建築を学び、その上に「朝鮮建築の近代的モデル」を作ろうとした朴吉龍の建築思想と、その作品である朝鮮生命保険会社社屋に少なからぬ影響を受けていることである。建築思想としては、まず朴吉龍の朝鮮建築の近代的モデルの追求姿勢が問題になるが、それは日本における国会議事堂建設をめぐってのべられた、伊東忠太の「進化論」や三橋四郎の「折衷案」とは違っていた。伊東や三橋の立場が「混成」による様式創造であるのに対して、朴吉龍においては、韓国の風土性原理が基盤にあり、その上に外来文明の合理的建築が吸収されるという意味での「重合性」を主張していることである。このように韓国の風土性原理を演繹的に理解しようとする姿勢は、金壽根が李朝民家を捉える姿勢に近いものであり、この点に韓国における近代建築と現代建築を結ぶ強いきずなを発見することがことができるのである。

 例えば、金壽根の空間社社屋における煉瓦外壁と木製の窓枠、又、しっかり地に根づいたような重みのあるマッスの構成は、明らかに朴吉龍の建築に通底するものである。しかし金壽根は、朴吉龍を学ぶと同時に彼を乗り越えなければならない理由があった。それは朴吉龍の合理主義的姿勢にあっては、李朝民家におけるマダンを中心とする空間概念が否定的に捉えられている点である。それは朴古龍が1937年に発表した朝鮮住宅改良案からもはっきり読み取ることができる。金壽根が李朝民家をモデルにしたのは、むしろ、朴吉龍に約二百年さかのぼる李朝後期実学派の李重煥の『擇里志』などにみる「心性」を人間が窮極に行き着くべき次元として捉えていたゆえであり、このような価値観が金壽根の「ネガティビズム思想」の根底に流れていたのである。

結論

 今日まで金壽根の「ネガティビズム思想」は、近代建築に対しての「否定」という意味で捉えられて来た。しかしこのような理解では、近代建築を意識し乗り越えようとした彼の動機を意味づけすることは出来ても、金壽根が近代国家としての自国の立場と民族のアイデンティティとを同時に認識することによって自らのうちに抱え込んだ文脈的亀裂を乗り越えようとした意図を掴むことはできない。したがって「ネガティビズム思想」とは、韓国の近代化と民族的アイデンティティの問題に基づく矛盾を乗り越えるために金壽根が追求した手法であったといえる。ここで本論文で捉えた、この金壽根における「ネガティビズム思想」の構図をもう一度整理してみると次のようになる。まず、伝統を創造と同一次元で捉えるときの発信者と受信者の間に共通した認識基盤が特に国内において必要であった。すなわち、丹下健三から影響を受けた「転義」技法から生まれる表現の歪みを解決する方法が求められた。そこで、近代建築では満たすことの出来ない人間の心性を、李朝民家の造営思想である自然主義に見出だした。この際、韓国の近代化における精神文化的断片性を克服するにあたって李朝実学派の李重煥にはじまって朴吉龍へといたる系譜が再認識された。要するに、金壽根の「ネガティビズム思想」は「ヒューマニズム」という自然主義に根差した普遍的価値観によって近代の問題を乗り越える方法として再度認識される必要があり、これは一韓国の問題にとどまらぬ広い可能性を示唆している。

審査要旨

 本論文は、日本と韓国という東アジアの隣接する二つの国家における近代化に直面した建築家が、それぞれの風土における伝統的なものの表現において、どのような対応を行ったかを比較論考したものである。すなわちこれら東洋の諸国家における近代化は、すべて西欧化の様相をもったゆえに、それが一定の段階に達したときに、それぞれの国家における伝統的なものの視覚化によるアイデンティティの確立という問題を呼び起こした。日本ではすでに明治時代にこの問題が生起し、国会議事堂建設をめぐっての論争を生み、さらには第二次世界大戦の線中戦後を通じての丹下健三のデザインにまさに体現されることになった。

 いっぽう韓国においては、その不幸な歴史のゆえにこの問題が表面化するのは第二次世界大戦の後のこととなり、1960年代における一連の国家建築の建設過程において議論が行われた。とくに国立総合博物館の設計が問題となったが、この韓国の伝統論争において重要な役割を果たしたのが、日本で丹下健三のもとに学んだ金寿根である。本論文は丹下健三を中心に据えて日本における伝統論争の全局面を詳細に検討することで、伝統の形態を写し取ろうとする「転写」の手法の限界を明らかにし、丹下健三がそれを乗り越える形で開発した、相矛盾する要素を建築家の内面の理想像のうちに結合せしめる「転義」の手法の可能性を論証している。

 金寿根は丹下健三のもとで、この「転義」の手法を学びとり、それを1960年代以降の、国家が「転写」を要求した国家プロジェクトに立ち向かっており、これによって韓国国会議事堂案などの作品が生まれている。

 しかしこの「転義」の手法も、丹下の作品に見られるように多くの矛盾をはらんでおり、本論文の重点は、金寿根がその解決を追い求めるなかで伝統のアイデンティティを求めた過程の論証に充てられている。彼がこの新しいステップを踏み出すきっかけとなったのは、扶余搏物館の設計を通してであり、彼にとっては「転義」の手法の展開にほかならなかったこの作品が、日本の神社建築の引用、すなわち「転写」として非難された事件を通してであることが、論争の経緯を細かく検討することで論証されている。

 本論文では、その結果、金寿根は、李朝の両班の家屋に見られる自然との共生を目する「眼目」の概念を追求し、またそこに生まれる美意識としての「モオッ」概念を追求する方向に向かったとしている。彼はこれらを通して、自らの「転義」の手法をさらに深化させ、朝鮮半島の民家の空間構成に見る大空間と小空間、あるいは内部空間と外部空間との有機的な連関の構造を追い求めていったとされる。

 また金寿根がこうした空間の構成のうちに、伝統的な建築のもつ人間的な尺度を発見していったことと、それと同時に、煉瓦という材料に伝統と近代をつなぐ大きな絆を見いだしたことが、彼の決定的な転回点になった事実が、彼の言説と具体的な空間の検討によって論証されている。すなわち煉瓦は一般的には近代の所産、西欧化とのつながりをもって考えられるものだが、韓国においては、伝統的な土壁の構成材料としての親近惑があり、この点、日本の場合と違って、民衆に必ずしも違和感がないことが指摘され、金寿根がこの材料を手がかりとして近代と伝統をつなぐ知的なシェマの達成をはかったことが論証されている。

 本論文はこうした金寿根の建築思想の最高の結実は、彼自身が主宰した空間社の社屋の建築であるとしているが、とくに注目すべきは、先述の煉瓦の使用や空間社社屋に見るごとき空間の構成、さらには伝統にアイデンティティを求める姿勢そのものに、日本支配下において建築を学び、「朝鮮建築の近代的モデル」を創り出そうとした近代建築家、朴吉龍の影響を発見した点である。本論文には、今回新しく発見された朴吉龍のたくさんの原稿が付録として収録されているが、それらを資料として駆使して朴吉龍の建築思想の解明が試みられたことは特筆に値しよう。こうして金壽根のネガティヴィズム思想が、たんなる否定主義ではない、朴吉龍の思想をさらに新しい段階に押し進めた、積極的な伝統の止揚を目指す思想であることが論証されている。

 以上のように、本論文は日本と韓国という二つの国家における近代化と伝統の相克をめぐっての建築家たちの思索の展開を詳細に考察し、それが丹下健三と金寿根と言うそれぞれの風土の代表的な建築家によってどのようなレヴェルで現実の建築へと昇華されたかを考察し、伝統に深く裏ずけされた風土における今後の近代建築の進むべき道を示唆している点、非常に意味深いものをもっている。また朴吉龍という韓国におけるこの問題についての思想的先駆者を発掘し、その事績について深く調査検討した点も、今後の研究者にとって大きな意味を持つと考えられる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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