学位論文要旨



No 110746
著者(漢字) 梶浦,篤
著者(英字)
著者(カナ) カジウラ,アツシ
標題(和) 北方領土・琉球の帰属問題をめぐる米国の戦略1941〜1956
標題(洋)
報告番号 110746
報告番号 甲10746
学位授与日 1994.04.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第38号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 和田,春樹
 東京大学 教授 新川,健三郎
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 五十嵐,武士
 東京大学 助教授 田中,明彦
内容要旨

 1941年から1956年に至る、北方領土と琉球の帰属問題に対する米国の政策には、大きく分けて3つの潮流があったと、見ることができる。第一の潮流は、大国と小国、戦勝国と敗戦国の利益を平等に扱うという考え方に、基づくものである。この潮流は、大西洋憲章に象徴されていると言える。つまり、領土問題を処理するに当たっては、「領土不拡大の原則」や「民族自決の原則」を、尊重するというものである。言わば、その時の関係各国の力関係によらずに、領土問題をできる限り公正に解決して、関係各国の領土に関する不満を最小限にとどめ、それによって、平和を維持していこうということである。これを、大西洋憲章にちなんで、「大西洋憲章の潮流」と呼ぶことにする。

 第二の潮流は、大国の利益を小国の利益に対して、また戦勝国の利益を敗戦国の利益に対して優先するという考え方に、基づくものである。この潮流は、ヤルタ協定に象徴されていると言える。つまり、その時の関係各国の力関係に基づいて、大国や戦勝国の領土を最大限に広げ、これらの諸国が力を維持し、小国や敗戦国を抑え込むことによって、平和を維持していこうということである。従って、「領土不拡大の原則」や「民族自決の原則」は、しばしば無視される。これを、ヤルタ協定にちなんで、「ヤルタ協定の潮流」と呼ぶことにする。

 第三の潮流は、冷戦の発想に基づいて、西側陣営の利益を東側陣営の利益よりも優先するという考え方に、基づくものである。この潮流は、ポツダム宣言まで、さかのぼることができる。この考え方に立てば、平和を維持していくために、自国や同盟国の領土を、最大限に広げるということと、新たに味方となった敗戦国の領土に関する不満を、最小限にとどめるということの、両方に配慮していかなければならなくなる。しかし、これらを両立させることは、必ずしも容易ではない。また、この潮流においては、「領土不拡大の原則」は、尊重されるものの、「民族自決の原則」は、必ずしも尊重されるとは限らない。その場合は、領土の帰属については、信託統治領としたり、未決定とするといった方式によって、曖昧なままにしておくということになる。これを、ポツダム宣言にちなんで、「ポツダム宣言の潮流」と呼ぶことにする。「ポツダム宣言の潮流」が、なぜ領土の帰属を、曖昧なままにしておくということになるのかということは、後で明らかにしていきたい。

 日米開戦当初は、北方領土と琉球は、別々に扱われ、両者の間に、関連性は認められなかった。それが、次第に、両者が関連づけられていくのであった。これは、冷戦の発生に伴って、東アジアにおける、米国の最大の仮想敵国が、日本からソ連に替っていくのに、呼応している。ところが、北方領土と琉球に対する米国の政策は、その時点より前の方が、概して、日本に対して寛大なものとなっており、後の方が、概して、日本に対して峻厳なものとなっている。単純に考えれば、このようなことは、世界的規模で見た米国の戦略と、北方領土と琉球に対する米国の政策が、矛盾しているということを意味する。この疑問を解く鍵となるものが、先に示した、冷戦の発想にもとづく、「ポツダム宣言の潮流」のもとでの、日本を友好国として確保することと、琉球を軍事基地として確保することの間の、矛盾である。

 1941年8月、ローズヴェルトとチャーチルは、第二次世界大戦においては、「領土不拡大の原則」や「民族自決の原則」などを定めた、大西洋憲章を発表した。つまり、この大戦における、領土問題の処理のための基本原則は、「大西洋憲章の潮流」に乗っていたと言えよう。また、国務省では、1943年の夏頃から、日本領土の処理に関する研究が、本格的に始められるようになる。そこでは、基本的には、「大西洋憲章の潮流」に従って、日本の領土の処遇について、勧告が行われていた。それは、例えば、琉球諸島や、色丹、国後、択捉の島々は、日本領にとどめておくべきであるというものであった。

 一方、ローズヴェルトは、1945年2月には、スターリン、チャーチルと、ヤルタ協定に署名し、ソ連に対日参戦の代償の一部として、南樺太と千島を与えるという、取引を行った。彼は、既に、「大西洋憲章の潮流」を捨てて、戦勝国の利益を敗戦国の利益に対して優先するという、「ヤルタ協定の潮流」に乗移っていたと言えよう。

 1945年4月に、ローズヴェルトが死去し、トルーマンが大統領を継ぐが、この頃、ポーランド問題などにおける対立をきっかけとして、米ソ両首脳間に、不信の芽が生じることになった。同年7月に発表されたポツダム宣言は、カイロ宣言の履行と、日本の領土を四大島と連合国の決定する諸小島に限定するとしていた。これによれば、カイロ宣言にある「領土不拡大の原則」は、確認されたとみなされるが、カイロ宣言ではその帰属先が明記されていなかった、南樺太、千島、琉球などについては、「民族自決の原則」が適用されるのかどうかも含めて、やはり明記されていなかった。ダレスの主導のもとで起草され、1951年9月に調印された、サンフランシスコ講和条約では、千島と南樺太については、日本が放棄することのみが定められた。琉球については、米国が自国の信託統治領にすることを国連に提案するまで、米国が統治すると定められた。この方式は、彼によれば、琉球における日本の「潜在主権」を認めたものということであった。北方領土と琉球の帰属は、ここでも、曖昧なままとされたのであった。このようにして、対日講和条約では、「ポツダム宣言の潮流」が、採入れられたのである。

 「ポツダム宣言の潮流」が出てきた、終戦前後の時点では、北方領土については、ヤルタ協定とソ連の占領という事態があった。一方、琉球については、米国の占領という事態があった。その後、米国内では、冷戦期のソ連を敵とする政策に基づいて、琉球を軍事的に確保すべきとする主張が、強くなっていった。しかし、米国としては、日本を友好国として確保することが、ソ連などの共産主義勢力との対抗上、不可欠であることは、明らかであった。ここに、先にも論じたように、日本を友好国として確保することと、琉球を軍事基地として確保することの矛盾が、生じてくるのである。

 しかし、この矛盾を解消する方法は、全くないわけではなかった。もし日本人が、北方領土に対して、琉球に対するよりも、多くの不満を持ったならば、日本人の領土についての不満は、琉球よりも北方領土に向かい、日本人の反感は、米国よりもソ連に向かうようになるはずである。このように考えると、「ポツダム宣言の潮流」においては、北方領土と琉球の帰属問題については、曖昧なままとされるという理由が、はっきりしてくる。それは、次のようなものである。琉球については、日本人の対米感情を悪化させずに、米国の軍事的必要を満たすために、戦略的に価値の低い、吐喇列島や奄美諸島を、段階的に早々と返還する一方、戦略的に重要な沖縄島以南については、実質上は米国の支配下に置きながらも、「潜在主権」を認めるとして、帰属問題を未解決のままにした。しかし、それでもなお、日本人の不満は、消し去ることはできない。そこで、北方領土については、講和条約において、日ソ両国の主張を共に退け、範囲を未確定にしたまま日本に放棄させ、帰属先も定めずに、やはり曖昧に規定した。つまり、北方領土についても、帰属問題を未解決のままに、しかも、琉球の場合よりも、日本に不利で、かつ解決が難しい形にしたのである。このようにして、連合国が自ら進んで唱えた大西洋憲章が、講和条約において、北方領土や琉球には、適用されなかったのである。

 北方領土と琉球を、取引材料として結び付ける戦略は、ボートンにまでさかのぼることができる。彼は、戦時中は、「領土不拡大の原則」や「民族自決の原則」に配慮しつつ、日本の領土問題が、戦後の不和の種とならないように努めた。しかし、戦後になると、1946年2月には、千島の範囲が、「取引の問題(a bargaining point)」となり得るということを、述べている。彼のこういった方針が、1947年9月に政策企画部に提出された文書に見られる、「対抗上の取引(a bargaining counter)」という戦略に、つながっていくのである。それは、北方領土の一部を返還するかもしれない、ソ連への対抗上、米国は、わずかな戦略的価値しかないにもかかわらず、あらかじめ切離しておいた北部琉球を、後で日本に返還するというものであった。この文書に若干の修正を加えたものが、ダレスが対日講和問題を担当する際に、彼のために準備されている。そして、この戦略は、彼が国務長官に就任した後に、具体化されているのである。また、彼は、1951年2月には、対日講和における、北方領土に対する米国の姿勢について、「取引(bargaining)の立場」であると述べている。さらに、日ソ国交回復交渉が山場を迎えた1956年8月には、彼は、自ら起草の中心となった、対日講和条約を援用して、日本が、歯舞、色丹のみ日本に返還し、他の北方領土はソ連領とするという平和条約を、ソ連との間で結んだ場合は、米国は琉球諸島を併合し得るとして、北方領土と琉球を、取引材料として結び付け、日ソ平和条約の締結を阻もうとしたのであった。

審査要旨

 梶浦篤氏の論文「北方領土・琉球の帰属問題をめぐる米国の戦略 1941-1956」は、本文364頁(400字詰め原稿用紙1455枚)、注69頁、文献目録18頁、計451頁の大作である。

 第二次大戦後の日本の領土問題の中で深刻な問題となったのはいわゆる北方領土と琉球の問題であった。このうち返還され解決を見た琉球の問題については、いくつかの研究がなされている。ところが北方領土問題はいまだ未解決に残っているにもかかわらず、長らく本格的な学問的研究の対象とならずにきた。ようやく近年研究がはじまり、昨年にはイギリスとアメリカの文書館での調査に基づき1955-56年の日ソ国交回復交渉を研究した田中孝彦氏の業績が公刊された。梶浦氏の研究は田中氏の研究と平行して行われ、もっぱらアメリカの文書館での調査に基づくが、独自の問題認識から田中氏よりは長い期間を対象として問題を解明した独自な研究となっている。

 梶浦氏は米国がいまだ戦争中から日本の領土の処理をどのように考えていたかというところからこの問題の研究をはじめた。そこで、米国の政策の中に三つの異なった潮流をみるという立場をとっている。第一は「大西洋憲章の潮流」、第二は「ヤルタ協定の潮流」、第三は「ポツダム宣言の潮流」である。これらの潮流は戦争中に継起的に現れたが、戦後はこの潮流が米国の政策担当者の判断の中でどのように絡み合い、否定し合いして問題の処理に影響したかが追跡される。梶浦氏の問題意識は、どうして第一の潮流が貫からなかったのかというところに置かれている。

 さらに梶浦氏は北方領土問題だけを研究対象とするのではなく、琉球諸島の問題をも合わせて研究対象とした。この二つの問題の処理が米国の政策において微妙に結び付けられていたという想定のもとに、この両者の関係を系統的に分析していくのである。このような分析は梶浦氏がはじめて行うもので、本論文は戦後日本の領土問題に対する米国の政策の構造を明らかにする野心的な試みとなっている。

 以上のような問題関心と方法論を開陳した序章につづいて、本論は3つの章からなっている。

 第2章は「第二次世界大戦中の対日戦後構想」である。1941年8月、ローズヴェルトとチャーチルは、「領土不拡大の原則」や「民族自決の原則」などを定めた大西洋憲章を発表した。米国務省は43年の夏ごろから、戦後の日本領土の処理に関する研究を本格的に開始した。梶浦氏はそのさまざまな資料や提案を悉皆的に調査し、検討した。そして、それらがいずれも「大西洋憲章の潮流」に従ったものであったと確認している。すなわち琉球諸島も、国後、択捉の島々も日本領にとどめることが考えられていたのである。ところが、45年2月、ローズヴェルトはヤルタ協定に署名し、ソ連に対日参戦の代償の一部として、南樺太と千島を与えるという取引を行った。従来ローズヴェルトが千島の来歴を知らずに、これを日本が戦争で奪ったものと理解していたとの説が強かったが、梶浦氏はローズヴェルトは千島の来歴を承知した上で、この協定を結んだと結論する。ここでローズヴェルトは「大西洋憲章の潮流」から離れ、戦勝国の利益を敗戦国の利益に対して優先させるという「ヤルタ協定の潮流」に乗り移ったのである。ところがローズヴェルトの死後大統領となったトルーマンはソ連に対して不信を抱きはじめた。45年7月に発されたポツダム宣言は、カイロ宣言の履行を明記し、日本の領土は四大島と連合国の定める諸小島に限定されるとした。これによって、カイロ宣言にある「領土不拡大の原則」は確認されたが、諸小島の処理に「民族自決の原則」が適用されるかどうかは不明であった。琉球については米軍部はすでに軍事基地をおくことを希望していた。他方南樺太はソ連領と認められても、「領土不拡大の原則」からすれば、日本が侵略で奪ったのでない千島をソ連にわたすことは法的には不可能になるような規定になっており、ヤルタ協定を認めるべきでないという米国の姿勢が隠されていたと考えられる。さまざまな思惑から領土の帰属を曖昧なままにしておく、このような方式が「ポツダム宣言の潮流」とされる。

 第3章は「対日講和条約への過程」である。ソ連はヤルタ協定をたてにとって、南樺太、千島列島を占領し、併合をめざしていたが、米国では占領した琉球の排他的管理をめざす軍部とそれを憂慮する国務省との対立が生まれた。米政府の中には日本の旧委任統治諸島に対する米国の戦略的信託統治をソ連に認めさせる代わりに、ソ連が南樺太と千島を領有することを認めるという考えも生まれた。対日講和の準備は米国務省の極東部で、ボートンを中心にはじめられた。彼が作成した46年8月5日草案では南千島と琉球を日本にのこすという内容になっている。大西洋憲章は無視されていなかったのである。47年に入って新設の国務省政策企画部とケナンがイニシアティヴをにぎった。ここでの検討においては、戦略上琉球諸島は米国が保持すべきであるとされた。そして、北部琉球諸島と南千島を結び付け、ソ連が南千島の領有を日本に認めるなら、米国は北部琉球諸島を日本のものと認めればよいという考えが押し出された。この場合北部と南部の境は北緯29度線であった。49年はじめからアチスン新国務長官のもとで検討が進められ、10月13日に作成された案では、南樺太、北千島のソ連割譲が明記され、南部琉球諸島の放棄、米国を施政権者とする信託統治が盛り込まれた。南千島と北部琉球は日本領とされたのである。ところが、11月2日の新しい案では、南千島もソ連に割譲されるとの修正が加えられた。その理由としては、ヤルタ協定は無視できず、択捉、国後島は千島に属さないとは言いえない、琉球を保持するのを望む米国としてソ連に南千島を放棄させられないということが挙げられている。さらに12月29日の案では、歯舞、色丹島は日本領として明記され、手直しがなされている。このように国務省内で幾たびも作り直された講和条約草案を関連資料とともに一つ一つ発掘して、その変化を跡づけているところは、本論文の功績である。

 1950年4月に国務長官顧問に就任したダレスのもとで対日講和の準備は一挙に前進することになる。ダレスが8月につくった最初の案は、南樺太、千島の将来の地位は四国の協議に委ね、合意せねば国連に委ねるという規定にして、琉球については、国連で米国の排他的戦略的信託統治が決定されるまでのあいだは米国の独占的管理を認めるという日本「潜在主権」論の「原型」を打ち出していた。51年1月訪日したダレスは琉球にかんする日本側の強い要請に直面する。梶浦氏は、ダレスはここで琉球に対しては「多少柔軟な態度」をとり、北方領土については日本に対して「強硬な態度」をとることによって、日本人の不満を米国からソ連へ向けようとする戦術をとりはじめたと主張する。琉球に対する「多少柔軟な態度」とは、その北限を南に下げることであり、北方領土についての「強硬な態度」とは、3月草案にソ連への引き渡しを明記することである。同時に歯舞諸島は千島に含まれないとの解釈を示し、さらにソ連が条約に参加しなければ、いかなる利益もえられないという規定も織り込まれた。以後の米英の協議の中で、台湾については日本の放棄のみが書かれているのに中華民国政府が抗議したのをとらえ、ダレスは南樺太と千島についても日本の放棄のみを明記すると修正を提案したのである。この連関は梶村氏がはじめて指摘した。サンフランシスコ講和条約は51年9月8日に調印された。琉球は日本に「潜在主権」を認める米国の独占的管理のもとにおかれた一方、北方領土では、日本が放棄した南樺太、千島の帰属先は確定されず、千島列島の範囲問題もあいまいなままに残された。日本人の領土問題にたいする不満を米国よりはソ連に向けさせるというダレスの戦略はこのように貫かれたのである。ここに梶浦氏は領土問題を曖昧にするという「ポツダム宣言の潮流」が取り入れられたことを見ている。

 第4章は「対日講和条約調印後の調整」である。51年10月17日極東軍総司令官リッジウェイは、はやくも琉球の管理権を日本に返還すれば、千島に関してソ連を守勢に追い込めるとの意見を表明した。ところがワシントンの軍部はこれには反対であったので、ここから北部琉球諸島、北緯29度から27度の間の奄美諸島の返還という考えが生まれた。53年に大統領がアイゼンハウアーに代わり、ダレスが国務長官になると、ただちにこの構想が具体化されはじめる。奄美を返還するのは南部琉球の現状をいっさい変更しないためである。ソ連が日本に対して友好的なジェスチュアをしてくるのではないか、そのあとになって奄美返還を言い出したのでは効果が薄いという考えが決定を急がせた。8月8日ダレスは東京で奄美返還を発表する。奄美返還過程の分析は梶浦氏がはじめて行ったものである。54年には、米国はソ連が管理する歯舞諸島の上空に軍用機を飛行させ、これが撃墜されると、強硬な抗議をソ連に行い、歯舞、色丹の領有は不法であって、認められないと申し入れた。これも日ソ間に楔を打ち込もうという目的をもった行為であった。鳩山政権の誕生とともに日ソ交渉がはじまると、米国はこれを不安の目で見た。当初は、国務省は日本がソ連に対して歯舞、色丹を要求することを支持していけば、ソ連が返すことはないので、交渉は難航するだろうと考えていたが、梶浦氏はソ連が日米離間を策して二島返還することもありうるとCIAが見ていたことを明らかにした。米国の態度は四月にNSC5516/1としてまとめられたが、それは日本が二島返還を要求するのを支持し、ソ連が千島列島と南樺太の主権を要求するのを認めないというものであった。梶浦氏はこの米国の立場が駐日大使アリソンから谷外務省顧問に伝えられたことを発見した。大方の予想を越えて、ソ連側はロンドン交渉において二島返還を申し出た。これに対して日本外務省は四島返還と北千島、南樺太の帰属は国際会議で決定するとの対案を提示した。これによってロンドン交渉は事実上決裂状態になる。55年秋の保守合同で生まれた自由民主党の党議においては、四島を「無条件に返還せしめる」という強い表現が盛り込まれた。日ソ交渉は56年7月重光外相の訪ソによって再開される。ソ連の態度が変わらないので、重光は二島返還で平和条約締結をはかったが、本国政府の同意が得られなかった。そしてロンドンで重光はダレスから、それならサンフランシスコ条約26条によって琉球は返還しないと威嚇された。日本国内には大きな動揺がおこった。米国は正式に態度表明することを迫られ、9月7日四島は日本に返還されるべきだとの覚書を日本政府に手渡した。ダレスの意図は「実際には、日ソ間の領土問題が解決して、日ソ関係が緊密になることを恐れ、この問題を未解決のままにしておこう、と考え」ていたものだと梶浦氏は分析する。結局鳩山の訪ソによって領土棚上げで国交回復することになり、10月19日平和条約を締結すれば歯舞、色丹島を返還すると約束する日ソ共同宣言が締結された。57年5月23日、米国はソ連政府に対して、3年前の米軍機撃墜事件に関連して損害賠償を求めたが、その文書の中で、択捉、国後島は千島に属さないという、1949年以来否定していた見解を認め、日本政府の主張を全面的に支持するにいたった。これはジラード事件がおこり、日本の中で反米感情が高まったという状況と関係があると見られる。

 米国はソ連との領土問題が解決することが琉球の支配にマイナスとなることを恐れて、日ソ交渉に介入した。米国が介入しようとしまいと、日本人の国後・択捉島に対する愛着は存在していたとみる梶浦氏は、米国の介入が効果的であったという田中孝彦氏の見解にただちに同調せず、資料の一層の公開を待つという留保の立場をとっている。ただし、米国の介入はサンフランシスコ条約起草のさい、ダレスが予想したものであったことは間違いないと結論する。

 以上の論述は、米国政府の内部資料を丹念に掘り起こし、丁寧に分析するという形でおこなわれ、領土問題の展開の全体像を描き出すことに成功している。とくに米国の政策の中で、北方領土問題と琉球問題が関連させられているさまを系統的に追求した結果、米国の政策意図をはっきりと解明することができたと言えよう。もとより長期にわたる過程を扱い、資料をこまかく紹介しながらの論述であるため、分析をなお深める余地のある部分もないことはないし、とくに軍事戦略上の分析を加えることが望まれる面がある。しかし、それは本論文の基本的な価値を損なうものではない。本論文が出版されれば、領土問題の基礎的研究として今後の論議のたしかな土台となるであろう。

 以上のような判断から、審査員委員会は本論文が博士(学術)の学位にふさわしいものと判定する。

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