学位論文要旨



No 110757
著者(漢字) 崔,永鎬
著者(英字)
著者(カナ) チェ,ヨンホ
標題(和) 戦後の在日朝鮮人コミュニティにおける民族主義運動研究 : 終戦直後南朝鮮の建国運動との連動を中心に
標題(洋)
報告番号 110757
報告番号 甲10757
学位授与日 1994.06.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第39号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 和田,春樹
 東京大学 教授 山影,進
 東京大学 教授 大沼,保昭
 東京大学 助教授 古田,元夫
 アジア問題研究 所長 朴,慶植
内容要旨

 本稿は、民族をエスニシティと区別して国民統合過程における政治的主体として考え、終戦直後在日朝鮮人の民族主義運動を、国民体意識の顕示現象と捉らえ、朝鮮半島での建国過程との連動の側面を重視しながら、朝鮮半島への引揚と日本での民族団体活動とを大きな二つの事例にして、調査分析したものである。

 以下、本文の内容を研究成果を中心に各章別に簡単に要約しよう。

 第一章では、在日朝鮮人の歴史的背景の説明として、朝鮮半島における長い国家体歴史により、朝鮮半島の人々と日本の朝鮮人とが国家体認識を共有し、植民地朝鮮の回復のため自治獲得運動や反体制運動を共に展開したことと、日本帝国の在日朝鮮人への参政権付与により、朝鮮半島の人々とは違って一時期在日朝鮮人に政治的地位の伸長がみられたが、それは帝国体制と日本社会への同化を前提するものであったことが、各々強調された。それから、終戦直前の状況の説明として、戦争動員体制は、日本と朝鮮において両地域ともに戦争への協力のみを強制し、その体制への在日朝鮮人の対応としては、求心的運動か革命的運動かで対応するしかなかったことが論じられた。そして、対日協力者は日本の取締体制の中で活動しており、反体制運動家は組織的で体系的な運動が不可能だったことが論じられた。

 第二章では、朝鮮人引揚者の援護活動のための民間団体の簇生と戦後のコミュニティとの連結が試みられた。その中で、東京の「朝連」準備委員会が主に戦時興生会メンバーの主導によって作られ、大部分の「朝連」地方団体も、戦時の興生会に携わった人々を中心にできあがった団体からなっていたことと、「朝連」が一貫して引揚援護業務に取り組んだのは、引揚統制体制の未整備のためだったことが、各々指摘された。そして、戦時強制的に動員された人々による引揚殺到の雰囲気が、在日朝鮮人民族団体組織化過程における「本国」志向的性格を一層強めたこと、つまり日本に住み付いていた朝鮮人の3分の1以上の人々が「本国」へ引揚げていき、残りの人々も自らの「残留」を認知するようになり、朝鮮人団体では「いずれ本国へ帰る」ことを組織のロジックとして掲げたことが指摘された。この章の研究を通じて、日本における朝鮮人引揚問題をめぐる当局と民間組織の相関構造や、東京や各地方における在日朝鮮人団体の生成過程が、ある程度明らかになった。

 第三章では、社会団体として結成された「朝連」が政治犯の出獄を契機にして政治的イデオロギーに富んだ団体に発展していく過程と、ソウル中心の「人民共和国」と「民主主義民族戦線」と組織的に連結を図る過程とが、史料の検証を通じて詳しく論じられた。そして、「朝連」に対抗する青年団体「建青」の結成経緯が 「建青」内部資料の発掘と分析を通じて明らかになった。こうして、「朝連」が政治団体に変わっていく過程と、「建青」の組織化過程、そして終戦直後における朝鮮と日本間の朝鮮人団体の連結状況とが、たとえ中央組織の動向に限られたものの、明らかになった。

 第四章では、モスクワ外相会議の決定による朝鮮信託統治問題に対して、在日朝鮮人側がどのように対応したかが論じられた。つまり、反「朝連」勢力が「反託」スローガンの下で結束して「民団」に発展していく過程と、「朝連」内部で「人民共和国」支持及びモスクワ決定支持をめぐって紛糾していく過程、そして左右団体の対立が経済・文化の領域に拡散していく過程が、各々分析された。この部分の研究によって、とくに「建青」を中心に「反託」運動が展開していく過程と、第2回全国大会を前後にして「朝連」の左翼組織化をめぐる「朝連」内部での紛糾過程が、明らかになった。

 第五章では、在日朝鮮人民族主義運動の対外的対応という側面を分析するにあたり、主に「朝連」と「民団」が朝鮮半島の政治的変動と日本の国内体制整備過程に対してどのように対応したかが論じられた。この部分の研究によって、「朝連」が1947年末までも依然としてソウル中心の「民主主義民族戦線」に追従していたことと、「民団」と「建青」が内部的紛糾の中で南朝鮮単独政府樹立の動きに同調していく過程が、明らかになった。そして、民族主義団体の財政状況を通じてその経済的動機を調査する所で、財政力の弱い右派団体については不十分な調査になったが、「朝連」についてはその初期の財政状況や接収状況が明らかになった。なお、日本の体制整備の例として、外国人登録法制整備と財産税制整備が取り上げられ、それぞれに対する「朝連」と「民団」の対応状況が明らかになった。その中で、外国人登録に対しては、戦時のような取締体制への憂慮から反対したのだが、民族主義を掲げる組織として限界のある対応であったことと、財産税適用に対しては、朝鮮人側の民族主義的発想から反対したのだが、日本の住民としては限界のある対応であったことが、各々強調された。

 最後に、結論としては、民族という言葉に対する本稿の見方を、民族は政治化主体である、民族は学習過程を踏む、民族はコミュニケーションを共有する集合体である、民族は想像体であると、各々まとめてから、終戦直後の在日朝鮮人の民族運動は、日本帝国の終結と新朝鮮国家の展開のなかで表出した、旧日本の植民政策への消極的反発感情と新朝鮮国家建設への積極的参加意欲としての、新たな国民体アイデンティティではあったが、多数の定住朝鮮人にとっては、日本社会での生活権確保のための積極的対応ではなく、「保護される外国人」に暫定的に安住するための消極的対応であったと評価した。

審査要旨

 崔永鎬氏の論文「戦後の在日朝鮮人コミュニティにおける民族主義運動研究(終戦直後南朝鮮の建国運動との連動を中心に)」は、本文170頁(400字詰め原稿用紙629枚)、補論15頁、文献目録23頁、付録5頁よりなり、計214頁である。

 今日日本には在日韓国・朝鮮人約68万人(韓国・朝鮮籍で外国人登録をしている者の総数)が定住している。この人々は朝鮮半島の二つの国家、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国のそれぞれにつながる大韓民国居留民団と在日本朝鮮人総連合会という二つの民族団体に組織され、分裂している。朝鮮半島における南北人民の相互理解をすすめるためにも、日本社会におけるエスニック・アイデンティティの保持と権利確保のためにも、二元化した民族団体の融合への努力が在日本朝鮮人コミュニティの課題である。このような課題意識から、崔氏は民族団体の二元化が戦後初期の日本でなぜ、どのようにして成立したのかと問題を設定して、この論文を執筆した。

 この問題に関する従来の研究としては、日本政府関係者による在日朝鮮人の動向調査として森田芳夫、坪井豊吉の研究があり、在日朝鮮人の側からの歴史研究として朴慶植の著書がある。森田の本は朝鮮人の引揚について詳しいが、その問題と残った朝鮮人の団体形成との関連が掘り下げられず、逆に団体形成と運動過程のよき概説である朴慶植の本では、引揚過程がほとんど論じられていない。全体としてはもっとも詳細な坪井の本は、その治安的見地からする叙述が再検討されねばならない。崔氏はこのような研究状況の中で、朝鮮人引き揚げの過程を重視し、それが朝鮮人団体の形成にどのような影響を与えたかを掘り下げて研究するとの視角を立てた。このことが民族団体のいわゆる「本国志向」の民族主義と深い関連があると考えるためである。さらに、崔氏は、在日朝鮮人の本国建国運動への参加の試み、在日朝鮮人運動と本国運動との連動関係をくわしく解明するとの視角を立てる。これは小林知子の論文で端緒的に試みられたものだが、崔氏は大きな限界のあるその試みを発展させ、これまでの実証的限界を乗り越えて、本格的に論じることをめざしたのである。

 以上のような問題関心と方法論を開陳した序章につづいて、本論は5つの章からなっている。

 第一章「在日朝鮮人民族主義の歴史的背景」では、日本帝国主義期の在日朝鮮人の歴史を戦時動員体制が取られるまでと取られた以後とに分けて概観している。1930年代末の在日朝鮮人数は80万人であった。この人々は概して所帯持ちで、日本への定着度が高く、朝鮮半島の朝鮮人と違って、財産資格によって参政権も与えられていた。しかし、職業は移動性の高いもので、教育程度も低いため、政治経済的な学習の面での経験が蓄積されたとは言いがたかった。戦時動員体制期にはいると、1945年8月までに約110万人が強制的、半強制的に日本に移入された。彼らは家族と切り離された単身者で、鉱山や土木事業に従事した。この時期は皇民化の政策が押し進められ、日本に定住している朝鮮人は協和会、興生会という同化団体に組織された。ここにおいて一部の朝鮮人が政治的学習を経験したのであるが、その学習の節囲は戦争協力という狭いものであり、期間も短く、戦後のコミュニティづくりに生かされるには不十分なものであった。崔氏は「在日朝鮮人は自治経験の蓄積を欠いたまま『解放』を迎え」たのだと見ている。

 第二章「朝鮮人の引揚と朝鮮人団体の引揚援護活動」では、まず8月15日を迎えた在日朝鮮人の中で、定住的な態勢にあった人々は多く呆然自失の状態であったのに、戦時動員期に移入された人々は歓喜をもって迎え、帰国に殺到するという異なった動きが確認されている。この引揚熱はやがて110万の移入者のみならず、定住者の3分の1以上、30万人をもとらえ、帰国させた。

 日本政府の送還体制の整備は大幅に遅れたので、援護体制のない中で殺到する引揚者のために、各地の在日朝鮮人は旧興生会の活動家を中心に応急的に組織をつくって、活動しはじめた。このような組織が連合して、東京で10月に在日本朝鮮人連盟(以下「朝連」と略)中央準備委員会を発足させ、宣言と綱領を発表した。この「朝連」に結びつく地方の組織は、引揚援護に積極的に活動し、日本政府は一時は「朝連」を朝鮮人の代表機関として認め、利用した。しかし、やがて引揚統制体制が整備されるにつれて、「朝連」はこの事業から締め出されることとなった。

 140万人の引揚は在日朝鮮人コミュニティの形成にとっての重要な前提であり、これを援護した誕生したばかりの民族団体にも深い影響を及ぼした。後年1982年の韓国青年会のアンケートによって、崔氏は回答者の67・5パーセントがかって帰国の意志を持っていたことを確認し、45年8月当時では朝鮮人の9割が帰国希望であったと推定する。このような引揚熱がのこった人々をもおおったことが、「いずれ本国へ帰る」という民族団体の強い「本国志向」を生んだということが指摘される。

 第三章「民族団体の二元化と南朝鮮との組織的連繋」では、引揚援護活動を展開していた「朝連」につらなる団体は、10月以後日本共産党員であった朝鮮人政治犯が釈放されるとともに、彼らを指導者として迎え入れるようになったことが指摘される。創立大会をへた「朝連」は次第にその内部から「親日派」を追放するとともに政治団体化して行ったのであった。それとともに、米ソ対立を越えて民族主義的大同団結を求める青年たちが朝鮮建国促進青年同盟(以下「建青」と略)を発足させた。この結成の過程は崔氏が新たに基礎的な資料から復元したものである。この組織は、次第に「反朝連」者なら誰でも受け入れるようになり、結果的には在日コミュニティの二元化の一要因に転化してしまった。また名称が示すように、この団体の場合、「本国志向」はいっそう強かったのである。他方で政治団体化した「朝連」は、代表を本国へ送って、南朝鮮の左翼政治団体「民主主義民族戦線」に参加した。

 第四章「朝鮮信託統治問題と在日朝鮮人団体の左右対立」では、45年12月のモスクワ外相会談で打ち出された朝鮮半島の政治体制にかんする合意に対して、信託統治反対を叫ぶ右派と合意賛成を叫ぶ左派が対立した本国の動きが日本にもそのまま持ち込まれたさまが跡づけられている。まず「建青」が信託統治反対の立場を取り、ついで46年2月には「朝連」を追放されたり、脱退した人々を中心に「新朝鮮建設同盟」(以下「建同」と略)が結成され、信託統治反対をいっそう主張した。「建同」は「朝連」と同じく政治団体であったが、組織的には少数者のクラブにすぎず、地方組織をもたなかった。「朝連」は46年2月の第二回大会で、本国左翼の「人民共和国」を支持し、モスクワ外相会談決定を支持した。こうして分裂が深まる中、46年10月、「建同」は、在日朝鮮人の生活を保護するため、政治色ぬきの「居留民団」の結成をはかった。しかしながら、「民団」の中にも自らを「将来帰国する者」と見る考えがあり、そのことは結成宣言書にも表現されていた。結果として「民団」は本国の対立にのみこまれ、日本の朝鮮人団体の右派勢力を構成することになったのである。その組織的力量は「朝連」に遠く及ばなかった。深まった政治的対立はただちには経済・文化団体の分裂には及ばず、在日本朝鮮人商工会、朝鮮奨学会などは47年10月までは、統一を保った。しかし、民族教育の面では、それより早く47年春から分裂が表面化した。こうして、本国の対立が日本に持ち込まれた結果、在日朝鮮人が日本で当面の問題を解決するための努力を統合していくことが妨げられていくのである。

 第五章「在日朝鮮人コミュニティにおける民族主義表出」では、本国で国民国家形成の二元化が進展するのと結びついて分裂した在日朝鮮人の民族主義団体が民族主義的であればあるほど日本の戦後体制の整備の中でひとしく疎外されていく過程が描き出される。47年において「朝連」は、北朝鮮の体制を取り入れたソウル中心の「民主主義民族戦線」の発展型としての国家体を想像し、「民団」と「建青」は左翼を排除した南朝鮮で国民国家を形成しようとする李承晩一派の政権体の発展型としての国家体を想像していた。ところで、日本の戦後体制整備の中で在日朝鮮人にもっとも深い関係を持つ外国人登録令(47年5月2日施行)に対しては、対立している「朝連」も「民団」、「建青」もこれを受け入れ、外国人としての待遇を基本的に肯定した。これはその「本国志向」から帰結する態度であり、自らを一時的な日本滞在の外国人と違わない存在にしたことによって、日本における居住権を放棄したにひとしくなったのである。また財産税の適用に対しては、「建青」、「民団」も「朝連」も解放国民として、日本の税を賦課されるべきでないと主張して、反対している。もっとも「朝連」は途中で態度を曖昧にさせたが、これは日本に住むことを前提にした反体制運動に転換するとの方針が台頭したことと関連している。日本共産党と結びついたその動きに対して、「建青」と「民団」は民族を裏切る「親日派的行為」と非難し、在日朝鮮人コミュニティの分裂はいっそう深まって行ったのである。こうして、在日朝鮮人民族団体は朝鮮人としてのエスニック・アイデンティティを人々をまとめるイデオロギーとすることができず、その自治経験の未蓄積もあいまって、政治的イデオロギーの相剋によってかぎりなく分裂していったと崔氏は見ている。

 最後の「結論」では、崔氏が序章において与えている民族についての定義、「ある歴史的運命によって政治的に結ばれた人々」が想起され、「政治的条件の共通性」、「政治的学習経験の蓄積」、「コミュニケーションの共有」という点から本論で論じられた内容に意味付けが与えられている。在日朝鮮人の「政治的条件」は、朝鮮半島の朝鮮人のそれと比較すると、解放以前には、一時的で表面的な共通性が見られたが、歴史的な背景と定住の現実によって根強い相違性があったことが指摘された。解放後は両地域とも「過渡的な新秩序模索」という共通の条件が出現したが、それも一時のことであり、正反対ともいえる国民統合過程が見られるもとでは、共通性は急速に失われた。したがって、在日朝鮮人民族団体の「本国志向」はそもそも成り立ち得ないものであったのである。「政治的学習経験の蓄積」という点からは、戦時動員体制への協力という程度の政治的経験しかなく、民族財産も少なく、日本人とのコミュニケーションも少なかったことが指摘され、解放後の政治秩序への能動的対応が可能にならなかった原因とされた。「コミュニケーションの共有」という点からみると、本国の国民形成過程の二元化過程がそのまま在日朝鮮人民族団体の二元化を促したことが指摘された。崔氏はまた民族は「想像されたコミュニティ」であるというB・アンダーソンの概念を援用しながら、在日朝鮮人が思い描いた「全く新しい政治秩序」は朝鮮半島において描かれたものとはますます異なって行ったとまとめているが、アンダーソンの概念の内容は本論文には生かされていないと言わなければならない。結論的に崔氏は終戦直後の在日朝鮮人の民族主義運動が掲げたものは、新朝鮮国家建設の参加意欲ではあったものの、日本政府や社会に対して生活権を確保するための積極的イデオロギーではなく、結果として「保護される外国人」に安住するための消極的イデオロギーとなったと評価する。

 なお補論「南朝鮮における引揚者受け入れ体制と引揚者の状況」は本文中の在日朝鮮人の引揚過程の分析と連結し、従来研究されていなかった帰国後の引揚者の状況を解明したもので、小文ながら、学界への貴重な貢献である。

 以上の論述は、新しい資料の掘り起こしに基づき、戦後初期の在日朝鮮人運動の形成と分裂の過程を新しく、包括的にに解明することに成功している。とくに引揚という現象を重視して、在日朝鮮人の「本国志向」の形成に分析を加えたこと、本国の運動の二元化が在日朝鮮人の運動の二元化を導く過程を掘り下げたところが成功している。全体として、従来の研究にしばしば見られた政治的、党派的な評価を退け、客観的な、妥当な評価を加えていることが、本論文のメリットである。崔氏の研究は歴史過程の実証的な分析にとどまらず、問題の理論的把握をめざす志向性をもっているが、そこに多少の問題がないわけではない。とくに「朝鮮人としてのエスニック・アイデンティティ」ということと「文化・血統の共有性」ではなく「政治的学習経験の蓄積」を重視する崔氏の民族概念とはどのような関連にあるのかが不明確である。また崔氏は民族団体の二元化、運動の二元化をもってコミュニティの二元化と考える傾向をみせるが、これは同義ではなく、コミュニティの状況はそれとして分析されなければならないものである。しかし、以上のような欠陥は本論文の基本的な価値を大きく損なうものではない。本論文は、課題とされた問題に関する初の基本的な学術研究として、在日朝鮮人運動研究に大きく貢献するものと評価できる。

 以上のような判断から、審査員委員会は本論文が博士(学術)の学位にふさわしいものと判定する。

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