本論文は、中央マダガスカル北東部のシハナカ(Sihanaka)と呼ばれる人々について、その民族誌の呈示を目的とするものである。シハナカの人々が居住する地はアラウチャ(Alaotra)という湖を中心とした地域である。現在のこの地には、在来のシハナカのほかに、国内の他地域から移入し、自らもシハナカを名乗るに至った外来のシハナカが存在するが、本論文が主たる対象とするのは在来のシハナカである。論述の主題は、彼らの社会生活に占める墓の意義と、墓を媒介として彼らが有する祖先とのかかわり、および彼ら相互のあいだでの社会関係のあり方にある。 社会関係を語るうえで、従来の社会=文化人類学は親族集団の記述にその焦点を当て、そこにおいてとりわけ出自の概念に重要性を賦与してきた。このことはマダガスカル諸社会の研究においても例外ではない。シハナカの社会関係を論ずるうえで、わたしも出自という概念を導入するが、この出自の概念は個人と親族集団とのかかわりを規定するものとしてのそれではない。シハナカについては、集団論の枠組みを自明の前提とすることはできないのだ。出自の概念によってわたしが問題とするのは、個人と墓とのつながりである。つまり、個人は出自によって結びついた墓に、死後葬られる権利(被埋葬権)を得るということである。 このように出自という概念の用い方を規定したうえで述べるならば、シハナカの出自の特徴は、一人の個人が父からも母からも等しく出自をたどるということに存する。これによって、個人は父母の双方を介して複数の墓への被埋葬権を獲得することになる。実際、こうした複数の墓のうちから特定のただ一つを選別し、そこに葬られねばならないとか、葬られることが好ましい、とする規範は存在しない。むしろ強調されることは、個人はそのどれに葬られても構わないということなのである。 シハナカの墓は個人墓ではなく集合墓であり、それぞれに固有名を有している。元来は土を掘ったなかに次々と遺体を埋め入れる土墓の形式をとっていたが、近年これは石造りの墓にとってかわられつつある。墓は村落ごとに存在し、一つの村落には複数の墓があることが普通である。 ある一つの墓に被埋葬権をもちあう人々は祖先をともにすると認識されているが、だからといって特定の墓に被埋葬権をもつすべての人々が一個の集団を構成するわけではない。一つの墓に被埋葬権をもちあう人々は複数の村落に分散しており、また彼らが協同して活動する機会も日常的には存在しない。一つの墓とのつながりを共有する人々という範疇は存在するとはいえ、その彼らが集団を構成するわけではないのである。 それにもかかわらず興味深いことは、シハナカの墓が村落において特定の村落内区画と対応していることである。たとえば、村落に五つの墓があれば、そのそれぞれに対応するものとして村落空間が五つの領域(「祖先の敷地」)に区分されている。一つの祖先の敷地に居住する人々(婚入者は除く)は、少なくとも対応する墓へは被埋葬権を有しており、さらに対応する墓の祖先に由来する特定の禁忌(「祖先の禁忌」)を日常的に遵守している。一つの墓に被埋葬権をもちあう人々が全体としては複数の村落に分散しているとはいえ、その墓に対応した祖先の敷地に現に居住するこの人々は一個の集団を形成するのではないだろうか。 だが、個人の生死を超えて永続し、外部に対しては単一の集合的な主体として振舞う社会的な実体として集団を解する限り、この人々は集団を構成するものではない。個々人が帰属する場所として意義をもつのはこの意味での集団ではなく、それぞれに消長の過程にある個別の世帯である。彼らの社会生活は、永続的な集団の凝集力よりも個別の世帯の自律性に依拠しているといえる。また、現にシハナカにおいて集団が組織されることはあるにしても、それは特定の機会に当たって、特定の機能を果たすべくアド・ホックに動員される集団(action group)なのである。 個人の社会生活の視点からみれば、その個人は誕生において世帯の一つに生まれ落ち、そこにおいて成長する。そして、その世帯が存在する祖先の敷地の禁忌を遵守する。いうまでもなく、個人がどの村落の、どの祖先の敷地の世帯に生まれるかを決定するものは、その個人の両親が結婚したときの居住のあり方である。つまり個人の居住は、上位の各世代における婚姻のなされ方の通世代的な累積の結果として一つに定まるものである。シハナカでは、夫方から妻方へ贈られる婚資の多寡に応じて四つの型の婚姻が制度化されているが、三つは夫方居住婚であり、一つが妻方居住婚である。このため、妻方居住婚によって誕生した個人が母方の世帯で育ち、母方の祖先の禁忌にしたがう場合もまれではないとはいえ、あくまでも選好される婚姻の形態は夫方居住婚である。したがって、父方の世帯に個人が育ち、父方の禁忌を受け継ぐことが好ましいとされる。彼らの言い回しによれば、「父方が母方よりも強い」のであるが、注目すべきことは、世帯の形成と運営を語る彼らのイディオムにおいて、父方と母方とのあいだに非対称性が設定されていることである。 これに対して、個人と墓とのつながりに関しては、母方に対する父方の優位というような非対称性を云々する余地はない。出自の論理は個人と墓とのつながりの外枠を規定し、出自によって個人が埋葬されうる墓とそうでない墓との境界を明確にするものの、この外枠の範囲内においては、出自の論理は唯一の何ものをも特定しないのだ。 このため、この出自の論理は現実の適用において困難に出会わざるをえない。まずこの論理は、個人を起点として双方的に世代を無限に遡ることで、原理上無数の墓に個人を結びつける。それゆえ、この論理からは「個人はこれらのすべての墓に被埋葬権をもつ」と単純にいいうるような「すべての墓」の外延が決定されない。さらに個人の現実の死に当たって、この論理はその死者を埋葬すべきただ一つの墓を選別しない。 ところが、実際には彼らはある限られた数の墓が自分の埋葬されうる墓の「すべて」であるとみなしている。また、死者を現に埋葬する墓は一つでしかない。それゆえ問題は、潜在野からある限られた領域が切り取られる仕組みにこそあり、また限られたこの領域から最終的なただ一つが選択される仕組みにこそあるのである。この仕組みが出自の論理それ自体からでてこないとすれば、それはどこからでてくるのだろうか。 シハナカの人々によれば、個人がつながりをもつ墓は原理上無数であるのだが、記憶の限界によって忘却される墓が生じ、そこに限定が課されるという。だが、出自の論理からは、記憶にとどめるべき墓と忘失してもよい墓との弁別さえもがなされえないはずなのだ。 墓に関する彼らの記憶は、彼らが自己を起点として父方・母方の双方の上位世代について有する系譜的な知識の濃淡と関連する。そして、この系譜的な知識の偏りを生む要因は、個人の居住の場所である。つまり個人は、自分と同じ祖先の敷地や同じ村落に居住してきた祖先について相対的に詳しい知識を有しており、それらの祖先を介して自身がつながりを有する墓についても詳しい。個人が墓とのつながりを認識するうえで所与となるものは、父親が被埋葬権を有する墓と、母親が被埋葬権を有する墓の、それ自体限られた数の墓のストックであるのだが、個人は父母それぞれのこの墓のストックから、自己を起点とした関係のあり方の濃淡に応じて、それらの一部を単に受け継ぐことなく、自身の墓のストックを構成するのである。原理上無数の墓へと個人を結びつける出自の論理は、個人の現実的な関係の実践において制約を課されるのだ。 しかし、こうしてある限定された数の墓が特定されたとしても、出自の論理によってそのそれぞれは個人にとって重みが等しいとされる。だが、個人の死に際しては、死者を葬るただ一つの墓を選ばなければならない。では、死者を埋葬する唯一の墓はいかに特定されるのだろうか。 それは、特定の親族に対する、あるいは特定の居住の場所に対する、当人の情緒的な価値づけのあり方にかんがみてである。彼らはそう語る。たとえば、「わたしは親族の誰々ととりわけ親しかったから、誰々が埋葬されている墓に入りたい」とか、「この祖先の敷地が長年住み慣れてきた場所だから、この祖先の敷地の墓に入りたい」といった具合である。 しかし、個人を埋葬すべき墓の選択について彼らが言及するこうした情緒的な価値づけが、純粋に情緒的でしかないものに基礎づけられていると考えねばならないわけではない。情緒に言及する語りで示唆されていることは、当人がその個別の生活史において特定の親族とのあいだに独特の社会関係を培ってきたということであり、あるいは特定の居住の場所を定点として社会関係を実践してきたということである。したがって、すべての墓との同等のつながりを規定する出自の論理は、個人の特個的な関係の実践において再び制約を課されることになるわけなのだ。 このように出自の論理は、個人の関係の実践からの制約を二重に課されることで、潜在から顕在へ、無限から唯一へ、「開かれたもの」から「閉じられたもの」へと、その具体性を高めつつ現象する。だが、死者の埋葬の直前になされる「入らざる墓への禁忌祓い」の儀式は、個人を埋葬すべき唯一の墓が事実として選択されたとしても、この選択が複数の出自の系からある単一の系を選択するものではないことを示している。そこで目指されていることは、唯一を指示しえない出自の論理と、唯一を指示せざるをえない実践とのあいだの溝を解消し、実践からの制約にもかかわらず、出自の論理をすくい上げることにほかならないのである。 |