本論文は第一回が1989年2月から12月、第二回が1991年7月から10月、そして第三回が1993年6月から9月までの三回にわたり、中国湖北省の一農村・秦家寨で行なったフィールド調査から得たデータに基づいて書かれた現代中国の社会変化に関する文化人類学的な記述・分析である。研究の目的は主に1949年10月に中華人民共和国が成立して以来1993年9月現在に至るまでの期間に、村落の社会構造が社会主義近代化の過程でいかに変化し、または変化しなかったのかを究明する試みにある。 本論文の特徴は以下のようである。(1)本論文は一人の中国人研究者が自分の出身農村地域の社会変化に関する民族誌を提供したものである。(2)湖北省の農村地域に関する文化人類学的調査研究が従来行なわれていなかったので、本論文はこの地域に関する初めての民族誌である。(3)本論文は一つの農民社会・文化に関する微視的研究の試みであるが、筆者は秦家寨の社会構造と文化変化を巨視的な視点からも考察した。(4)本論文では社会主義近代化の過程に秦家寨及びその周辺地域で起きた社会・文化変化の全体像を描き出すために、国家政策、村落形態、家族構造、宗族組織、婚姻形態、人生儀礼、経済関係、政治組織及びそれらの変化形態という諸側面から総合的に記述・考察している、 本論文は主に三部から構成されている。即ち、 第一部は二つの章から構成されている。第一章では主に中華人民共和国が成立して以来、共産党政府が農村部で実施してきた土地改革、農業合作化、人民公社化、文化大革命、農村経済改革など一連の社会主義的な近代化政策及びその歴史的な背景について基本的なものに限って概観した。第二章では主に秦家寨を囲む自然地理、行政区分、市場圏及び村落形態の概況について考察した。 第二部は四つの章から構成されている。第一章では宗族組織及びその変化について、第二章では家族構造及びその変化について、第三章では婚姻形態及びその変化について、第四章では人生儀礼とその変化について考察した。 このように、第二部では秦家寨を中心にして社会組織と儀礼を分析したが、第三部では秦家寨を越えた地域的な経済形態と政治組織を考察した。第三部は二つの章から構成されている。第一章では経済形態及びその変化について、第二章は政治組織及びその変化について考察した。 論文全体を通して、以下の結論を導き出すことができる。 まず、伝統的な村落の社会構造について以下のことが言える。 (1)村落の特徴:秦家寨は一つの城壁によって囲まれ、その中に秦姓と張姓という二つの宗族集団が空間的に離れて居住している。但し、秦家寨周辺の全ての村落では一つの宗族のみが居住している。 (2)村人の活動範囲:秦家寨は決して一つの自給自足的、閉鎖的な農村ではない。村人の社会的、経済的、政治的な活動は村落自体を越えており、スキナーの指摘するように、羅店街を中心とした標準市場圏にある。 (3)宗族組織:調査地の事例から見れば、華中の農村では伝統的な宗族組織も発達しているが、その発達度は華南と華北の中間にある。東南中国で見られたように、外部に対して、宗族は一つの集団としてまとめられ、宗族間には社会的、政治的、経済的な利益のために械闘や争いが行なわれた。また、宗族内部では系譜的には陳其南が指摘するように、「房」の原理に基づいて機械的に分節していくが、機能的にはフリードマンが指摘するように「房」と「房」の間には社会的、政治的、経済的な面で非対称的な分化が見られる。 (4)家族構造:フリードマンや中根が指摘するように、伝統的な家族形態は合同家族であり、その割合は比較的に少ないが、理想とされるものであった。また、家族はそれ自体社会的、経済的、心理的に解体分裂していく性質をもっている。「分家」のプロセスには均分相続の原則があるが、既婚の息子はもらう分が少なく、それ以外の未婚の息子がより多くもらう場合もあるなど、現実としてなかなかうまく行かない。 (5)婚姻形態:婚姻は親の取り決めと出生日に基づいて男女の相性が決定されるという「八字」と呼ばれる宗教的な信仰によって成り立つ。通婚には「同姓不婚」の原則があり、しかも通婚可能な「親戚」の中で異なる世代間の通婚が禁止されている。婚姻によって結ばれた「親戚」はキンドレッドと類似する社会関係である。 (6)人生儀礼:人生儀礼、特に出産儀礼と葬式儀礼は盛大に行なわれ、「伝宗接代」という家系を継承する父系出自の観念と密接に関わっている。土葬は理想であり、祖先崇拝はその観念を強化する儀礼活動である。 (7)経済関係:土地所有による貧富の差が存在していたが、それは必ずしも裕福な人々が貧しい人々を搾取した結果であるとは限らない。勤勉さ、知恵、病気や旱魃或いは洪水などの自然災害及び「均分相続」制度自体も貧富の差をもたらした。 (8)政治組織:「保甲制度」はいくつかの村落を政治的に組織、管理した。 ところが、このような伝統的な村落社会構造・伝統文化は革命以後、この四十数年の間に大きく変化してきた。その変化について以下のことが言える。 (1)村落形態:伝統的な村落形態は次第に消滅しつつある。 (2)村人の活動範囲:人民公社時期までには、村人の活動範囲は羅店街を中心とした標準市場圏に留まっていたが、人民公社解体後経済的にはその範囲を越えている。 (3)宗族組織:土地改革や文化大革命によって伝統的な宗族組織は一時的に大きな打撃を受けた。 (4)家族構造:伝統的な合同家族は既に消滅し、家族内で父権が低下し、女性の地位が向上し、個人主義が台頭するなど、人間関係が大きく変わった。 (5)婚姻形態:親の取り決めから自由恋愛による結婚へ、早婚から晩婚へ変化し、将来の嫁として幼い時期に結婚相手の家に送られるという「童養」、妾の風習はなくなり、結婚は政府の許可が必要とされるようになった。婚姻には政治的な要素も付け加えられ、「戸口制度」の実施によって「農村人口」は「都市人口」との通婚が殆ど不可能になった。 (6)人生儀礼:人生儀礼での宗教的な要素は全体として簡素化される傾向が見られる。計画出産と火葬化政策は農民の伝統的な出産観念、土葬習慣及び経済的な利益と対立・矛盾する面もあるが、その受け止め方は階層や年令や性別などによって色々なバリエーションが見られる。 (7)経済関係:土地改革によって農民の間に土地所有による貧富の差は少なくなった。人民公社化によって土地私有制度は廃止されたが、農民の生産意欲が低下し、農業生産を急速に発展させるという目的を達成することができなかった。人民公社解体後、農民は土地の使用権を得たことによって生産意欲が高まり、収入も多くなり、生活水準も高くなってきた。但し、農民内部での貧富の差が再び大きくなってきた。また、農民は革命以前と違って常に「戸口制度」による様々な制限を受け、色々な面で農村と都市の格差はさらに拡大した。 (8)政治組織:「保甲制度」が廃止された代わりに村落レベルで共産党の基層組織としての党支部と、党支部の指導下に置かれる貧農協会・村民委員会が作られた。村幹部は共産党政府から与えられた政治権力をもって政治的、経済的、社会的な諸側面から村人を厳しく組織、管理し、村人の生産活動と社会生活全体に深く関与するようになった。村幹部はその権力を村人全体のために行使する場合もあれば、自分のために便宜を計る場合もある。 これらの変化は主に国家から推進された一連の社会主義近代化政策の実施による結果であるが、村落自体の内部要因もある。また、国家政策が一貫していないので、伝統的な農民文化は革命以後一直線に変容してきたのではない。 さらに注目すべき点は革命以後農民文化にはあまり変化しなかった部分もあることである。この点について以下のことが言える。 (1)宗族内の「字輩」による世代の区別・上下の規範は一貫して変化しておらず、以前と同様に社会秩序を維持する機能を果たしている。また、対外的には村人は以前と同様に宗族意識を持ち、宗族間の争いが見られる。また、宗族内部には社会的、経済的、政治的な利益を巡って血縁の親疎によって争う面もあれば、団結する面もある。 (2)「分家」のプロセスにおいての兄弟間の均分相続の原則は全く変化しておらず、また、以前と同様に現実としてはなかなかうまく行かない。 (3)革命以前からの儒教思想と儀礼を堅持するという伝統的な家風は殆ど変化しなかった。 (4)「同姓不婚」の原則は今でも守られ、通婚可能な「親戚」の中で異なる世代間の結婚が禁止されているという原則も守られている。 このように、革命以後、秦家寨の社会構造は変化した部分もあれば、変化しなかった部分もある。今後伝統文化は国家の社会主義近代化政策に適応しながら変容していくと思われる。 |