この論文は、1985年の5月から1988年11月まで、高知県の四万十川下流に位置している中村市下田地区水戸を中心として行われたフィールドワークに基づいた民族誌である。この民族誌の主な焦点は、日本社会の中で「マツリ」と呼ばれるものに置かれている。その中でも、特に「地域集団の儀礼としてのマツリ」を通して、現代日本の地域社会にアプローチしようと試みたものである。 そのような試みの重要かつ大きな理由は、まず日本社会が地域集団の生存と維持にその社会組織・構成原理の優先順位をおく社会であり、その地域集団が行なう儀礼としてのマツリは、地域社会にとってとりわけ重要な意味をもつものであると認識したからである。マツリは、日本の地域社会におけるアイデンティティー確認の最大の象徴であると同時に、実際にその成員の統合機能とアイデンティティー確認の機能を果たしてきたのである。日本の地域社会への人類学的アプローチにおいて、マツリに注目したのは、まさにこのような地域社会に占めるマツリの比重と重要性のためである このような認識から出発し、マツリの動態を通じて地域社会の力動性をみようとする視角とその目的を達成するために、1)この民族誌における空間的な範囲、すなわち共時的枠組の設定、2)時間的な範囲=通時的枠組の設定問題、3)重点をおくべき観点の設定問題、に特に注意を払った。 第一、地域社会における文化の動態を捉えるためには、小規模の地域社会と、フィールドワークを通じて取り扱いできる中規模の地域社会との相互作用をみる必要がある。したがって、この民族誌は、従来の人類学的地域研究における「ムラ」という小規模単位の枠組から、四万十川「流域社会」という中規模単位の枠組みまでを、その共時的枠組として設定する。それによって、日本の地域社会の現状をよりマクロな観点から、またより動態的に捉え、記述する。 第二、地域社会における文化の動態を捉えるためには、民族誌が扱う通時間的範囲を調査時点に限定するのではなく、時間の幅をある程度もたせる必要がある。したがって、この民族誌においては、流域社会が外部の影響を受けて、前例のない急激な変化を経験し始めた第二次世界大戦後の1940年代後半から、フィールドワークが行われた1980年代後半までの、約40年間を扱う。 第三、地域社会における文化動態の様子をみるために、四万十川流域社会の「マツリ」に焦点を当てる。特に、ここで取り上げる流域社会のマツリは、次のような側面に強調と重点をおいて考察する。1)マツリを一つの宗教儀礼として捉えるのではなく、地域社会という空間の中で展開される、地域社会の集団表象として捉えていく、2)地域空間との関係に注意を払いながら、マツリの全体的分節と統合の側面をみるのに重点をおく、3)変化の様子をみるために、まず参与観察時点で行われていたマツリの姿を充実に記述し、過去の記録と比較してみる、4)地域社会の住民多数が参加し、長年にわたって演じられてきた古いマツリ=「伝統的マツリ」だけではなく、ここ数十年来に創り出されてきた新しいマツリ=「現代的マツリ」をも取り上げる、ということである。つまり、この民族誌は四万十川「流域社会」という枠組のなかで、「伝統的マツリ」と「現代的マツリ」という二種類のマツリの動態を把握することで、日本における河川流域研究としての位置付けを試みたものである。 以上のような問題意識と視角、そして方法論の選択を通じたアプローチの結果、次のようなことを指摘することができると思われる。 第一に、日本の地域社会・住民にとってのマツリは、地域社会の共同意識、すなわちコミュニティーへのアイデンティティーの確認の核であり、最大の手段となっている。したがって、マツリを創り出し、断絶なくそれを維持していくこと、即ちマツリの創出と持続というものは、地域社会の持続と生存のためにとりうる最大の戦略の一つである、ということである。 このような地域社会の生存戦略としてのマツリの創出という視角は、特に「現代的マツリ」の創出を理解するのに有効である。つまり、1980年代を通して行われた「現代的マツリ」の大量創出は、地域社会の維持と存続における危機状況と不可分の関係にあるといえる。いいかえれば、地域社会はその存続と維持のためにあらゆる戦略を駆使してきたが、その一つに「現代的マツリ」の創出がある、ということである。もともと、ある社会における新しい文化の創出というのは、その社会が直面した危機に対する文化的対応である、と把握することができる。ということは、日本社会における新しい文化の一つの様式としての「現代的マツリ」は、アイデンティティー確立を通した「地域社会の生存危機に対する文化的対応方式」という言葉で置き換えることができるのである。 第二に、流域に生きる人々がもつ「川=自然に対する解釈の変化」をあげることができる。これは、「流域社会」という枠組をもって、日本の地域社会の把握を試みたこの民族誌が至る自然な成り行きであるといえる。流域住民にとって四万十川は、その時代時代によって変わってきた。例えば、古代以来長い間流域住民が四万十川に対してもってきた認識として、「母なる川」と「暴れ川」という言説がある。これは、自然に従う生存の時代における意味付与であったといえる。それが、自然に向かう開発の時代である産業化過程においては、その意味付与が変わってくる。つまり、開発の対象としての四万十川がそれである。しかし、外部社会から利用価値がないものとして評価された四万十川は、住民からも疎外されるようになる。ところが、1980年代に入ってから再び外部社会の評価によって、それに対する認識が変わった。「日本最後の清流」というのがそれであるが、それによって流域社会は新しい活路を見出す意味付与を始めたのである。 「川が変わる」ということは、その時代状況の下で、人々がそれに対する考え方、すなわち自分を取り巻く自然に対する認識をかえる、ということである。つまり、川に対する認識と概念を新しく定義することによって、川は人々の中で変わっていくのである。いいかえれば、自然はその場にあるだけであるが、人々がその自然に対するシンボルを再規定していくという意味である。 さらに、川は開発より保全の対象であり、人工より自然に近いものが価値あるものであるという認識は、20世紀末において人間が感じる生態界への危機意識と関っている問題でもある。これは、未来を指向し展望しようとする際、一番最初に現れるテーマとしてのエネルギーの問題に帰着する。つまり、川というものが、今までとは違った方式で新しく迫ってくる時代にさしかかっていること、また流域社会にとってそれに付随する意味あるいは象徴付与作用が新しく必要であるということ、なのである。四万十川に対する流域住民の認識の変化は、地域社会が新しい生存の危機に直面した時、それをどのような方式で克服するのか、この課題のために人々がどのようなシンボルを創りだしているのか、といった問いに対する一つの例を見せているといえる。 流域社会を始めとする日本の地域社会は、自然に対する再解釈と同時に、人に対する再解釈をも試みている。川に対する認識は、社会の変化によって絶間なく変わっているのである。同時に、社会の変化によって引き起こされた川に対する認識の変更過程は-自然に対する流域住民のシンボリング過程-は、再び社会を変えていくのである。 第三に、社会・文化というのは、静態あるいは断絶の状態にあるのではなく、動態と連続、そして相互作用と相互規定をしている、ということを指摘することができる。例えば、空時的側面からみた場合、最少枠組(水戸)と中範囲枠組(流域社会)、また中範囲枠組と最大枠組(日本社会)は、お互いに相互作用をしながら同時に相手を再規定しあっている。つまり、マクロな枠組である日本社会(国)の政治経済的構造が変わることによって、ミクロな枠組である流域社会のような地域社会の再組織は避けられないものになる。同時に、地域社会の変化は、日本社会全体の構造と方向の転換を促しているのである。 通時的側面からみた場合の伝統(例えば、「伝統的マツリ」)と現代=(例えば、「現代的マツリ」)の関係も同じである。地域社会が変わると、マツリもその姿を変える。と同時に、マツリの変化は地域社会を再び規定するようになる。例えば、高度経済成長期におきた社会変化は、地域社会における「伝統的マツリ」の姿を変えてきた。しかし、時間の経過にともなって、地域社会はまた「伝統的マツリ」に対する再規定も行っているのである。 以上指摘した三つに共通しているのは、「領域」(バウンダリー)の概念である、とまとめることができる。つまり、地域社会・文化の動態的側面を捉えるために、この民族誌は、「領域」をいくつかの側面から規定してみたのである。いいかえれば、伝統と現代の断絶、50年代と60年代の断絶、川(自然)と人の断絶といったものではなく、お互いは連続しているものであり、相互作用しているものとして把握することができるのである。文化・社会・人々は、一つ一つそれ自体としては規定することはできなく、その三つが互いに互いを規定し合うしかない、三すくみの状態にあるのである。 |