学位論文要旨



No 110767
著者(漢字) 長谷川,智之
著者(英字) Hasegawa,Tomoyuki
著者(カナ) ハセガワ,トモユキ
標題(和) +,K+)反応によるΛハイパー核,10ΛB,12ΛC,28ΛSi,89ΛY,139ΛLa,208ΛPbの分光学的研究
標題(洋) A spectroscopic study of Λ hypernuclei,10ΛB,12ΛC,28ΛSi,89ΛY,139ΛLa,and 208ΛPb,by the(π+,K+)reaction
報告番号 110767
報告番号 甲10767
学位授与日 1994.07.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2822号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 早野,龍五
 東京大学 教授 石原,正泰
 東京大学 教授 山田,作衛
 東京大学 教授 野村,亨
 東京大学 教授 山崎,敏光
内容要旨 1、実験の目的

 Λハイパー核は、陽子と中性子から成る原子核にΛ粒子が結合した状態である。Λ粒子は、核子によるパウリ排他律を受けないため原子核の内部まで入り込むことができる。また、Λ-核子間相互作用は核子-核子間相互作用に比べ弱い。その結果、Λ粒子はハイパー核のなかで単純な単一粒子軌道状態に束縛されることが期待される。Λハイパー核の研究は、新しいバリオン多体系の研究であると同時に、核物質中でのバリオンの振る舞いやΛ-核子間相互作用を調べる有効な方法でもある。

 Λハイパー核は1952年に原子核乾板中に初めて観測されたが[1]、とくにカウンター実験[2]の始まりをかわきりに、(K-、π-)、(stop K-、π-)反応により、精力的にその研究が行われてきた。ただし、観測される状態は主として軽いハイパー核の基底状態ヤsubstitutional状態(Λが、反応する前の中性子と同じ軌道角運動量に束縛される状態)に限られていた。そこで、重いハイパー核までの広い質量数にわたり様々なΛ束縛状態を観測するのに適しているとして(π+、K+)反応が提案された[3,4,5,6]。とりわけ、重いハイパー核の深い束縛状態を分離できる可能性が指摘された。これは、運動量移行が0.35GeV/c程度と大きいために、軌道角運動量最大の中性子空孔状態とΛ粒子状態が角運動量最大に結合した状態が選択的に生成されるためである。このような(π+、K+)反応の有効性は、BNLとKEKにおける質量数89までの限られたエネルギー分解能での実験によって確認された[7,8,9]。

 本実験は、(π+、K+)反応によって質量数10から208まで系統的に、これまで以上の分解能2MeV(FWHM)で精密にΛハイパー核のエネルギースペクトルを観測しようというものである。とりわけ質量数89より重いΛハイパー核の深い束縛状態を分離、観測しようとする初めての試みである。これにより、原子核内部でのラムダ粒子の状態を調べ、また、Λ-核子相互作用に関する情報を得ることを目指している。

2、実験装置と解析方法

 実験は、1993年2月から7月にかけて高エネルギー物理学研究所12GeV陽子シンクロトロンの1.06GeV/c π+中間子ビームを用いて行われた。139ΛLaや208ΛPbなどの重いΛハイパー核の殼構造を観測するためにはエネルギー分解能2MeVを達成することが最も重要である。そのため、高運動量分解能(0.1%)かつ広立体角(100msr)を誇る超伝導K中間子スペクトロメータ(SKS)が建設された[10]。図1にSKSの概観図を示す。K+中間子の運動量は、測定した磁場分布を用い、ドリフトチェンバーSDC1〜4による位置データからRunge-Kutta法により計算する。一方、ビームπ中間子の運動量はビームラインに設置されたQQDQQ系によってSKSと同程度の分解能で測定する。

図1:SKSの概観図

 ところで、(π+、K+)反応はバックグラウンドである他のπ原子核反応に比べて断面積が極めて小さい。SKSでは、TOFカウンター(TOF)、ルサイトチェレンコフカウンター(LC)、大型エアロジェルチェレンコフカウンター(AC1,AC2)[11]の組み合わせで強力なK+中間子トリガーを構成している。データ解析では、TOFカウンターによる飛行時間測定法により散乱粒子の質量を計算しK+中間子事象を選別する。図2に散乱粒子の質量分布の一例を示す。

図2:散乱粒子の質量分布
3、実験結果と考察

 図3に得られた12ΛC、10ΛB、139ΛLa、及び208ΛPbのエネルギースペクトルとガウス関数によるフィッティング曲線を示す。

図3:12ΛC(左上)、10ΛB(右上)、139ΛLa(左下)、208ΛPb(右下)

 12ΛCに関しては、と記した2つの大きなピークとともに、その間に2つのピークが初めて分離、観測された。前者は(π+、K+)反応の特徴である軌道角運動量最大の中性子空孔状態にs、p軌道のΛがそれぞれ結合した状態である。このピークの幅は、実験的にエネルギー分解能2MeVが達成されていることを示している。一方2つの小さなピークは、S軌道のΛに励起した芯核11Cが結合した状態である。そのピーク位置はおおまかには11Cの準位を反映している。10ΛBに関しては、基底状態以外に3つのピークが初めて観測された。これらは、12ΛCの場合と同様、s軌道のΛと芯核9Bが結合した状態であり、観測されたピーク位置はおおまかには9Bの準位を反映している。これは、Λが芯核に与える効果は小さいという弱結合描像が近似的には成立していることを示している。逆に、励起エネルギーの違いはΛ-核子相互作用に関する情報を含んでいる。このような芯核励起構造が観測されたことにより、configuration mixed shell modelによる計算[12]との精密な比較が可能となった。現在、芯核の波動関数とともに、反応機構や有効Λ・核子相互作用に関して詳細な検討が進められている。

 139ΛLaと208ΛPbに関しては、(π+、K+)反応の特徴である軌道角運動量最大の中性子空孔状態、それぞれh11/2-1とi13/2-1、に様々なΛ軌道状態が結合した状態を反映していると解釈できるピーク構造が観測され、(π+、K+)反応が重たいΛハイパー核の研究に有効であることが改めて確認された。これら主要なピーク位置は、Woods-Saxson型Λポテンシャルによる計算とほぼ対応している。この結果は、139ΛLaや208ΛPbのような重いΛハイパー核の内部においてもΛの単一粒子描像が成立していることを支持している。一方、観測されたスペクトルから、軌道角運動量最大の中性子ホール系列(h11/2-1とi13/2-1)以外の系列が強く生成されていることがわかった。

4、まとめ

 Λハイパー核、10ΛB、12ΛC、28ΛSi、89ΛY、139ΛLa、208ΛPbのエネルギースペクトルを(π+、K+)反応によりエネルギー分解能2MeVで観測した。重い核に関しては、Λの殼構造を反映したピーク構造が観測され(π+、K+)反応の有効性が改めて実証された。139ΛLaや208ΛPbのような重い核の内部においてもΛの独立単一粒子的描像が成立していることを支持する結果が初めて得られた。一方、軽い核については、芯核が励起した状態が観測され、理論計算との精密な比較が可能となった。これにより、ハイパー核構造のより精密で系統的な理解とともに、Λ-核子相互作用に関する情報が得られた。

5、参考文献[1]M.Danysz et al.,Phil.Mag.44(1953)348.[2]M.A.Faessler et al.,Phys.Lett.46B(1973)468.[3]H.A.Thiesen,AGS Proposal 758(1980).[4]C.B.Dover et al.,Phys.Rev.C22(1980)2073.[5]H.Bando et al.,Prog.Theor.Phys.76(1986)1321.[6]T.Motoba et al.,Phys.Rev.C38(1988)1322.[7]R.E.Chrien,Nucl.Phys.A478(1988)705c.[8]P.H.Pile et al.,Phys.Rev.Lett.66(1991)2585.[9]M.Akei et al.,Nucl.Phys.A534(1991)478.[10]O.Hashimoto et al.,IL Nuovo Cimento 102A(1989)678.[11]T.Hasegawa et al.,Nucl.Instr.and Meth.(to be published)[12]K.Itonaga et al.,Prog.Theor.Phys.84(1990)291.
審査要旨

 本論文は(π+,K+)法によってΛハイパー核分光を行った結果をまとめたものである。実験は筑波の高エネルギー研究所の陽子シンクロトロンに建設された,高分解能・大立体角の超伝導スペクトロメターSKSを用いて行われた。

 陽子と中性子で構成された通常の原子核にΛハイペロンが結合したものをΛハイパー核と呼び,原子核物理の興味ある研究対象である。特に,Λを用いて原子核に深く束縛されたハドロンの殻模型軌道を研究することにより,Λ-核子相互作用,核物質中でのΛの振る舞いなどを調べることが出来る。

 通常,原子核の深い束縛状態の殻模型軌道を調べるには,空孔のエネルギー準位を観測する手法をとるが,深い軌道に空孔を作った原子核は高励起状態にあるため,強い相互作用によって短寿命で崩壊し,精密な分光はできない。これに対し,Λは陽子・中性子からパウリ禁制を受けないため,重い原子核においても殼模型軌道の基底状態を占めることが可能である。しかし,仮に原子核中でΛ中のクォーク自由度の一部が解放されると,クォークのレベルでパウリ禁制が働き,Λハイパー核のエネルギー準位を押し上げる可能性も論じられており,重いΛハイパー核の精密分光に興味が持たれてきた。

 Λハイパー核の生成法として従来広く用いられてきたのは,(K--)反応で核内にストレンジネスを注入し,中性子をΛに転化する方法である。この反応は,主としてsubstitutional状態(Λが中性子と同じ軌道角運動量に束縛される状態)を生成する特徴を持つ。これに対し,(π+,K+)反応は,運動量移行が大きいため,substitutional状態以外の軌道にΛを入れることが可能であり,また,この際,軌道角運動量が最大の中性子空孔状態とΛ粒子状態が角運動量最大に結合した状態が選択的に生成されるという特徴を持つ。

 しかし,(K--)反応によるΛ生成の断面積がmbのオーダーであるのに対し,(π+,K+)反応の断面積ははるかに小さくbのオーダーであるため,分光を行うには大強度のπビーム,大立体角・高分解能のKスペクトロメター,確実なK+の識別とバックグラウンドの除去が必須である。これらの条件を満たすものとして,100msrの立体角,エネルギー分解能2MeV,更に,TOF,ルサイトチェレンコフカウンター,大型エアロジェルチェレンコフカウンターを組み合わせて強力なK+中間子識別能力を持つ超伝導スペクトロメター(SKS)が建設された。

 実験は,1.06GeV/cのπ+ビームを用い,10B,12C,28Si,89Y,139La,208Pbを標的として行われた。その成果は次のようなものである。

 1)10ΛB,12ΛC,28ΛSi,89ΛY,139ΛLa,208ΛPbの各Λハイパー核のエネルギースペクトルを(π+,K+)法によってエネルギー分解能2MeVで測定した。これは,質量数89以下のハイパー核については,従来のデータを分解能,統計精度の双方で凌駕し,また,それ以上のものについては全く新しいデータである。

 2)これまで知られていたピークに加え,10ΛBでは3つ12ΛCでは2つのピークが新たに観測された。これは,SKSの高分解能と高統計によって初めて可能になったものである。理論との比較から,これらのピークは,Λがs軌道を占め,これが芯核の励起状態と結合したものであると同定された。

 3)139ΛLaと208ΛPbについては,Λがs,p,d,f,…,の殻模型軌道に入って生じたピーク構造が初めて観測され,それらのピーク位置はWoods-Saxon型のΛポテンシャルを仮定した計算とよい一致を示している。このことは,208ΛPbのような重いハイパー核の内部でもΛの単一粒子描像が成立していることを支持している。これは,Λが核内で部分的に独自性を失い,クォーク自由度の一部が解放されているかもしれないと言う仮説に対し,強い制限を与える重要な結果である。

 4)一方,139ΛLaと208ΛPbピークと連続部分の比率は,理論予測よりも小さい。これは,理論では,(π+,K+)反応でハイパー核を作る際に,軌道角運動量が最大の軌道にある中性子が選択的にΛに転化されると考えられているのに対し,実際にはそれ以外の軌道の中性子からの寄与も予想外に大きいことを示している。

 以上,新しい装置を建設し,それによって従来得られなかった良質なデータを収集して,Λハイパー核の理解を一層押し進めた成果により,本論文は博士(理学)の学位に値するものであると,審査員全員が判定した。

 なお,本論文は橋本治氏以下18名との共同研究であるが,論文提出者はSKSスペクトロメターの建設段階からこの研究に関わっており,運動量再構成に関わるハードウェアの建設に多大な貢献をした。また,データ解析はすべて論文提出者が行っており,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54423