学位論文要旨



No 110769
著者(漢字) 金,海東
著者(英字)
著者(カナ) キム,ヘドン
標題(和) 中規模細胞状対流の維持機構及びやませ気流の気団変質過程に関する研究
標題(洋) Study on mechanism to maintain MCC and air mass modification process in Yamase event
報告番号 110769
報告番号 甲10769
学位授与日 1994.07.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2824号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山岬,正紀
 東京大学 教授 松野,太郎
 東京大学 教授 住,明正
 東京大学 助教授 木村,龍治
 東京大学 助教授 中島,映至
内容要旨

 大気境界層内部の熱力学的性質の変質過程は、地表面から大気への熱輸送過程で重要であるのみならず、その内部で独特の気象現象を生み出す点でも興味深い。日本付近では、その例を冬季でも夏季でも見ることができる。冬季においては、北西季節風の吹きだし時に、日本海、東シナ海上で、寒気層が海面から熱を供給されて気団変質が生じるが、その際に寒気層内部で組織な対流運動(中規模細胞状対流、MCCと略す)が発生する。また、夏季には、オホーツク海高気圧下の海洋上で寒気層が形成され、その一部が東北地方の太平洋側に南下して、初夏の低温と曇天をもたらす。この現象は「やませ」と呼ばれ、農作物に対する自然災害を生む。

 このように、海洋上の寒気層の気団変質過程は、独特の気象現象を生むわけであるが、そのメカニズムは複雑で、まだ十分に解明されていない。本研究の目的は、海洋上の寒気団が海面から顕熱・潜熱を供給されて気団変質が行われる際に発生する対流のメカニズムを数値実験で調べることである。

 数値モデルは、非弾性近似ブシネスク方程式を用いた2次元のモデルで、幅100km(第1部)または13km(第2部)、高度4kmまたは2kmまでの大気層を扱い、海面からの顕熱・潜熱フラックス、対流層内での雲の形成、雲頂からの放射冷却及び乾燥空気のエントレインメントを考慮する。また、定常状態の対流運動の構造を調べるため、場合によって200時間以上の長時間積分を行った.

 論文は、第1部で冬季のシベリア気団の変質過程に関係した問題、第2部で夏季の「やませ」気流の気団変質過程に関係した問題を扱う。それぞれの結果は、以下のようにまとめられる.

 第1部 中規模細胞状対流の維持機構

 冬のシベリア高気圧の張り出し時に海洋上でよく現われるMCCにおいての大きな偏平度の細胞状対流が形成される過程を数値実験で調べた。衛星画像及びAMTEXの観測結果を見ると、寒気が南方向に進んでからはclosed cell typeの雲が見られ始め、気温が海面水温よりやや高くなることが分かる。この時期の対流層はほぼ中立あるいは弱い安定な成層を成しており、顕熱フラックスは下向きになっているにもかかわらずMCCが長時間持続する。特にこの段階のMCCの維持メカニズムに着目した。

 幅100km、高さ4kmの計算領域を設定して高さ2kmに強い逆転層を設定して、すべての物理過程をいれた数値実験を行い、偏平度6程度のMCCが再現されることを確認した。次に、偏平度の大きな細胞状対流を成すメカニズムをもっと詳しく調べるために対流を駆動させる物理過程を分離して実験を行なった。その結果対流の類型は上昇域と下降域の成層状態に基づいて以下に示す4つのtypeに分類されることがわかった。

 (ア)Type I:不安定な成層状態で現われる対流。本研究では顕熱フラックスのみによって駆動されている対流に当たる。偏平度が最も小さく現われる対流の類型である。

 (イ)Type II:積雲対流のように上昇域は雲に覆われているが下降域には雲が覆っていない湿潤対流。大きな偏平度が最も得られやすいtypeである。

 (ウ)Type III:雲頂での冷却効果が無視でき、かつ対流層全体が雲に覆われている湿潤対流。成層状態は上昇域も下降域もやや安定である。偏平度はType IとType IIとの中間位である。

 (エ)Type IV:雲頂での冷却効果が対流の駆動力として重要な役割をしている湿潤対流にあたる。偏平度はType IIIに比べてやや小さい。

 大陸から乾燥した寒気が海面上に吹き出すと、初めてはType Iに近い対流(顕熱フラックスが優勢な役割をしている対流)が発達するので偏平度の小さい細胞状対流が現われるが、時間の経過に伴い、Type II-IVに近い偏平度の大きな湿潤細胞状対流(潜熱が重要な役割をする対流)に発達して行くことが分かった。

 つづいて、closed cell typeのMCCが現われ始めると海面温度が気温より低く、気層はやや安定な状態を保つようになる。このような状況でもMCCは長時間持続する。この段階での対流を駆動させる力はAgee(1973)等が主張したように雲頂での長波放射冷却である。しかし、湿潤対流では雲頂での冷却効果を無視された場合でも、上昇域で解放される凝結エネルギーが海洋上の細胞状湿潤対流を長時間持続させる駆動力になるメカニズムがあることが分かった。下層の空気が不飽和で、海面からの潜熱の補給がある限りその対流はいつまでも維持する。

PART II

 やませは夏季に北日本の太平洋側に吹く冷湿な偏東風と定義されている。やませ時の対流混合層内の対流の発達は、冬のシベリア高気圧の張り出し時に海洋上で発達する細胞状湿潤対流に比べて著しく弱い。時には対流が発達しない。観測値を用いた過去の研究論文によっても、霧あるいは下層雲を伴うやませだけでなく、いわゆる晴れやませも出現する(力石国男(1990)等)。霧を伴うやませ気流には晴れやませになる場合に比べてより低温になるメカニズムが存在する。海面水温は同じ年の同じ季節に大きく変化することは少ないはずである。では、何が原因でこのような違った姿のやませになるのだろうか。PART IIでは、この原因及び活発な対流混合層が起こり下層雲あるいは霧を伴うやませの発現に関与するエントレインメント、雲頂からの長波放射冷却及び海面からの熱フラックス(主に、潜熱フラックス)の相互作用を調べ、やませ時の低温形成のメカニズムについて考察する。

 オホーツク海で十分に冷やされた湿潤な寒気が最短距離を走り東北地方まで至るtrajectoryを仮定し、初期条件および境界条件は観測値に基づいて与えた。数値実験の結果は次のようにまとめられる。

 1)下層雲を伴う対流混合層が活発になるやませ出現のための条件は次のように示される。海面水温分布及び総観場の条件が似ている場合(平年平均値を考慮すると)、やませ時の対流混合層の発達はオホーツク海での下層の変質度に大きく依存している。下層雲あるいは霧を伴う活発な対流混合層が発達するためにはオホーツク海の気団が長時間停滞し下層が変質を受け、ある程度以上の湿度(相対湿度50パーセント以上)及び静力学的安定度も弱まっていること(2K/km以上)が必要である。

 2)下層雲を伴う湿潤対流混合層の発達における、海面からの熱flux(主に、潜熱flux)、entrainment及び雪頂からの長波放射冷却の各々及び相互作用の振る舞いは次のように示される。

 (1)下層から対流が発達するに従い、海面から補給された水蒸気は上部に運ばれながら凝結し、潜熱を発生し、対流の上向き浮力を強める。

 (2)下降領域にエントレインメントによって侵入した安定層からの暖かく乾燥した空気は、雲が全領域に広がる前までは対流の運動エネルギーを弱める役割をするが、雲が対流層上部全体に広がるようになるとCIFKU(Conditional instability of the first kind upside-down)という状態になって、却って対流の運動エネルギーを増加させるように働く。

 (3)雲頂からの長波放射冷却効果は対流層を不安定化させ対流層の成長を助けるだけでなく、雲粒の生成を助長している。

 3)下層雲を伴う湿潤対流混合層の発達に不可欠に関与している海面からの潜熱フラックス、エントレインメントそして雲頂からの長波放射冷却の相互作用をまとめると、対流が発達している時は、潜熱フラックスが大きくなるほど雲頂からの長波放射冷却の量も大きくなって、雲粒の量も速く多く生成され、対流層上部を雲が全部覆うようになると、下降域へのエントレインメントの作用が対流運動エネルギーを強め、対流混合層は急に成長していく。

 4)やませ時の低温発現の最も大きな原因は冷たいオホーツク海での気団変質の過程である。それに加わってオホーツク海から東北地方に至る途中で湿潤対流混合層が発達し、下層雲が生成されると、雲頂からの長波放射冷却効果によって海からの加熱効果が失われて冷たいやませ気流になる。

審査要旨

 本論文は2部からなり、第1部では、日本海や東シナ海上の大気境界層において、北からの寒気が海面から熱と水蒸気の補給をうけて変質する過程で生ずる中規模細胞状対流(MCC)のメカニズムを、第25では、変質を受けながらもなお冷たい気流として東北地方の太平洋沿岸に冷夏をもたらす「やませ」のメカニズムを論じたものである。この2つの現象は、海域や気象状況は異なるものの、放射の効果や海面から熱と水蒸気の補給をうける大気境界層中の対流の問題という共通性をもっていることから、プシネスク方程式系を用いた同一の数値モデルで扱っており、一つの論文としてまとめられたものである。

 第1部「偏平度の大きい長寿命の海洋上の細胞状対流のメカニズム」においては、冬季、シベリア高気圧からの冷たい北西季節風が日本海や東シナ海上で暖かい海面から多量の熱と水蒸気の補給を受けることによって形成される細胞状の対流について論じている。気象衛星からの観測によると、この細胞状対流の水平スケール(セルとセルの間隔)は10km以上で、鉛直スケール約1kmに比べて10倍またはそれ以上あり、偏平度の大きい中規模対流であることが知られている。大気境界層は、海面からの熱の供給によって不安定(鉛直方向の気塊の変位に対して)であると推定され、この場合、古くから知られているベナール対流の理論や室内実験の結果から対流の縦横比は1:1に近いことが期待されるが、上で述べたように観測される縦横比はこれに比べてずっと大きい。この問題に対してこれまでにいろいろな研究があり、たとえば、渦拡散係数が非等方的であるとして説明する考え方などがあった。しかし、本研究の結果によれば、渦拡散の非等方性によっては大きな偏平度を説明するのは難しいこと、対流の効果によって成層状態が湿潤中立(飽和気塊の鉛直運動に対して中立)に近くなることや、下降域ではむしろ安定成層になるために、条件付不安定大気中のよく知られた対流の性質(大きな偏平度)をもつようになるためであることを示した。また、成層が中立、あるいは、やや安定な場合でも、海面からの水蒸気の補給があれば、細胞状対流が長時間持続するメカニズムが存在することを初めて指摘した。対流の厚さが1〜2kmであるのは、その高度に強い逆転層があるためであるが、上方の安定層からの乾いた空気の吸い込み(エントレインメント)の効果についても調べている。エントレインメントの取扱いについては不十分な所もあるが、放射冷却やエントレインメントの効果も含めたこのような数値モデルによる細胞状対流の長時間積分(200時間以上)はこれまで行われたことがなく、この研究からの結果自体に大きな意義があるだけでなく、この方面の研究の今後の発展に資するところが大きいと考えられる。

 第2部「やませにおける気団変質過程」においては、オホーツク海上で形成された寒気が境界層を南下し東北地方に冷夏をもたらす低温の原因と気団変質過程の関係を論じている。まず、オホーツク海上の寒気の初期状態を変えた数値実験を行い、オホーツク海上での寒気の湿度がやませに伴う低温に対して重要な要因であることを明らかにした。また、海面からの熱や水蒸気の補給は南下する寒気を変質させ雲を発生させて温度を上昇させる作用をもつが、放射冷却の効果を考慮すると、雲が存在することによる雲頂からの放射冷却が、海面から補給される水蒸気の凝結による温度上昇をキャンセルする程度の大きさをもつ。すなわち、放射冷却の効果は気温を低下させることによって雲の発達をさらに促進し、やませ気流の気温上昇を抑える作用を持つことを示した。これまで「やませ」に関する研究は、オホーツク海高気圧や、低気圧の後面での気流に着目した総観気象学の立場からの研究がほとんどで、気団変質と雲の効果を取り入れた数値モデルによる本格的な研究はこれがはじめてである。

 以上のように、本研究は、海洋上の大気境界層内部の気団変質のメカニズムを、海面からの熱や水蒸気の補給のみならず、雲頂における放射冷却や乾燥空気の流入の効果などを組み込んだ群細なモデルによる数値実験を基に論じたものであり、細胞状対流と「やませ」の問題に新たな知見を与えたものとして評価される。なお、本研究は木村龍治氏と共著論文として出版される予定であるが、研究の主要部分は論文提出者が主体となって行ったものであり、その寄与が十分であると判断される。

 以上の理由により、本論文を学位論文として合格と認める。

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