学位論文要旨



No 110772
著者(漢字) 長嶋,等
著者(英字)
著者(カナ) ナガシマ,ヒトシ
標題(和) トランスジェニックマウスを用いたヒトB型肝炎ウイルス遺伝子発現制御機構の解析
標題(洋)
報告番号 110772
報告番号 甲10772
学位授与日 1994.07.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第974号
研究科 医学系研究科
専攻 第三基礎医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山口,宣生
 東京大学 教授 野本,明男
 東京大学 教授 永井,美之
 東京大学 教授 宮崎,純一
 東京大学 教授 小俣,政男
内容要旨

 ヒトB型肝炎ウイルス(HBV)は肝炎だけでなく、肝硬変や肝癌の原因にもなっていると考えられ、その制圧が重要な課題となっている。これまで肝炎や肝癌に関する研究が多くなされているが、いまだに発症機構についての明確な結論は得られていない。これらの疾患の発症には、HBV遺伝子の発現およびそれが宿主遺伝子の転写に及ぼす影響が深く関わっていることが示唆されており、HBV遺伝子の転写調節機構の解明は肝炎や肝癌の発症機構の解明にきわめて重要であると考えられる。

 HBVの増殖は通常肝臓で認められるが、これは肝臓にレセブターが存在するためと考えられている。しかし、HBV遺伝子を種々の細胞に導入した実験では肝癌細胞において転写効率が高いことから、転写レベルでの調節もHBVの肝臓指向性に大きく関与しているのではないかと考えられている。この点に関し、Xタンパク質の転写促進活性が注目されており、HBV遺伝子の肝臓での強い発現にXタンパク質が関与することを示唆する報告がなされている。しかしながら一方では、HBV遺伝子の肝臓での発現にXタンパク質は必要ではなく、HBVゲノム中のエンハンサーが肝臓特異的発現に重要だという報告もあり、肝臓特異的発現が何によって決められているのかは、まだ結論が得られていない。そこで、X遺伝子を失活させたHBVグノムを導入したトランスジェニックマウスを作製することにより、HBV遺伝子の転写の組織特異性におよぼすXタンパク質の役割を解析することにした。本研究では、このトランスジェニックマウスの種々の臓器におけるHBV遺伝子の転写量や転写されている分子種の違いを調べるとともに、DNAのメチル化の程度や染色体構造の違いとの関係も検討した。

 最初に、HBVゲノムを2単位順方向につないだDNAを、マウス受精卵に微量注入して10系統のトランスジェニックマウスを得た。このとき、X遺伝子とポリメラーゼ遺伝子の重複部分にフレームシフト突然変異を導入してX遺伝子を失活させたHBVゲノムを用いた。得られたトランスジェニックマウスの血清中のHB抗原を酵素抗体法で調べたところ、HB表面抗原(HBsAg)が5系統から、HBe抗原(HBeAg)がこれらを含む6系統から検出された。次に、転写の臓器特異性を検討した。HBVグノムからは全長に対応する3.5kbのmRNA,HBsAgに対する2.1kbおよびXタンパク質に対する0.8kbのmRNAが転写されることが知られている。RNaseプロテクション・アッセイにより臓器ごとの転写量を調べたところ、腎臓や心臓,筋肉,小腸といった臓器では多く、脾臓や肝臓では少なかった。さらにノーザンブロット・ハイブリダイゼーションによりこれらのRNAの種類を調べたところ、腎臓と心臓で発現しているのは3.5kbと2.1kbのmRNAであったか、興味深いことに脳では4.0kb,精巣では0.8kbのmRNAが転写されていることがわかった。転写されたmRNAが正常に翻訳されているかどうかを調べるため、酵素抗体法と蛍光抗体法により臓器中のHB抗原の検出を試みた。

 まず、肝臓や腎臓,心臓の粗抽出液を調製し、酵素抗体法により調べたところ、HBsAg,HBeAgがともに検出された。mRNAが少ししか検出されなかった肝臓からも心臓や腎臓に近いレベルのHB抗原が検出されたことから、これらの抗原の発現に転写後の調節が関与している可能性が示唆された。同じ臓器の切片を蛍光抗体法で検討したところ、腎臓の尿細管の細胞質からHBsAgとHBeAgが、核からHBcAgが検出された。心筋細胞の細胞質全体からはHBsAgが弱く検出され、HBeAgとHBcAgはまばらに検出された。以上の結果から、これらのトランスジェニックマウスにおいてはHBV遺伝子が転写され、正常な抗原性を持つ遺伝子産物として翻訳されていることがわかった。そしてその発現効率は、肝臓で低く、腎臓や心臓で高いことがわかった。

 肝臓における転写効率の低さや臓器による転写物の違いを説明するために、HBVゲノム中のDNAのメチル化部位と、DNase I高感受性部位とを検討した。3.5kbと2.1kb’のmRNA量の多かった腎臓や心臓と、これらのmRNA量の少なかった肝臓のメチル化のパターンはよく似ており、ともにHBVゲノム中のエンハンサーIの下流領域以外ではメチル化されていた。このことから、DNAのメチル化は3.5kbと2.1kbのmRNAの転写量には影響を与えないものと考えられた。これに対し、0.8kbのmRNAが検出された精巣においては、全領域にわたって脱メチル化していることがわかり、この脱メチル化が0.8kbのmRNAの転写に関与している可能性が示唆された。一方、DNase I高感受性部位は、mRNAの転写量にかかわらず肝臓や腎臓ではエンハンサーIの上流にマップされた。ところが精巣では、エンハンサーIのすぐ下流にマップされ、メチル化の場合と同様、他の臓器と異なっていた。したがって、DNAのメチル化や染色体の構造の差が0.8kbのmRNAの転写に関与している可能性が示唆されたが、一方これらでは臓器による3.5kbや2.1kbのmRNAの転写効率の差を説明できないことがわかった。

 Xタンパク質に関しては、これまで、その転写促進活性が肝癌細胞で最も顕著に認められることや、肝臓特異的転写因子との相互作用によってHBV遺伝子の転写が活性化されることから、HBV遺伝子の肝臓特異的転写に関与していることが示唆されていた。本研究で用いたX遺伝子に突然変異をもつHBVゲノムを導入したトランスジェニックマウスにおいて、肝臓でのHBV遺伝子の転写が他の臓器に比べて弱いという結果は、Xタンパク質の肝臓特異的転写への関与を強く示唆する。このことは、これまで報告されている正常なX遺伝子をもつHBVゲノムを導入したトランスジェニックマウスでは、肝臓でHBV遺伝子の強い転写が認められることからも支持される。さらに本研究で作製したトランスジェニックマウスでは、肝臓以外の臓器ではHBV遺伝子のより強い転写がみられることから、肝臓以外の臓器ではXタンパク質に依存しない転写が起こることがわかった。

 本研究の結果、1)Xタンパク質は、HBV遺伝子の肝臓特異的転写に関与している可能性が高いこと,2)肝臓以外の臓器では、Xタンパク質非依存的な転写が起こること,3)DNAのメチル化やDNase I高感受性部位などの遺伝子の高次構造が、0.8kbのmRNAの転写に影響を与える可能性のあること,などが明らかになった。

審査要旨

 本研究は、HBV遺伝子の転写の組織特異性におよぼすXタンパク質の役割を解析するために、X遺伝子を失活させたHBVゲノムを導入したトランスジェニックマウスを作製し、種々の臓器におけるHBV遺伝子の転写量や転写されている分子種の違いを調べるとともに、DNAのメチル化の程度や染色体構造の違いとの関係の検討を行ったものであり、下記の結果を得ている。

 1.本研究で作製したX遺伝子に突然変異をもつHBVゲノムを導入したトランスジェニックマウスでは、HBV遺伝子が転写され、正常な抗原性を持つ遺伝子産物として翻訳されていた。そしてその発現効率は、肝臓で低く、腎臓や心臓で高かった。DNAのメチル化のパターンやDNase I高感受性部位のマップされた部位は、3.5kbと2.1kbのmRNA量の多かった腎臓や心臓と、これらのmRNA量の少なかった肝臓とではよく似ていた。このことから、DNAのメチル化や染色体の構造などの遺伝子の高次構造では、臓器による3.5kbや2.1kbのmRNAの転写効率の差を説明できないことがわかった。また、HBVゲノムの組み込まれた染色体の部位等の他の可能性も考えにくいことから、Xタンパク質がHBV遺伝子の肝臓特異的転写に関与している可能性が示された。

 2.本研究で作製したトランスジェニックマウスでは、肝臓以外の臓器ではHBV遺伝子のより強い転写がみられることから、肝臓以外の臓器ではXタンパク質に依存しない転写が起こることが示された。

 3.0.8kbのmRNAが検出された精巣においては、DNAのメチル化のパターンやDNase I高感受性部位が、他の臓器と異なっていた。したがって、DNAのメチル化や染色体の構造などの遺伝子の高次構造の差が0.8kbのmRNAの転写に関与している可能性が示された。

 以上、本論文はHBV遺伝子の肝臓特異的転写にXタンパク質が関与することを示唆した。HBV遺伝子の肝臓特異的転写機構については不明のままその解明が急がれており、本研究の結果は、HBV遺伝子の転写調節機構の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク