学位論文要旨



No 110773
著者(漢字) 李,元徳
著者(英字)
著者(カナ) イ,ウォンドク
標題(和) 日本の戦後処理外交の一研究 : 日韓国交正常化交渉(1951-65)を中心に
標題(洋)
報告番号 110773
報告番号 甲10773
学位授与日 1994.09.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第43号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山本,吉宣
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 和田,春樹
 東京大学 助教授 田中,明彦
 東北大学 助教授 李,鍾元
内容要旨

 本研究は戦後日韓関係において大きな困難として横たわっている「過去問題」の根源を探る一つの糸口として日韓会談を取り上げる。日韓会談における戦後処理と最も直結される議題は財産・請求権問題や日韓併合条約(1910)に関する解釈問題である。本研究では、この様な「過去処理」の問題がどの様な経過を辿り、妥結に導かれたかを日本の対韓政策という視点にたって明らかにする。また日本の対韓政策に影響をもたらした諸要因を体系的に分析する。さらにこの様な分析を通じて、日韓間における戦後処理問題が国際的「冷戦論理」や「経済論理」によって強く影響されたあまり、本来のあるべき姿とはかけ離れた形での解決に帰着した、という点を論証する。

 初期の日韓会談を激突の局面に導いたのは、吉田政権が提起した逆請求権の主張であった。1952年会談の開始以来、李政権は、日本の植民地支配に対する謝罪や応分の補償を要求する姿勢で対日会談に臨んだ。韓国側は対日要求として「八項目請求権要綱」を提出した。これに対し、吉田政権はこれには応じず、逆請求権を主張した。即ち日本側は「朝鮮に残してきた日本人の私有財産については、所有権は消滅しておらず、米軍政や韓国政府の在韓財産処理を承認する場合においても、その売却代金は当然請求できる」と主張したのである。この主張は韓国側の大きな反発を招き、第一次会談は決裂した。その後アメリカの努力によって会談はセットされたが、日本側の久保田代表は1953年第三次会談の席上、日本の植民地統治の正当性を強弁する発言を行った。韓国はこの発言を重大な挑発行為としてとらえ、発言の公式撤回を要求した。しかし日本側は撤回どころか、この発言を正当化する声明を発表した。結局、会談は四年半にわたる中断を余儀なくされた。

 吉田政権の逆請求権主張は、韓国側の巨額の請求権要求を抑制するための一つの対抗概念として提起したものであったと評価できる。吉田政権としては請求権問題の解決を急ぐ必要生を全く感じていなかった。さらに「久保田発言」も韓国の請求権要求を相殺ないし緩和させようとする意図からなされたものであったと言えよう。「久保田発言」は、個人の失言ではなく、吉田政権の日韓会談に対する一貫した態度や政策が集約された表現であったのである。日本政府の逆請求権要求や久保田発言について、日本国内での異論はほとんど見られなかった。一方、アメリカは請求権問題について明確な立場を示さず、なるべく日韓の請求権紛争に関しては直接介入を避ける姿勢を堅持した。

 久保田発言以来、四年余にわたる膠着状態は1957年2月樹立された岸政権の手によって打開された。岸首相は国内に根強く存在する対韓強硬論を抑えつつ、矢次一夫を非正式交渉者として登用し、裏での対韓交渉を通じて関係改善に乗り出した。その結果、1957年12月31日には日本の逆請求権要求の撤回と久保田発言の正式取消を柱とする合意文書の調印が行われ、会談再開への道が開かれた。しかし岸政権のこの撤回決定が日本側の「過去問題」に関する根本的な態度の転換を意味するものではなかった。岸政権の譲歩には次のような便宜主義的な政治判断が働いていたと考えられる。第一に、安保条約の改訂を第一の外交課題として抱えていた岸政権としては、日韓問題の解決に自ら積極的に取り組むことによって安保改定交渉においての有利な立場を確保しようと意図した。第二に、岸政権の逆請求権撤回は、李政権の「平和ライン」水域内での極めて強硬な対日措置への対応としてとられた決断であった。しかし岸政権の対韓譲歩政策は、在日朝鮮人の北送問題の浮上を契機に藤山外相に代表される対韓強硬論の反撃を受け、巻き返しを余儀なくされた。岸政権の北送決定は李政権の極端な反発を招来し、日韓会談を破綻へ導く要因となった。

 1960年代に入り、池田政権のもとで再開された日韓交渉の焦点は韓国側の要求する対日請求権の処理問題に当てられた。請求権委員会では韓国側が要求する「請求権八項目」を基礎に実質的な討議が進められた。しかし、この事務レベルでの交渉は、法的根拠や証拠をめぐる両者の見解の違いのために平行線をたどり、請求権交渉の主な舞台は次第に政治会談へと移って行った。そこで池田政権は請求権問題の解決策として「経済協力方式」を打ち出した。「経済協力方式」とは、貧困と開発資金の不足に悩んでいる韓国に日本の品物や役務を無償・有償援助の形で与えることによって、韓国の主張する請求権要求を放棄させる、というものであった。この方式は、経済成長を最優先の目標としていた池田路線にも合致するものであった。

 1962年3月の外相会談から同年11月の大平・金会談までの政治的折衝過程は、こうした池田政権の構想を韓国側に呑ませる一連の過程であったと言えよう。1962年7月、外相に就任した大平正芳は自民党首脳や関係省庁との意見調整の上、請求権処理に対する日本側の最終的な腹案づくりにつとめた。その結果、登場した大平構想の骨格は、請求権は個人のものに厳密に限定し、これに無償供与と有償の経済協力を加えることによって、その総額で韓国の要求に歩み寄る代わりに、韓国が要求する請求権の名目についてはそれを放棄させる、というものであった。1962年8月からは政治会談予備折衝が始められ、請求権の金額や名目について本格的な折衝が進められた。同折衝で、両者の金額は最初7千万ドル対7億ドルから出発し、1億5千万ドル対6億ドルへ、その後1億7千万ドル対5億ドルまで次々と接近していたが、それ以上は歩み寄らなかった。日本側は金額の差を解消する方法として、韓国側に請求権の名目の放棄を要求した。請求権問題は二次にわたる大平外相と金鍾泌部長との単独会談で最終的な妥結が図られた。この会談で、双方は「日本が無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款1億ドル以上を韓国に提供する」という内容に合意した。いわゆる「大平・金メモ」である。このメモは資金提供の名目については一言も触れておらず、双方が対内的にその名目を便宜的に解釈できる余地を残した。合意文書には日本の無償有償の資金の提供の随伴的結果として請求権問題が解決されたと規定されており、韓国側が請求権を放棄したという事実が確認された。

 「経済協力方式」による政治的妥結を促進させた国際的要因としては次の点が考えられる。まず第一に、当時、緯国側は日本からの資本導入を切実に必要としていたという事実が指摘できよう。朴正煕軍事政権は、経済の再建を達成するためにはどうしても日本からの経済協力資金を取り込む必要があると認識していた。第二に、ケネディ政権としては、日本の資金が韓国の経済再建に大いに寄与することを期待していた。従って、ケネディ政権は、池田政権に請求権問題を早急に解決するよう圧力を加えつつ、朴政権に対しては請求権の名目にこだわらず日本の経済協力を受け入れるよう働きかけたのである。一方、日本国内の対韓政策に関する政治動向には三つの流れが存在していた。第一に、岸、石井などに代表される早期妥結論者は、極東の反共第一線である自由韓国を守るという立場から、会談の早期妥結を押し進めようとした。また財界では、「日韓経済協会」が視察団の派遣や韓国事情に関する調査・情報活動を通じて会談の促進につとめた。第二に、慎重論者は日韓問題の性急な妥結は国内政治の混乱を招来し、第二の安保騒動になりかねないという観点から、早期妥結論を牽制する立場をとった。第三に、革新勢力は日韓会談をNEATO結成への第一歩と見なし、反安保闘争の延長線にたって反対運動を広げた。ここで注目すべきは、いずれの政策論にも、日韓会談のもつ過去清算の性格については関心が払われていなかったという点である。池田政権の「経済協力方式」は、早期妥結論にはもちろん、慎重論にも支持を得られる選択であり、反対論の批判を弱めるうえでも効果があった。

 1964年11月に再開された第七次会談の中心問題は基本関係文書の作成であった。基本関係をめぐる日韓の根本的な対立点は二つであった。第一に、過去の条約の無効時点について、韓国側は1910年の日韓併合条約やそれ以前の協約が源泉的に無効であると主張したが、日本側は併合条約は大韓民国の成立時点までは有効であったと主張した。第二に、韓国の管轄権の範囲について、韓国側は韓国が朝鮮半島全域に対して管轄権をもつことを確認する規定を置くべきだと主張したが、日本側は、韓国の管轄権が朝鮮半島全域に及ぼすとの解釈の余地を残すような表現では困難であるとの立場をとった。事務交渉における二点の対立は平行線をたどり、外相会談での政治的解決に委ねられることになった。椎名悦三郎外相と李東元外務長官との会談では二つの対立点について次の妥協案が出された。旧条約の無効問題について「もはや無効である:are already null and void」という語句が、さらに唯一合法性問題については「国連総会決議195号(3)に明らかに示されているとおりの唯一の合法的な政府」という語句が採択されたのである。この語句は双方の主張を絶妙に妥協させたものであり、いずれの側にも有利な方向に解釈できる余地を残した。

 佐藤政権の登場以来、日韓会談は過去のどの時期よりも急速なテンポで進められたが、それには次の様な要因が働いていたと考えられる。第一に、アメリカのジョンソン政権は、ベトナム情勢の悪化、中国の核実験成功、そして韓国軍のベトナム派兵などの緊迫したアジア情勢に対処するために、日韓両国の政治経済的結束に働きかけを強めた。第二に、佐藤政権に入ってから、日韓問題に対する自民党の姿勢は慎重論が退潮し、早期妥結論が強化される方向に転じていた。また財界は大規模の経済協力の実施を目前にして韓国市場への進出に大きな期待をかけていた。一方、革新陣営は日韓条約反対運動を熾烈に展開したが、安保反対闘争ほどの盛り上がりには達していなかった。佐藤政権は、日韓交渉の妥結こそが日本を自由陣営の一員として位置づける第一歩であるという認識に立って、早期妥結への政治的指導力を発揮した。

 日韓条約の批准国会において日韓両政府は、日韓会談の最大焦点であった請求権問題や過去認識の問題について、それぞれ食い違った解釈をしている。請求権・経済協力資金の支払名目について、韓国政府は過去の植民地支配に対する正当な償いとして解釈したのに対し、日本政府はあくまでも請求権とは関係なく、韓国の経済再建を支援するための経済協力であると解釈した。さらに日韓併合条約について、韓国政府は「もはや無効である」という規定を「当初から全く無効であった」と解釈したのに対して、日本政府は「今は無効であるが、当時は有効で合法的であった」と解釈している。過去の清算という核心問題についての両政府の全くすれ違った解釈は、日韓条約が如何に本来のあるべき姿とかけ離れた戦後処理であったかを物語っている。

審査要旨

 『日本の戦後処理外交の一研究-日韓国交正常化交渉(1951-65)を中心に』と題する本論文は、1951年から65年までの14年間にわたって行われた日韓国交正常化交渉を主として日本の対韓政策の展開に焦点をあわせて、丹念に資料を渉猟し、その政治過程を体系的に解明し、そのうえにたって、日本の戦後処理外交がなぜ<未完>なものとなってしまったのかを明らかにしようとするものである。本論文は、全部で7章から成っており、それに参考文献が付されている。第一章は序論であり、第二章から第六章までは、日韓国交正常化交渉を日本での内閣(政権)の変化にそって分析している。第七章は、結論であり、論文の全体が総括され、戦後処理という観点からの評価が行われる。

 第一章においては、日韓関係によこたわる「過去問題」は、日韓交渉においては、(a)財産・請求権問題と(b)日韓併合条約に関する解釈問題(基本関係)に集約されるとし、本論文の目的を、日韓交渉の経過をこれら二つの間題に焦点をあわせ分析し、日本の対韓戦後処理政策の実態や性格、また、その一貫性と変容とを明らかにすることにおく、としている。この目的を達成するために、日本の対韓政策に影響を与える要因として、日韓間の相互作用、日本の国内政治、そして米国の東アジア政策、の3つを考える分析枠組みを設定している。次いで、日本、韓国、アメリカで行われた先行研究を比較考量し、体系的な分析の必要性を強調し、さらに、一次資料として1961年から65年までの韓国側の日韓会談関連外交文書を収録している「未整理外交資料」など、いくつかの新しい資料の存在を指摘している。

 第二章は、請求権の問題を中心に吉田政権時代の分析が行われている。アメリカの仲介によって、日韓の接触が始まったのは、1951年10月20日であった。しかし、日本は、この交渉において、とくに得になることはないと認識し、積極的な態度をとらなかった。これに対して韓国は、対日交渉の1つのテコとして、いわゆる李ラインを一方的に設定する(52年1月)。この第一次会談で大きな問題となったのは、52年3月に行われた日本側の逆請求権の主張であった。これは日本が在韓日本人(民間)の財産について日韓の協議の対象とすべきである、と論ずるものであった。筆者は日本が逆請求権を主張した理由として、(a)韓国側の請求権を相殺する外交上の対抗手段、(b)日本の国内において、在韓私有財産の没収に反発する引揚者の存在の2つあげている。第一次会談で日韓が対立したいま1つの問題は、日韓の基本的関係をめぐる問題であり、たとえば条約の名称についても、日本側は、両国の新しい関係の発生から始まる諸懸案を解決するための「友好条約」を提案し、韓国側は過去を清算するための「平和条約」を締結することを求めた。

 第一次会談は、日本側の逆請求権主張をめぐる両国の対立によって、決裂したが、朝鮮戦争のさなかアメリカは、仲介工作を行い、53年4月第二次会談が始まる。7月朝鮮戦争の休戦が確定されると休会となり、李ライン水域において日本漁船が大量に拿捕されることになる。このことから、日本政府は会談再開の要請を行い、10月、第三次会談が開かれる。この第三次会談の席上でなされたのが日本の首席代表であった久保田貫一郎の、「36年間の日本の韓国強制占領は、韓国民に有益であった」など、の内容をふくむ発言であった。

 第三章は、岸政権の対韓接近政策を中心とした分析である。久保田発言で決裂した日韓会談のあとアメリカの仲介工作は失敗し、54年12月成立した鳩山政権は、日ソ国交回復交渉を中心とする外交政策を展開し、また北朝鮮との民間交流をふかめ、さらに在日朝鮮人の北送問題がおき、日韓交渉は進まなかった。

 57年2月、岸政権が誕生する。岸は、矢次一夫を使うなどして、日韓交渉の再開をはかり、4月、久保田発言を取り消す方針を明らかにし、また、財産請求権問題でも従来の日本側の主張に固執しない旨明言した。57年12月、日韓共同コミュニケが発表され、久保田発言及び、逆請求権主張の撤回が、合意される。岸のこのような政策展開の背後には(1)山口県出身の岸にとって、漁業問題は、国政だけではなく、選挙区の問題でもあった、(2)安保改定を第一の外交課題としていた岸にとって、対韓譲歩は、対米外交への配慮として重要であった、(3)対韓譲歩は、岸のアジア重視の政策の一端を示すものであった、という理由が考えられる。しかし、58年4月に開催が合意された第四次会談は、順調に進展するようにみえたが、北送問題により58年12月休会に入るまで、実質的な進展をみせぬまま終了してしまう。

 第四章は、池田政権における請求権妥結の交渉プロセスが分析される。韓国では、60年4月政変がおき、張勉民主党政権が樹立され、日韓間で第五次会談が行われるが、請求権解決への意見接近は見出せなかった。

 61年5月に軍事クーデターによって政権の掌握に成功した朴正煕は、民主党の対日政策をはるかに越える積極性で対日交渉に臨む。池田政権は、はじめは日韓会談が第二の安保闘争の材料になりかねないことからそれへの取り組みは慎重であったが、6月、2度にわたるケネディ大統領との会談によって、日韓問題に本格的に取り組むようになる。そして、韓国政府の再開申し入れにより、第六次会談が開始される。

 11月、朴正煕議長は訪日し、記者会見において、「賠償性格の請求権は提起しない用意」があるなど一歩踏み込んだ発言をする。しかし、事務レベルでの会談は遅々として進まなかった。これを乗り越えようとして、日韓外相会談が62年3月に行われるが、このなかで、小坂善太郎外相は、純粋請求権返済7千万ドル、一般借款2億ドルとの案を示す。これに対して、韓国側が提示した請求権要求額は、7億ドルであった。

 第二次池田内閣において、外務大臣となった大平正芳は、本格的に日韓会談にとりくむ意向を示し、純粋請求権、無償供与、長期借款の3本柱全体で3億ドル、その実行方式としては、通常の賠償方式と同じく、主として役務や資本財で行う、という大平構想をもつにいたる。7月日韓交渉の再開が合意され、8月21日から予備折衝が開催され、杉道助首席は、請求権名目を放棄させる代わりに経済協力を行うという経済協力方式を提示する。62年10月21日と11月12日の2度にわたり、大平・金鐘秘会談が東京で開かれる。大平・金の第一回会談においては、大平は、無償・有償計3億ドル、金は6億ドルを提示した。また、名目については、大平は、「韓国の独立をお祝いする名目」または「経済自立のための援助金名目」を提案した。第二回会議の直前の11月8日、朴議長は金部長へ緊急訓令を発する。そこには、請求権については、独立のお祝い金または経済協力とすることは受け入れられない、金額については、総額6億ドルからは譲歩するのは困難である、また、純返済と無償の合計は借款額より多額ではなくてはならない、との内容がふくまれていた。

 第2回目の大平・金会談で、金額についての合意が得られ(大平・金メモ)、その内容は、無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款1億ドル以上、というものであった。そして、このメモは、名目についてはふれることはなかった。が、その後の交渉の結果、日本からの無償、有償の経済協力の供与の随伴的な結果として、請求権問題が決着されるということになる。

 第五章においては、請求権妥結の要因を、国際的な要因、日本の政権内部の要因、そして、広く日本の国内政治の要因にわけて分析している。まず、国際的な要因として、ケネディ政権における対外援助政策の大きな転換による対韓援助の縮小と、朴政権の経済発展政策における資金需要が相互作用をしあって、日本からの資本導入が韓国にとっての緊喫の課題となっていたことが指摘される。この過程で、アメリカが、「韓国政府に請求権の名目にこだわらず日本の経済援助を受け入れるように伝え、もし応じなければアメリカの援助を考え直す」との圧力をかけたことも明らかにされる。

 池田政権は、一方で、日米協力を維持し、他方では、日韓問題が、日本において、第二の安保になることをさけるため、「日韓交渉を経済的なアプローチで解決する」という方針を選択した。また、「経済協力方式」の背後には、韓国に日本の工業製品や役務を供与することによって将来の対韓経済進出の土台を構築するという発想があった。また、池田政権下においては、賛成派(早期妥結派)、慎重派、そして、野党の反対派が存在したが、いずれにせよ、それらの論を通してみられるものは、冷戦の論理ともいうべきものが濃く、日韓間における過去問題について正面から論ずるものはなかった。

 第六章は、佐藤政権における基本関係の妥結のプロセスをおったものである。62年11月の大平・金メモによって請求権問題の大枠が合意され、日韓会談は急速に妥結にむかうと見られた。が、63年に入り、韓国の政治が大きく混乱し、韓国内の反対もつよく、結局6月3日の戒厳令宣布から64年まで、日韓会談は、韓国の政局の安定を待ち続ける空白期に入る。

 64年11月に発足した佐藤政権は、アメリカの強い要請を受け入れながら、早期妥結をはかろうとした。64年12月、第七次会談が東京で開始される。いわゆる高杉発言という波乱はあったが、椎名悦三郎外相は65年1月に訪韓し、「両国の間の長い歴史の中に不幸な期間があったことはまことに遺憾」と述べ、これによって、会談は大きく進展することになる。基本関係をめぐる討議は、ひきつづき1910年以前に締結された条約、韓国政府の管轄権の2つについて鋭い対立をともないつつ行われ、最終的には、たとえば、前者については、「もはや無効である」というように玉虫色の語句で決着した。65年6月22日午後、一括妥結の署名・調印が行われた。そして、日韓両国とも、つよい国内的な反対を受けながら、条約は批准された。しかし、韓・日両国における批准国会にみられる、請求権、および基本関係についての解釈は、全く異なるものであった。すなわち、無償有償の5億ドルについて、韓国政府は請求権の返済あるいは過去の植民地支配に対する正当な償いとして受け止め、日本政府はあくまでも請求権とは関係なく、韓国の経済再建を支援するための経済協力としていた。また、日韓併合条約に関しても、日本政府は、「併合条約については、・・・1948年8月15日に失効したと解することが正しい。」と述べ、韓国政府は、「無効の時期に関しては、・・・遡って無効である」という政府公式見解を示しているのである。

 第七章は、結論である。そこでは、本論で展開された分析が、各章ごとに要領よくまとめられている。そして、日韓の14年にわたる交渉を過去の問題の清算という視点から評価し、結局は、「冷戦の論理」と「経済の論理」が支配的であり、日本の内部における、賛成派、反対派を通して、またアメリカの政策の展開においても、過去の問題を正面から取り上げることはなく、従って、そのことが現在においても、過去の問題が大きな問題となる素地を作っている、とするのである。

 本論文は、日韓国交正常化交渉の過程を、請求権問題と基本関係に焦点をあてつつ、外交過程(日韓の相互作用)、日本の国内政治、そして、アメリカの東アジア政策の展開、という観点から、体系的に分析した、はじめでの業績であるといってよい。また、その作業を行うにあたって、日本、韓国、アメリカの一次資料を駆使し、とくに、第四章においては、「未整理外交資料」など新しい資料を用いて、請求権問題の妥結プロセスを明らかにしており、そのことは高く評価されるべきものである。また、論文全体を通して、冷戦の論理と経済の論理が、請求権問題と基本関係の解決とその内容をつよく規定しており、それが、過去問題の十分な解決にいたらなかった大きな原因となったことを明らかにしている。

 もちろん、本論文は、外交関係に焦点をあてたものであり、日本(人)の韓国に対する態度なり、日本人の戦後処理観など、いま1つ深く分析すれば、より奥行きのひろい論文となったと考えられ、また、本論文では、池田政権と佐藤政権の違いが、必ずしも明確にされ切ってはいないといううらみもある。しかしながら、これらの欠点あるいは残された問題を考えてみても、本論文が、大きな学問的貢献をなしとげていることは明白である。

 以上のことから、審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位にふさわしいものと判定する。

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