学位論文要旨



No 110775
著者(漢字) 金,輝律
著者(英字)
著者(カナ) キム,フィユル
標題(和) イヌにおける鎮静・鎮痛薬併用時のイソフルラン最小肺胞内濃度および循環動態の変化
標題(洋)
報告番号 110775
報告番号 甲10775
学位授与日 1994.09.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1520号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 菅野,茂
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 助教授 局,博一
 東京大学 助教授 西村,亮平
内容要旨

 イソフルランは血液ガス分配係数が低く調節性に優れていること、常用量では循環動態も比較的良く維持されること、脳血流量の増加の程度が小さいこと、物理的にも安定性が高いことなど現在応用可能な吸入麻酔薬の中で最も安全性の高い薬剤である。しかし呼吸抑制が他の吸入麻酔薬と同様に強く、吸入濃度を増すと強い循環抑制が現れる他、価格が高く経済性に劣ることなどさらに改善を要する点も少なくない。一方、近年ヒトでは1つの麻酔薬が単独で用いられることは稀で、全身麻酔に必要な鎮静、鎮痛、筋弛緩などの作用を数多くの薬剤に分担させることにより、麻酔薬の必要量を低減させると同時に、安定した麻酔管理を計る他、麻酔の導入を円滑にしたり、術後疼痛の軽減などを得るバランス麻酔法が好んで用いられている。他方、動物においては麻酔導入時に興奮し、安定した麻酔への移行が困難な例が多い。このため麻酔前投薬として様々な鎮静薬が用いられることが多く、結果として複数の薬剤を併用した麻酔が行わてきた。現在以上の目的のために用いられている薬剤としては、2アドレナリン受容体作動性の鎮静薬、ベンゾジアゼピン系のマイナートランキライザーあるいは麻薬の指定を受けない拮抗性鎮痛薬などがあげられる。

 これらの薬剤をイソフルランに併用すると、吸入麻酔の最小肺胞内濃度(以下MACと略す)を減少させることにより、吸入麻酔薬の消費量を減少させ、経済性が向上するほか、低濃度で維持可能なため、吸入麻酔薬の好ましくない作用が低減できる可能性がある。しかし、イヌにおいてはこれらの薬剤のイソフルランMAC減少効果は十分検討されておらず、不明な点も多い。またこれらの前投与による循環器系の変化ないしその他の生体機能に及ぼす影響についてもほとんど検討されていない。

 そこで、本研究では、イヌにおいて鎮静・鎮痛薬の応用がイソフルランのMACおよび循環動態におよぼす影響について検討することを目的に、まず前述の2受容体作動性の鎮痛薬であるメデトミジン、ベンゾジアゼピン系のマイナートランキライザーであるミダゾラムおよび麻薬の指定を受けない拮抗性鎮痛薬ブトルファノールの3種類の薬剤がイソフルランのMACと循環動態におよぼす影響についてスクリーニング的な検討を行った。次に、これらの検討で有効性の認められた薬剤について投与量と効果の関係について検討するために、薬剤を静脈内に持続的に投与することにより3段階に維持した血中濃度を作出し、このときのイソフルランMACおよび循環動態の変化についてより詳細に、検討した。さらに、有効性の認められた薬剤を組み合わせて用いた場合のイソフルランMAC減少効果および循環動態の変化についても検討し、以下の結果を得た。

 各薬剤のスクリーニングテストにおいてはイソフルラン単独使用時のMACは1.3〜1.4vol%であったのに対し、メデトミジンを併用するとMACは0.5±0.1vol%となり3種類の薬剤の中で最大の減少効果を示した。しかし本剤を併用すると、心拍数が平均約40回/分にまで下降することも明らかとなった。一方ミダゾラム併用時のイソフルランMACは0.8±0.2vol%となり、十分なMAC減少効果が得られると同時に心拍数および動脈圧には変化がなく安定していた。これに対してブトルファノールでは有意なMAC減少効果は認められず、また、動脈圧が有意に低下した。以上の結果から、メデトミジンとミダゾラムによるイソフルランMACの減少効果、およびこれらの併用が循環器系におよぼす影響についてより詳細な検討を行った。

 その結果、メデトミジンの血中濃度を、メデトミジンの常用量である80g/kgを筋肉内投与約4時間後の血中濃度である8ng/ml plasmaに維持した場合、イソフルランのMACは1.28±0.10vol%から0.68±0.11vol%へと減少し、47±7%と高い減少効果が得られた。しかしこの効果は投与量を増しても増強せず、約2時間後の血中濃度である13ng/ml plasmaでは0.58±0.13vol%となり55±8%の減少率、また約30分後の血中濃度である25ng/ml plasmaでは0.60±0.13vol%となり53±8%の減少率を示し、投与量増加に伴う有意な低下は認められなかった。また、2受容体作動薬の副作用である徐脈、心拍出量の減少および全身血管抵抗の上昇などもいずれの投与量においても同様に認められた。そこでメデトミジンを鎮静薬として用いる場合、その徐脈作用を防止するために併用されることの多い副交感神経遮断剤のアトロピンを用いた場合についても検討したが、メデトミジンによる徐脈は改善できるものの、逆に頻脈となること、それにもかかわらず心拍出量の低下は十分改善されないこと、動脈圧およびRPPなどが上昇すること、また、投与約1時間で心拍数は再び低下するなどメデトミジンによる循環動態の変化は十分に改善されないことが明らかとなった。

 ミダゾラムにおいては、常用量1mg/kgの筋肉内投与約30分後の血中濃度である307ng/ml plasmaに維持した場合イソフルランのMACは1.34±0.05vol%から0.84±0.06vol%と37±3%の減少効果を、また投与約2時間後の血中濃度である91ng/ml plasmaでは1.04±0.07vol%と23±3%の有意な減少効果を示した。一方約4時間前後の血中濃度の9ng/ml plasmaでは1.27±0.07vol%となり、有意なMAC減少効果は認められなかった。またいずれの投与量においても、ミダゾラム併用が循環器系および呼吸器系におよぼす影響はほとんどなかった。

 一方、メデトミジンとミダゾラムを組み合わせた場合、イソフルラン単独麻酔時のMACが1.32±0.05vol%であったのに対し、各薬剤の常用量の投与約4時間後の血中濃度を目標にした低濃度の持続投与量では0.50±0.04vol%となり62±4%の減少効果を示した。また常用量投与約2時間後の血中濃度を目標にした持続投与量では0.28±0.05vol%となり79±4%の減少率を、さらに常用量投与約30分後の血中濃度を目標にした高濃度投与時には約99%以上の減少を示し、それぞれの薬剤を単独で併用した場合より有意に高い効果を示し、また用量依存的な減少効果を持つことが明らかとなった。一方これらの組み合わせがイソフルラン麻酔下のイヌの循環動態におよぼす影響は、心拍数の減少にともなう心拍出量、左室分時仕事量、RPPの低下ならびに全身血管抵抗の上昇などであり、主にメデトミジン単独で併用した場合とよく近似しており、ミダゾラムと組み合わせることによる変化は認められなかった。

 以上の結果から、今回検討したメデトミジン、ミダゾラム、ブトルファノールの3つの鎮静・鎮痛薬の中で、メデトミジンがイヌのイソフルランのMACを最も大きく減少させることが示された。この効果は今回検討した用量の範囲では投与量の多少に関係がなく、一定濃度以上では鎮静効果と同様天井効果を示すものと考えられた。しかしメデトミジン併用時にはいずれの投与量においても、徐脈および心拍出量の低下などの循環抑制が同様に認められ、この変化は副交感神経遮断薬のアトロピンを用いても十分改善できなかったことから、本剤を循環器系に問題を持つ動物に投与する場合には注意が必要であると考えられた。一方ミダゾラムはイソフルランのMAC減少効果はメデトミジンよりは劣るものの、比較的高い効果を示し、かつ循環抑制がきわめて軽微であることから、イソフルラン使用量の低減および、低濃度維持によるイソフルランの副作用発現の抑制に有効であり、とくに循環呼吸器系に障害をもつ動物に対して非常に有用な併用薬になるものと考えられた。これに対し、ブトルファノールは有意なMAC減少効果を示さず、また、循環器系に対する抑制も現れることから、単独ではイヌのイソフルラン麻酔の前投薬としては有効性がないものと考えられた。

 一方、有用性の認められたメデトミジンとミダゾラムの組み合わせは非常に強いイソフルランMAC減少効果を示し、低用量でも十分な効果が得られることが明らかとなった。またこの両剤を組み合わせてもメデトミジンによる循環動態の変化は増強しないこと、さらにこの組み合わせが強力な鎮静作用を持ち、取り扱いに難渋する動物に対する麻酔前投与薬として非常に有効であることを考え合わせると、循環器系などに問題のない動物に対する麻酔前投薬として非常に有用であると考えられた。

審査要旨

 イソフルランは導入覚醒が速やかであり,また常用量では循環動態も比較的良く維持されること等の利点があり,現在のところ最も安全性の高い吸入麻酔薬である。しかし呼吸抑制の存在,高濃度での強い循環抑制,高価格等,獣医臨床への応用上いくつかの問題点が指摘されている。一方動物においては,麻酔導入時に攻撃的であったり,興奮する動物を安全に確実に麻酔導入するために,麻酔前投薬として種々の鎮静・鎮痛薬が用いられている。一般にこれらの薬剤をイソフルランに併用すると,吸入麻酔の最小肺胞内濃度(MAC)を低下させ,吸入麻酔薬の好ましくない作用を低減させる可能性があり,さらに吸入麻酔薬の消費量を減少させ,経済性も向上する。しかし,これらの薬剤のイソフルランMAC減少効果はイヌでは十分検討されておらず,またその際の循環器系の変化ないしその他の生体機能に及ぼす影響についてもほとんど検討されていない。

 そこで,本研究では,最も代表的な鎮静・鎮痛薬である2アドレナリン受容体作動性のメデトミジン,ベンゾジアゼピン系のマイナートランキライザーであるミダゾラムおよび麻薬の指定を受けない拮抗性鎮痛薬ブトルファノールの3種類の薬剤を用い,これらがイヌのイソフルランのMACおよび循環動態におよぼす影響について検討した。

 第一に各薬剤のイソフルランMAC減少効果について検討した。イソフルラン単独使用時のMACは1.3〜1.4vol%であるのに対し,メデトミジン併用時のMACは0.5±0.1vol%であり,3種類の薬剤の中で最大の減少効果を示した。しかし本剤を併用すると,心拍数が平均約40回/分にまで下降した。ミダゾラム併用時のイソフルランMACは0.8±0.2vol%となり,十分なMAC減少効果が得られると同時に心拍数および動脈圧には変化がなく安定していた。これに対してブトルファノールでは有意なMAC減少効果が認められず,また,動脈圧が有意に低下したことから,本剤単独ではイソフルラン麻酔の前投薬として有用性が低いと思われた。以上の結果から,メデトミジンとミダゾラムによるイソフルランMACの減少効果,およびその時の循環器系の変化についてより詳細に検討した。

 メデトミジンの血中濃度を,その常用量である80g/kg筋肉内投与の約30分後,約2時間後および約4時間後の値に維持した場合,イソフルランのMACはそれぞれ53±8%,55±8%,47±7%と高い減少効果を示した。しかし,本剤の副作用である徐脈,心拍出量の減少および全身血管抵抗の上昇なども認められた。そこで本剤と併用されることの多い副交感神経遮断剤のアトロピンを同時に用い,同様の検討を行った結果,メデトミジンによる徐脈は改善できるものの,逆に頻脈となること,それにもかかわらず心拍出量の低下は十分改善されないこと,動脈圧およびRPPなどが上昇することなどメデトミジンによる循環動態の変化は十分に改善されないこいことが明らかとなった。

 ミダゾラムにおいては,常用量1mg/kg筋肉内投与の約30分後,約2時間後および約4時間前後の血中濃度に維持した場合,イソフルランMACは前2者では37±3%,23±3%の有意な減少効果を示した。また本剤の投与においては循環器系および呼吸器系におよぼす影響はほとんどなかったが,その一方で,本剤単独では十分な鎮静,催眠効果を得ることが困難であり,攻撃的なイヌに対しての前投薬としては問題があった。

 そこでこれら両薬剤を組み合わせて用いたときの変化を同様に検討した。メデトミジンとミダゾラムを同時に併用した時のイソフルランMACは,前述した両薬剤の常用量の投与約30分後,約2時間後および約4時間後の血中濃度下において,それぞれ約99%,79±4%および62±4%と,それぞれの薬剤を単独で併用した場合より有意に高いMAC減少効果を示し,かつこれらは用量依存的効果であった。さらに,これらの組み合わせがイソフルラン麻酔下のイヌの循環動態におよぼす影響は,心拍数の減少にともなう心拍出量,左室分時仕事量,RPPの低下ならびに全身血管抵抗の上昇などであり,主にメデトミジン単独で併用した場合とよく近似しており,ミグゾラムと組み合わせることによる増悪的な変化は認められなかった。

 以上の結果から,メデトミジンとミダゾラムの併用は,たとえ低用量であっても非常に強いイソフルランMAC減少効果を示し,またその時の循環動態の変化はメデトミジン単独併用時とほぼ同等であり,さらに両剤の併用は強力な鎮静作用を示し,攻撃的な動物の麻酔前投与薬としても非常に有効であること等,循環器系に問題のない動物に対する麻酔前投薬として非常に有用であると考えられた。

 以上要するに本論文は,イヌなどの小動物に対するより安全で確実かつ実用的な麻酔法を追求したものであり,本論文で得られた成果は臨床応用上,学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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