本論文は、II-VI族化合物半導体であるセレン化亜鉛(ZnSe)を、光を用いた有機金属気相成長(光OMVPE)法によって合成する際の、原料ガスの反応性、非照射下および光照射下での結晶表面上の原料ガスの挙動、ZnSeのバンドギャップ以上のエネルギーを有する光照射下での成長速度増大の機構に関して量子化学的側面から基礎的解釈を述べたものであり、基板直接励起型である光を用いた本成膜プロセスについての新規で重要な知見を報告している。本論文の構成は、以下の6章よりなる。 第1章は序論であり、光関連材料の重要性およびそれら材料の成膜方法に関しての基礎的な事項について述べている。次に、青色発光素子であるZnSeの成膜方法としての光OMVPE法の重要性を示し、さらに本研究の対象であるZnSeの光OMVPEプロセスに関する実験的な諸事実を概観し、本研究の目的・意義について述べている。 第2章では、手始めに、表面への配位活性化を分子軌道法ではどう扱うべきかを探るために、ルイス酸的な振る舞いを示すZnSe結晶表面上のZn原子を単純なモデル分子であるボランに置き換え、原料ガスであるジメチルセレンとの反応性を調べている。また、ジメチルエーテル系の分子(CH3)2X(X=O,S)に対しても同様の非経験的分子軌道計算を行い、XがO,S,Seの場合の(CH3)2Xおよび(CH3)2X-BH3錯体の構造および電子構造の比較を行っている。(CH3)2Xのボランへの配位反応に関して、軌道相互作用の観点から(CH3)2Seや(CH3)2SはHOMOであるSeやSの非結合性軌道からボランのLUMOへの供与が支配的であるのに対して、(CH3)2Oはボランへの電子供与が比較的弱く、しかもHOMOに加えて2nd-HOMOからの寄与も重要であることを定性的な立場から明らかにした。さらに、(CH3)2Xとボランとの相互作用エネルギーを分割することにより、軌道相互作用安定化エネルギーを定量的に見積もり、(CH3)2Seおよび(CH3)2Sのボランとの反応が(CH3)2Oとボランとの反応に比べ、軌道相互作用によってかなり安定化することを示した。これらの結果より、VI族原料である(CH3)2Seや(CH3)2Sはかなり強い電子供与性を示すことを結論としている。 第3章は、ZnSeのOMVPEにおける光照射効果および光照射下での結晶成長速度増大の機構に関して、非経験的分子軌道計算を用いて検討した結果を述べたものである。この研究では、非照射下のZnSe結晶表面を中性のクラスターモデルを用いて表し、結晶表面にホールが蓄積されるという光照射効果についてはクラスターモデルをカチオンにすることにより表現している。非照射下の表面反応モデルにおいては、2章の結論を受けて、II族原料であるジメチルセレンは、ZnSeクラスターモデル(Zn4Se4)表面への吸着で非照射下でもそのSe-C結合が活性化されるのに対し、ZnSeクラスターモデル(Se4Zn4)表面に吸着したVI族原料であるジメチル亜鉛の表面分解反応は非照射下ではほとんど期待できないことを見いだしている。光照射下の反応に関しては、カチオンクラスター([Zn4Se4]+または[Se4Zn4]+)への吸着過程での原料ガスの軌道エネルギーレベルのシフトに着目することにより、光照射効果を明らかにしている。すなわち、吸着過程で生ずるジメチルセレン中のSeの非結合性軌道(HOMO)のエネルギーレベルの下降およびジメチル亜鉛のZn-C間の結合性軌道(HOMO)のエネルギーレベルの上昇により、ジメチル亜鉛は光照射によりZn-C間の結合性軌道から[Se4Zn4]+クラスター表面のホールへの電荷移動が生じるが、ジメチルセレンに対しては光照射効果による更なる表面分解反応の促進は生じないこと見いだしている。これらの結果は、光照射下でのみ、SeおよびZn成長ステップが交互に滑らかに起こり、ZnSe結晶がエピタキシャル成長することを初めて説明したものである。 第4章では、第3章の研究において、ジメチル亜鉛がZnSe結晶表面を表現するクラスターに吸着する際に生じたポテンシャル曲線のカスプの問題について量子化学的な考察を行っている。このカスプは、ジメチル亜鉛からクラスターへ電子移動を起こす前後で主電子配置が入れ替わることにより生じるものであるが、反応経路上での電子配置の入れ替えを考慮した、2配置SCF波動関数でさえ、この反応系の記述には不適当であり、この2配置SCF波動関数を用いてもカスプは消えずに残るということを明らかにした。この現象は、Brillouinタイプの定理を導くことにより説明できると結論している。 第5章では、結晶表面への吸着反応などを理解するうえで重要となる結合様式を解析するための手法を提案し、ここでは1つの例として第2章で取り上げた反応系(CH3)2X...BH3に適用している。この解析方法は、分子内の任意の原子対に対して局所座標系を用いることで、原子間のoverlap populationを,,成分に分離するものであり、波動関数の物理的な内容を不変に保つような一次変換により原子間の結合をよりよく理解しようとする立場において重要である。この方法により、結晶表面でしばしばみられるd-p結合などの複雑な結合様式に対しても定量的な評価を可能にした。 第6章は総括であり、本論文で得られたZnSeの光OMVPEプロセスに関する知見を整理し、今後の展望と、実験への示唆について述べている。 以上述べたように、本論文はZnSeの光OMVPEに関してその成長機構の解明、ならびに他の光成膜プロセスへの応用という観点で重要な成果を挙げており、その結果は工業化学の分野で寄与するところ大である。 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |