学位論文要旨



No 110780
著者(漢字) 中野,隆志
著者(英字)
著者(カナ) ナカノ,タカシ
標題(和) 光OMVPE法によるII-VI族化合物半導体生成反応の量子化学的研究
標題(洋)
報告番号 110780
報告番号 甲10780
学位授与日 1994.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3246号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 御園生,誠
 東京大学 教授 藤嶋,昭
 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 助教授 戸嶋,直樹
 東京大学 助教授 山下,晃一
 お茶の水女子大学 教授 平野,恒夫
内容要旨

 II-VI族化合物半導体であるZnSeやZnSは、短波長光素子材料として高い潜在能力をもつ。近年、これらの材料を比較的低温で品質良く成長させるために、光OMVPE(Organometallic Vapor Phase Epitaxy)法がよく用いられるようになってきた。ZnSeの光OMVPEでは、バンドギャップ(約500nm)以上のエネルギーをもつ光を照射することにより成長速度が著しく増加する。原料ガスの直接光分解可能な波長は200nm以下であることから、光照射は表面反応を直接促進していると考えられる。本研究では、ZnSeの光OMVPEプロセスの解明を目的として、1)原料ガスの反応性,2)結晶成長表面への光照射の効果,3)光照射下での成長機構について量子化学的検討を行った。

1)原料ガスの反応性

 OMVPE法で原料ガスとしてよく用いられる(CH3)2Seに対してその反応性を調べるために、BH3+(CH3)2X(X=O,S,Se)のルイス酸-塩基反応の比較を行った。(CH3)2Xの塩基性度の違いは配向様式の違いとなって表れるが、これら反応性の違いを軌道相互作用の観点から考察した。

[結果と考察]

 (CH3)2Xは塩基特有の電子供与性を示す軌道としてHOMO(b2)と2nd-HOMO(a1)を持ち、BH3は酸特有の電子受容性を示す軌道としてLUMO(a2-)を持つ。図1にこれらの分子軌道の形と軌道エネルギーレベルを示す。図からわかるようにb2a2-は(CH3)2XがBH3に対して傾くほど重なりが大きくなり、両者からできる軌道(MO1)のエネルギーは安定化する。逆に、a1a2-の重なりは(CH3)2Xが傾くほど小さくなり、両者からできる軌道(MO2)のエネルギーは不安定化する。

図1 BH3と(CH3)2Xの主な分子軌道およびその軌道エネルギー

 (CH3)2Seと(CH3)2Sでは、HOMOのエネルギーレベルはかなり高く2nd-HOMOとの差はかなり大きいためMO1の影響が重要であり、BH3に対して大きく傾くことが予想される。他方(CH3)2Oでは、HOMOと2nd-HOMOのエネルギーレベルは共に低いためMO1とMO2とも配向に対するエネルギー変化は比較的小さくなり、それほど傾かないことが予想される。MP2レベルで計算された配向角はX=Se,S,Oに対して104.8,110.1,132.3度となり、(CH3)2Seは塩基として強い反応性を示すことが分かった。

2)ZnSe結晶成長表面への光照射の効果および成長機構

 GaAs(001)面を基板として使うZnSe結晶成長において、価電子帯と伝導帯のバンド端レベルはZnSe/GaAs接合部に近づくにつれて低下する。したがって、光照射により伝導帯へ励起された電子はZnSe結晶の下層へ、価電子帯に生じたホールは上層へ移動し、結晶表面にホールが蓄積されることになる。我々はこのモデルに基づき、光照射下での表面成長機構を検討した。

[計算モデル]

 (CH3)2Seおよび(CH3)2ZnのZnSe(001)面への吸着過程をRHF,MP2法により調べた。ZnSe表面はクラスターZn4Se4((CH3)2Seに対するクラスターはZn4Se4、(CH3)2Znに対してはSe4Zn4と記す)で近似し、クラスターの構造はバルク結晶の構造に固定した。また、吸着過程を通して系全体にC2v対称を仮定した(図2)。上述したように光照射下では結晶表面にホールが蓄積される。我々はこの効果をクラスターをカチオンにすることで表現した。基底関数としては、Zn,Se原子にはHayとWadtの有効内核ポテンシャルおよび原子価基底関数(原料ガス,クラスター1層目はdouble zeta、2,3層目はminimal基底)を、C,H原子にはMIDI-1を用いた。

図2 ZnSe表面反応のモデル
[結果と考察]

 原料ガス((CH3)2X)が吸着したときのクラスターへの電荷移動量(q(Me2X))と金属-炭素原子間のoverlap population(p(X-C))を表1に示す。(CH3)2SeからZn4Se4への電荷移動は主にSeの非結合性軌道n(Se)からの供与によるものであるが、Se-Cの反結合性軌道への逆供与もまた同時に生じている。前者は(CH3)2Seの塩基としての性質を反映しており、また後者の影響でp(Se-C)が孤立分子の値に比べ0.14も小さくなっている。[Zn4Se4]+への電荷移動量、p(Se-C)もほとんど同じであり、(CH3)2SeがZnSe結晶表面上に吸着すると光照射に関係なくSe-C結合が弱められることがわかる。

 (CH3)2ZnとSe4Zn4の場合には電荷移動はほとんど生じず、p(Zn-C)も孤立分子の値と変わらない。しかし[Se4Zn4]+に吸着する過程では停留点が2箇所あり、P1点からより近い吸着点P2へ移る際に、(CH3)2ZnのHOMO(Zn-Cの結合性軌道;(Zn-C)軌道)から[Se4Zn4]+のSOMOへ電子が移動する。

 つまり[Se4Zn4]+への電荷移動量はP1点でほぼ0であるのに対しP2点では1に近い(表1)。またその結果としてp(Zn-C)はP1点からP2点に移ると減少しており、Zn-C結合は弱くなることがわかる。よって、(CH3)2Znは光照射によって初めて活性化されるといえる。

表1.原料ガスがクラスターに吸着したときの電荷移動量とoverlap population(MP2値)

 これら表面上での原料ガスに対する光照射の効果は、吸着過程における軌道エネルギーレベルを使って説明できる。(CH3)2Seと(CH3)2ZnのHOMOのエネルギーレベルはクラスターのvalence band edgeエネルギー(Ev)レベルよりも下にある。(CH3)2SeのHOMO(n(Se))は表面に近づくにつれてさらに低下し、光照射によるホールの影響はほとんど受けない。他方、(CH3)2ZnのHOMO((Zn-C)軌道)のエネルギーレベルは(CH3)2Znが表面に近づくにつれて上昇し、Se4Zn4のEvレベルと交差する。よって、Se4Zn4がホールをもつと(CH3)2Znの(Zn-C)軌道とvalence band edgeが縮退する前後で(Zn-C)軌道からSe4Zn4のホールへの電子移動が起こる。概念図を下に示す(図3)。縦軸は軌道エネルギーレベル、横軸は吸着距離Rを表わし、ステップAは光照射によるZnSe結晶それ自体の励起、ステップBは(Zn-C)軌道からZnSe表面のホールへの電子移動を示している。

図3 光照射下でのZnSe表面への原料ガス吸着の概念図

 以上より、Seの成長ステップでは、光照射に関係なく(CH3)2SeのSe-C結合が弱められるため、非照射下でも速やかな成長が期待されるが、Znの成長ステップでは、光照射により初めて(CH3)2ZnのZn-C結合が弱められ、非照射の場合に律速になっていた(CH3)2Znの分解反応が促進された結果として成長速度が増大すると考えられる。

審査要旨

 本論文は、II-VI族化合物半導体であるセレン化亜鉛(ZnSe)を、光を用いた有機金属気相成長(光OMVPE)法によって合成する際の、原料ガスの反応性、非照射下および光照射下での結晶表面上の原料ガスの挙動、ZnSeのバンドギャップ以上のエネルギーを有する光照射下での成長速度増大の機構に関して量子化学的側面から基礎的解釈を述べたものであり、基板直接励起型である光を用いた本成膜プロセスについての新規で重要な知見を報告している。本論文の構成は、以下の6章よりなる。

 第1章は序論であり、光関連材料の重要性およびそれら材料の成膜方法に関しての基礎的な事項について述べている。次に、青色発光素子であるZnSeの成膜方法としての光OMVPE法の重要性を示し、さらに本研究の対象であるZnSeの光OMVPEプロセスに関する実験的な諸事実を概観し、本研究の目的・意義について述べている。

 第2章では、手始めに、表面への配位活性化を分子軌道法ではどう扱うべきかを探るために、ルイス酸的な振る舞いを示すZnSe結晶表面上のZn原子を単純なモデル分子であるボランに置き換え、原料ガスであるジメチルセレンとの反応性を調べている。また、ジメチルエーテル系の分子(CH3)2X(X=O,S)に対しても同様の非経験的分子軌道計算を行い、XがO,S,Seの場合の(CH3)2Xおよび(CH3)2X-BH3錯体の構造および電子構造の比較を行っている。(CH3)2Xのボランへの配位反応に関して、軌道相互作用の観点から(CH3)2Seや(CH3)2SはHOMOであるSeやSの非結合性軌道からボランのLUMOへの供与が支配的であるのに対して、(CH3)2Oはボランへの電子供与が比較的弱く、しかもHOMOに加えて2nd-HOMOからの寄与も重要であることを定性的な立場から明らかにした。さらに、(CH3)2Xとボランとの相互作用エネルギーを分割することにより、軌道相互作用安定化エネルギーを定量的に見積もり、(CH3)2Seおよび(CH3)2Sのボランとの反応が(CH3)2Oとボランとの反応に比べ、軌道相互作用によってかなり安定化することを示した。これらの結果より、VI族原料である(CH3)2Seや(CH3)2Sはかなり強い電子供与性を示すことを結論としている。

 第3章は、ZnSeのOMVPEにおける光照射効果および光照射下での結晶成長速度増大の機構に関して、非経験的分子軌道計算を用いて検討した結果を述べたものである。この研究では、非照射下のZnSe結晶表面を中性のクラスターモデルを用いて表し、結晶表面にホールが蓄積されるという光照射効果についてはクラスターモデルをカチオンにすることにより表現している。非照射下の表面反応モデルにおいては、2章の結論を受けて、II族原料であるジメチルセレンは、ZnSeクラスターモデル(Zn4Se4)表面への吸着で非照射下でもそのSe-C結合が活性化されるのに対し、ZnSeクラスターモデル(Se4Zn4)表面に吸着したVI族原料であるジメチル亜鉛の表面分解反応は非照射下ではほとんど期待できないことを見いだしている。光照射下の反応に関しては、カチオンクラスター([Zn4Se4]+または[Se4Zn4]+)への吸着過程での原料ガスの軌道エネルギーレベルのシフトに着目することにより、光照射効果を明らかにしている。すなわち、吸着過程で生ずるジメチルセレン中のSeの非結合性軌道(HOMO)のエネルギーレベルの下降およびジメチル亜鉛のZn-C間の結合性軌道(HOMO)のエネルギーレベルの上昇により、ジメチル亜鉛は光照射によりZn-C間の結合性軌道から[Se4Zn4]+クラスター表面のホールへの電荷移動が生じるが、ジメチルセレンに対しては光照射効果による更なる表面分解反応の促進は生じないこと見いだしている。これらの結果は、光照射下でのみ、SeおよびZn成長ステップが交互に滑らかに起こり、ZnSe結晶がエピタキシャル成長することを初めて説明したものである。

 第4章では、第3章の研究において、ジメチル亜鉛がZnSe結晶表面を表現するクラスターに吸着する際に生じたポテンシャル曲線のカスプの問題について量子化学的な考察を行っている。このカスプは、ジメチル亜鉛からクラスターへ電子移動を起こす前後で主電子配置が入れ替わることにより生じるものであるが、反応経路上での電子配置の入れ替えを考慮した、2配置SCF波動関数でさえ、この反応系の記述には不適当であり、この2配置SCF波動関数を用いてもカスプは消えずに残るということを明らかにした。この現象は、Brillouinタイプの定理を導くことにより説明できると結論している。

 第5章では、結晶表面への吸着反応などを理解するうえで重要となる結合様式を解析するための手法を提案し、ここでは1つの例として第2章で取り上げた反応系(CH3)2X...BH3に適用している。この解析方法は、分子内の任意の原子対に対して局所座標系を用いることで、原子間のoverlap populationを,,成分に分離するものであり、波動関数の物理的な内容を不変に保つような一次変換により原子間の結合をよりよく理解しようとする立場において重要である。この方法により、結晶表面でしばしばみられるd-p結合などの複雑な結合様式に対しても定量的な評価を可能にした。

 第6章は総括であり、本論文で得られたZnSeの光OMVPEプロセスに関する知見を整理し、今後の展望と、実験への示唆について述べている。

 以上述べたように、本論文はZnSeの光OMVPEに関してその成長機構の解明、ならびに他の光成膜プロセスへの応用という観点で重要な成果を挙げており、その結果は工業化学の分野で寄与するところ大である。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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