学位論文要旨



No 110789
著者(漢字) 賀,泓
著者(英字)
著者(カナ) ガ,ホン
標題(和) 固体表面に生成する炭化水素中間体の構造と反応性に関する研究
標題(洋) Structure and Reactivity of Hydrocarbon Intermediates on Solid Surfaces
報告番号 110789
報告番号 甲10789
学位授与日 1994.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2831号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,虔一
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 村田,好正
 東京大学 教授 岩沢,康裕
内容要旨 第一章序論

 炭化水素および含酸素炭化水素化合物を中間体とする触媒反応は多く存在する。そのうち、特にC1化学と呼ばれる合成ガス(CO+H2)反応は次世代の化学工業の原料を合成する触媒反応として注目されている。このような炭化水素および含酸素炭化水素中間体の最も基本となるのはCHXやCHXOである。不均一触媒ではCHXやCHXOの生成、反応、消滅は反応機構を解く鍵として重要である。しかし、検出、同定が難かしく、固体表面の炭化水素中間体についてもまだよく分かっていない。本研究では表面反応を知るために表面に炭化水素中間体や新たな表面化合物を作ってHREELS分光法で検出し、その構造と反応性について調べた。また、測定に用いたHREELSの検出において炭化水素のC-H伸縮振動のエネルギー損失機構が衝突散乱であることに注目し、酸化物単結晶と酸化物蒸着膜表面にHREELSを応用する実験を試みた。

第二章実験

 高分解能電子エネルギー損失分光法(HREELS)、オージェ電子分光法(AES)、低速電子回折(LEED)および昇温脱離(TDS)をを用いてNi(100),MoOX蒸着膜およびTiO2(100)表面に生成する炭化水素中間体の構造と反応性を調べた。

第三章Ni(100)上のカーバイド炭素の水素化反応の中間体の検出およびその反応性3-1)炭化水素生成反応の中間体

 Niはメタネーション反応(CO+3H2→CH4+H2O)の触媒として知られている。この反応の中間体はカーバイドであると考えられているが、中間体と予想されるCHXをカーバイドの直接水素化で検出した例はまだない。本章では、清浄Ni(100)表面に単原子層以下のカーバイドを作成し、その水素化を行なった。図1はカーバイドの水素化で生成したCHXおよびCDXのHREELSスペクトルである。2970cm-1(2160cm-1)のピークはC-H(C-D)伸縮モード、1000〜1450cm-1にある多重ピークはCHX(CDX)種の変角モード領域に帰属される。電子エネルギー損失散乱強度の角度依存性からC-HおよびC-Dの伸縮振動は主として衝突散乱によることを確認した。この実験はカーバイドの水素化でCHXおよびCDXが生成することを初めて確認した実験である。強い変角振動が検出されたことからCHX種はCH2かCH3であると考えた。水素化された試料を昇温すると、2970cm-1と1380cm-1のピークの強度はほぼ一緒に減少することから、両ピークが同一表面種に基づくロスピークであると結論した。また、試料を1.0×10-7Torr水素雰囲気中で段階的に加熱するとき、CHX種の更なる水素化によるCHX(a)+H(a)→CH4の反応は殆ど起こらない。以上の結果により、次のような平衡反応が存在すると推定される。

 

Fig.1.HREEL spectra of CHX and CDX on carbide Ni(100). The Auger peak ratio of C(KVV)/Ni(LMM)=0.1.(a),(b);1×10-7 Torr H2 at 313 K for 20 min.,(c);1×10-7 Torr of D2 at 313 K for 20 min.

 上記の平衡反応による同位元素交換反応はCHXの生成反応よりずっと遅いことが分かった(図2)。

Fig.2.Exchange reaction of D with H in CDX at 313K.CDX precovered sample is exposed to 1×10-7 Torr of H2 at 313K.
3-2)グラファイト生成反応の中間体

 Boudouard反応(2CO→C+CO2)によってNi(100)上に生成したp4g(2×2)構造のカーバイドをH2に触れさせてもCHXの生成は認められない。しかし、この表面をH原子で水素化すると、CH2でなく主にCHを生成することが分かった。この場合LEEDパターンはp4g(2×2)→p4g(2×2)(弱)+c(2×2)→c(2×2)と変化した(図3)。このようにして得たc(2×2)表面を真空中で10K/sの速い速度で600Kまで昇温するとp(1×1)構造になる。p(1×1)構造になった表面の炭素のオージェスペクトルの微細構造はグラファイトが生成していることを示す。以上の結果から、p4g(2×2)カーバイド表面は水素化してCHが生成することにより、p4g(2×2)の下地のNi原子の配列は緩和されc(2×2)構造になること、およびc(2×2)になった表面では単原子層グラファイトの生成反応が促進されることが分かった。

Fig.3. Thermal change of hydrogenated p4g(2×2).
第四章Ni(100)上で起きるCOの直接水素化反応

 Ni(100)上の吸着COは解離しないので通常の条件では水素化反応は起こらない。しかし、水素中に微量の酸素が混存していると、Ni(100)表面で一酸化炭素と水素が直接反応することを見いだした。図4はCO吸着表面に室温で微小量の酸素を含む水素を反応させた後のHREELSスペクトルである。酸素が存在するとCO伸縮が消失する一方、2940cm-1と3600cm-1近辺にC-H伸縮振動とO-H伸縮振動のピークが現われる。図4(c)のHREELSスペクトルにCOの伸縮振動が現われていないが、その試料を昇温すると、主な脱離分子はCO,CO2およびH2であり、H2COの脱離も約490Kに観察された。すなわち、微小量の酸素が存在すると吸着COの水素化により炭化水素または含酸素炭化水素種(HXCOY)が生成する。重水素を用いた実験から、酸素の吸着によってニッケルバルク中の吸蔵水素が表面に析出し、表面酸素やCOと優先的に反応すると結論した。

Fig.4.HREEL Spectra of(a)after doing CO only on clean Ni(100),(b)exposure pure H2 on CO/Ni(100),(c)exposure H2+O2(1:10-5)on CO/Ni(100)and(d)exposure D2+O2(1:10-5) on CO/Ni(100).
第五章高分解能EELSのMoOX蒸着膜への応用

 酸化モリブデンは水素化、水素化分解、メタセシス、脱硫などに有用な触媒である。C-H伸縮振動によるエネルギー損失が主に衝突散乱であることに注目し、高分解能EELSをMoOX蒸着膜に応用することを試みた。

 モリブデン多結晶基板上に作成した酸化モリブデン蒸着膜表面のHREELSスペクトルを図5(a)に示す。酸化物表面に特徴的なフォノンピークが見られるが、室温でCD3ODやCH2I2を導入すると図5(b,c)に示すように1100〜1400cm-1,2200cm-1,2950cm-1

 振動モードの文献値および露出量や昇温脱離などの実験から、ピークは表面に生成した吸着種のC-O(1100cm-1),C-H(2950cm-1),C-D(2200cm-1)の伸縮振動、およびCHXの変角振動(1100〜1400cm-1)に帰属できた。その吸着種は解離吸着のCD3O(a)と未解離吸着のCH2I2(a)である。この実験から、酸化物超薄膜に対して、HREELSを有効に応用できることが示された。

Fig.5.HREEL spectra of adsorbed species on MoOX surface at 300K.(a)before adsorption,and after the adsorption of(b)CD3OD and(c)CH2I2 on the MoOX.
第六章MoOX蒸着膜およびTiO2(100)上での炭化水素吸着種の光反応

 HREELSと質量分析を組み合わせてMoOX蒸着膜でのCD3O(a)やCH2I2(a)吸着種の光反応を調べた。紫外可視光(310〜580nm)を照射すると、CD3O(a)のエネルギー損失ピークは直ちに消失すること、一方、CH2I2(a)吸着種の場合、2分間の照射により2950cm-1のC-H伸縮振動は3025cm-1にシフトし、さらに照射すると消失する(図6)。2950cm-1から3025cm-1へのシフトはCH2の炭素のsp3に近い混成状態からsp2に近い混成状態への転換を示している。このことはCH2I2(a)表面種が光照射により解離し、Mo=CH2を生じたことを示唆する。光脱離してくる分子を調べたところ、CD3ODを吸着させた系では光照射によりCD3ODやD2COが脱離するのに対し、CH2I2を吸着させた系ではCH4,CH2O,C2H4などの脱離が観測された。

Fig.6.Change of HREEL spectra of CH2I2 on the decomposed MoOX surface by UV illumination.(a);CH2I2 adsorption 300 K,b);after UV illumination of(a)for 2 minutes and(c);after UV illumination of(a)for 14 minutes.

 さらに、CH2I2を吸着させた試料の光照射前と後の昇温脱離スペクトルを比べて見ると、照射後の表面では新たなCH4脱離ピークが高温側に現われ、光照射によりMo=CH2を生じる考えを裏付けた。

 紫外可視光の照射によるCO2とH2Oの還元反応(CO2+H2O→CH4+CH3OH+O2)に対して、TiO2(100)はTiO2(110)より高い触媒活性を示している。反応前後のTiO2(100)をHREELSとAESで調べたところ、図7に示すように炭化水素反応中間体およびOH(a)が検出され、表面酸素の増加も見いだした。Ar+スパッタリングしたTiO2(100)にH2Oを露出するとOH(a)が生成するが、CO2と反応しない。CO2の還元または炭化水素反応中間体の生成に光の照射が不可欠であることがわかった。

Fig.7.HREEL spectra of TiO2(100)before and after UV irradiation.(a)clean surface,(b)after UV irradiation for 5 min.in the presence of CO2(1 Torr) and gaseous H2O(3 Torr).(P;phonon peak,P-P;phonon-phonon peak)
審査要旨

 本論文は六章からなり、第一章序論、第二章実験、第三章Ni(100)上のカーバイドの水素化反応の中間体の検出およびその反応性、第四章Ni(100)上における吸着COの直接水素化反応、第五章高分解能電子線エネルギー損失分光法(HREELS)のMoOX蒸着膜への応用、第六章MoOx蒸着膜およびTiO2(110)上での炭化水素吸着種の光反応について述べられている。

 第一章は本研究の背景である合成ガス(CO+H2)からの炭化水素や含酸素炭化水素化合物を合成する触媒の特徴や問題点について記述されている。

 第二章は主としてHREELS法を表面反応に用いる際の工夫や実験手法について詳細に述べられている。

 第三章ではメタネーション反応、CO+3H2CH4+H2O,の中間体とされているカーバイドをNi(100)表面に作り、その水素化で生成するCHx中間体を直接検出し、その構造及び反応性について調べた。カーバイド濃度が小さいNi(100)-C表面は(1×1)構造であるが、カーバイド濃度が大きくなると(2×2)p4g構造に変わることが知られている。このようなカーバイドが水素化されメタンが生成するとすると、水素化の中間体としてCHXが表面に生成すると予想される。しかし、これまで、カーバイドを水素化し生成するCHXを直接検出した例はなかった。

 本論文では、カーバイド濃度が小さい(1×1)構造の表面とカーバイド濃度が大きい(2×2)p4g構造の表面に分けて詳細な研究を行った。カーバイド濃度の低い(1×1)Ni(100)-CをH2で水素化すると、室温で容易にCHXが生成することを見いだした。生成したCHX吸着種がCH,CH2,CH3のいずれであるかをHREELSを用いて決める実験を行い、カーバイドの水素化で直接生成する安定な中間体はCH2であることを明らかにした。また、CH2CH3にエネルギー障壁があることを明らかにし、CH4を解離させると、何故CH3がニッケル表面に安定に生成するのかを理解できた。

 一方、(2×2)p4gNi(100)-Cを同じ条件でH2で水素化してもHREELSでCHXは全く検出されない。しかし、フィラメントで熱解離した水素原子で(2×2)p4gNi(100)-Cを水素化するとCH2でなくCHが生成することを見つけた。しかし、このような原子状水素での処理では表面炭素は減少せず、メタンまでは水素化されない事が分かった。さらに、原子状水素で(2×2)p4gNi(100)-C表面を処理する実験で、次の構造緩和が起きる事を見つけた。

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 ここで、(2×2)p4g表面を原子状水素で水素化しても表面の炭素量は減少しないので、メタンは生成しない。原子状水素処理をしない(2×2)p4gNi(100)-C表面を加熱すると、表面カーバイドは680Kで分解し炭素原子はNiバルクに溶解するだけでグラファイトへの転移は起きない。しかし、ここで得たc(2×2)Ni(100)-CH表面を加熱すると600Kでグラファイトに転換することから、c(2×2)Ni(100)-CHの生成はグラファイトへの転換を促進することが分かった。これらの一連の実験から、メタンまで水素化される中間体としてのカーバイドは、これまでに言われているような(2×2)p4gNi(100)-Cではなく、表面に分散して生成する(1×1)構造のCNi4であると結論した。

 第四章ではこれまで起きないとされていたNi(100)表面でのCOの直接水素化を見つけた事をのべている。即ち、水素中に極く微量の酸素が存在すると、Ni単結晶中に溶けている水素が表面に析出し、直接COと反応しHxCOyを生成する事を見つけた。重水素を使いHREELSとTDSを組み合わせた実験から、この新しい反応を確認した。

 第五章と第六章はこれまでのCHXの研究でC-H伸縮振動が主として衝突散乱によるエネルギー損失であることが分かり、この特徴を利用することでHREELSを単結晶以外の固体表面への応用を試みた研究である。MoOx及びTiO2(110)表面での光反応に応用し、HREELSを単結晶以外の系にも使える事を示した。

 なお、論文内容の一部はCatal.Letters,16(1992)407,Surf.Sci.,283(1993)117及びCatal.Letters,25(1994)105に中村潤児、田中虔一らとの共著で既に発表されているが、いずれの論文も本論文提出者がトップオーサーとして主体的に行った研究であり論文への寄与が十分であると認めた。従って、本論文の提出者である賀泓は東京大学博士(理学)の学位を受けるに十分な資格を持つと判断する。

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