魚類の体液の浸透圧調節には主に鰓、腸、腎臓等が与っている。しかし、鰓や腎臓などの浸透圧調節器官が発達していない、発生初期における浸透圧調節機構に関してはほとんど知られていない。本研究においては、淡水、海水のどちらでも繁殖可能な広塩性の魚であるティラピア(Oreochromis mossambicus)を材料として、発生初期における浸透圧調節機構を生理学的、内分泌学的に解明することを目的として、以下の実験を行った。 本論文は5章からなり、第1章においては、発生初期のティラピアの卵黄嚢に、塩類細胞がよく発達していることに着目し、異なった浸透圧環境下における塩類細胞の活性の変化を調べている。卵黄嚢上皮の塩類細胞は、成魚の鰓の塩類細胞と同様に、ミトコンドリアおよび微小管系がよく発達し、ミトコンドリアに特異的な蛍光色素であるDASPEIにより染色される。この塩類細胞は、受精2日後(ふ化3日前)の胚にすでに認められ、淡水中で発生が進行した場合に比べ海水中で有意に大きい。また孵化仔魚を淡水から海水に移すと大型化し、逆に海水から淡水に移すと小型になる。上皮中の塩類細胞数はふ化後5日目が最高で、その後卵黄吸収に伴い徐々に減少する。この間に鰓において塩類細胞が分化し、機能を開始するものと思われる。 第2章においては、卵黄嚢上皮の塩類細胞の発達におけるコルチゾルの影響をIn Vitroにおいて明らかにしている。成魚の鰓の塩類細胞の分化および機能発現には、副腎皮質ホルモンのコルチゾルが重要とされている。発生初期の魚の胚においては、下垂体、副腎などの内分泌腺は当然発達していないが、卵黄中には母体に由来するコルチゾルが存在することが知られている。ふ化後4日目の胚の卵黄嚢を24時間培養すると、コルチゾルを0.1g/ml以上含む培養液中では、塩類細胞数が対照群よりも有意に増加しており、DASPEIの蛍光強度も増大していた。 第3章においては、コルチゾルの影響をIn Vivoにおいて検討を行っている。先ず、淡水中の胚および仔魚をコルチゾルを含む環境水中で10日間飼育したところ、塩類細胞の大きさは用量依存的に増大し、0.1g/mlで処理した場合は3日後に、0.01g/mlでは6日後、0.001g/mlでは9日後に、有為な差が認められた。一方、卵黄中に比較的多量に含まれている甲状腺ホルモンは、塩類細胞の発達には特に重要な関与はしていないようである。 第4章においては、淡水あるいは海水中でふ化したティラピア仔魚のプロラクチン、成長ホルモン細胞の発達とホルモン遺伝子の発現を免疫組織化学ならびにin situ hybridization法で比較している。プロラクチンは、多くの広塩性の魚類において、淡水適応に重要なホルモンとして知られている。一方、プロラクチンと同族のホルモンである成長ホルモンは、特にサケ科魚類において、海水適応時に重要な働きをしている。テイラピアには分子量の異なる2種のプロラクチンが存在するが、双方とも、海水中の仔魚よりも淡水中の仔魚の方が発現が強く、またプロラクチン細胞の下垂体に占める割合も大きい。免疫組織化学的な検討結果も同様で、免疫陽性のプロラクチン産生細胞の大きさ、下垂体中に占めるプロラクチン細胞の割合、および免疫反応の強さの全てが、淡水中の仔魚の方が海水中のものより大で、やはり淡水適応時におけるプロラクチンの重要生を示している。成長ホルモンに関しては、この様な変化は認められなかった。 第5章においては、ティラピアの下垂体が産生する2種のプロラクチンのどちらが淡水適応に重要であるかを調べるため、それぞれのプロラクチンに特異的な抗体を用いたラジオイムノアッセイ系を作成した。血中および下垂体中の含量には、2種のプロラクチンの間に、差は認められなかった。ティラピアを海水に適応させると、2種のプロラクチンとも含量が有意に低下した。成長ホルモンの含量には、変化がなかった。下垂体を免疫染色したところ、同一の細胞が、2種のプロラクチンを産生することが明らかとなった。ティラピアの淡水適応には、双方のプロラクチンが重要であると思われる。 以上に述べた一連の研究により、ティラピアの卵黄嚢上皮に存在する塩類細胞が、発生初期における海水適応の際に重要な浸透圧調節部位であると考えられ、成魚の鰓のそれと同様に、コルチゾルの影響を強く受けているものと思われる。また、2種のプロラクチンが発生初期においても淡水移行時に活性化することから、成魚の場合と同様に、プロラクチンがやはり淡水適応に関与していると思われる。魚類の発生初期の浸透圧調節機構とホルモンの作用機序の解明は、内分泌学および生理学一般において新たに拓かれつつある分野であり、本論文提出者、フェリックスアイソンは博士(理学)の学位を受ける資格があるものと認める。なお印刷公表論文は共著であるが、いずれも論文提出者が主として研究を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 |