学位論文要旨



No 110805
著者(漢字) 林,昌奎
著者(英字)
著者(カナ) リーム,チャンキュ
標題(和) 離散的な特性を考慮した流氷運動の数値モデルの研究
標題(洋)
報告番号 110805
報告番号 甲10805
学位授与日 1994.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3260号
研究科 工学系研究科
専攻 船舶海洋工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加藤,洋治
 東京大学 教授 藤野,正隆
 東京大学 教授 前田,久明
 東京大学 教授 宮田,秀明
 東京大学 助教授 山口,一
内容要旨

 1970年代なかばのオイルショックをきっかけに、北極地域に埋蔵する金属資源やエネルギー資源などの天然資源への関心が高まり、それらの調査・開発のため、氷海域への船の出入りや海岸・海洋構造物の建設が飛躍的に増加した。氷海域でのより安全な航海、及び極地域の環境に耐える海岸・海洋構造物の設計・建設のため、比較的狭い領域での氷の移動や氷と海岸・海洋構造物との相互作用に関するより詳細な研究が活発になった。Thomson et al.、Bruno & Madsen、Rheem et al.は従来の広い領域での海氷の長期変動のモデルに適用された連続体モデルを、狭い領域での海氷の短期変動に適用した。一方Savage、Serrer et al.、Frederking & Sayedは海氷を円盤にモデル化し、各々の円盤の運動を個別に解析する個別要素モデルを提案した。しかし、連続体モデルは、狭い領域での海氷の短期変動の解析にあたって重要になる海氷の離散的な特性の表現が出来ないため、制限的な適用に止まっている。また、個別要素モデルは海氷の離散的な特性をそのままモデル化したため、詳細な氷の移動や氷と構造物との相互作用の数値的な解明に適切なモデルではあるが、数値演算の複雑化のため計算時間が長くなり、扱える氷盤の数も限られるという欠点がある。

 本論文が提案するDistributed Mass/Discrete Floeモデルは、流氷の離散的な特性を考慮した、新たな流氷運動や流氷と海岸・海洋構造物との相互作用の数値解析モデルである。また、このモデルは現状においては海氷の生成・消滅を無視する海氷の力学的モデルで、比較的狭い領域での海氷の短期変動を取り扱っている。DMDFモデルはかつての連続体モデルや個別要素モデルが持つ問題点の克服の可能性を示したモデルであり、連続体モデルと個別要素モデルの両方の特性を含む中間的モデルである。DMDFモデルを用いることによって、連続体モデルがなし得なかった流氷の離散的な特性の表現が可能になり、個別要素モデルの欠点であった扱える氷盤の数を大幅に増やすことができた。

 DMDFモデルは、流氷を計算格子に合わせて長方形の氷の集団、すなわち氷群に分解し、氷群の運動と変形を数値的に解析する。氷群の中の氷は全て同じ大きさを持ち、均一に分布するものと仮定する。流氷は弾性のない円盤または、矩形盤にモデル化した。氷群の移動及び変形時に働く主外力として、風・海流によるせん断応力、コリオリ力、海面の傾きによる水面傾斜力、及び流氷の相互作用による内部応力を考慮している。流氷の内部応力は、氷群の衝突と氷群の運動量の変化の関係から定式化した。氷群の移動はsemi-Lagrangeタイプの質量輸送システムを用いた。流氷に及ぼす海流の影響を直接に考慮するため、流氷運動と海水の流れの同時解析を行った。また、海面での海水の流れをより正確に評価するため、多層モデルを用い、MacCormack Predictor-correctorスキームによる差分計算法を用いて海流の解析を行った。

 論文の第2章には、流氷の力学的変動を支配する外力項について述べている。風・海流から氷に加えられる力の評価の方法と、流氷の相互作用力の取り扱い方法について、連続体モデルのHiblerのviscous-plasticモデルと、流氷運動を個々の円盤運動の集合として取り扱うSavageの個別要素モデルを中心に述べられている。

 第3章には、流氷の離散的な特性を考慮した新たな流氷の力学的変動の数値シミュレーションモデルのDMDFモデルについて述べている。流氷のモデル化、流氷運動の定式化、流氷の相互作用力の取り扱い方法、海流の解析方法などを詳しく述べる。

 第4章には、流氷運動の様子や、流氷と海洋構造物との相互作用のメカニズムの把握のため、風路付造波回流水槽にて、模擬氷を用いて行った漂流実験について述べる。模擬氷の漂流の様子や水槽内に設置した構造物と模擬氷との相互作用の特性などが観測結果を中心に述べられている。

 第5章では、DMDFモデルを用いて、単純領域での流氷運動の数値シミュレーションを行い、このモデルを用いた場合の流氷運動の特性を調べるとともに合理性の検証を行う。計算に用いた単純領域は、流氷運動や海岸・海洋構造物との相互作用を特徴的に捉えられ、かつ実海域にも有り得るような領域を選んだ。

 第6章では、DMDFモデルによる流氷運動の数値シミュレーションと、模擬氷の漂流実験、実海域での流氷の観測及び、他モデルの計算結果との比較を行ない、このモデルの適用性を確かめる。

 模擬氷の漂流実験から、流氷運動及び、流氷と構造物との相互作用の特徴についてまとめると次のようになる。

 1.流氷運動と海水の流れはお互いに影響を及ぼし合っている。従って、流氷の変動を精度良く予測するためには、海面での水の流れの解析を流氷運動の解析と同時に行われなければならない。

 2.流氷を構成する氷盤の形によって、運動の様子が大きく異なる。

 3.流氷の衝突によって構造物に加わる氷荷重は、離散的に変動するとともに、最大値は平均値より遥かに高い値になる。この実験では、模擬氷と構造物との最初の接触の直後に平均値のおよそ30倍の高い氷荷重のピークが現れた。

 第5章に示した単純領域での流氷運動の解析と、第6章に示す模擬氷の漂流の実験及び、実海域での流氷の観測結果とモデル計算結果との比較から、このモデルによる流氷運動のシミュレーション結果が合理的であり、流氷運動の特性をよく表していることがわかった。それらをまとめると、

 1.海水の流速は海水面に与えられる応力の大きさに左右される。海水面に与えられる応力は空気と水面の間の摩擦力と、流氷と水の間の摩擦力の和であり、氷の密接度の関数とする。流氷が全領域に均等に分布する場合は、全海水面に一定の応力が与えられるため、場所による海水の流速の差は生じない。しかし、流氷の分布が均一ではないあるいは、流氷が部分的に分布する場合には、場所によって海水面に与えられる応力が異なるため、海水の流速の差が生ずる。このような海水の流速の差は、そのまま流氷の流速の差になって現れ、流氷域の拡大や流氷域内の氷の密接度の変動につながる。

 2.流氷と海岸・海洋構造物との相互作用は、構造物周りの海水の流れと流氷の横移動に大きく関係する。構造物が水の流れを妨げる場合は、構造物の周りに構造物に沿って流れる海流が形成されるので、流氷はその流れの影響を受け、構造物を回り込むように移動する。また、流氷が円盤に近い場合には、流氷の相互作用による流氷の横移動が多くなるので、構造物の前面での流氷運動は活発になり、構造物を回り込む流氷の量も多くなる。一方、構造物が水を妨げない場合あるいは、流氷が矩形盤に近い場合には、構造物を回り込む流氷の量は少なく、構造物の上流側での流氷運動は安定になる。氷荷重の方は流氷運動の安定性に比例し、円盤流氷に近い流氷が、水の流れを妨げる構造物と衝突する場合激しく変動するが、矩形盤に近い流氷が水を妨げない構造物と衝突する場合には、比較的安定した値になる。

 3.本モデルによる計算結果は、模擬氷を用いた実験における氷盤の運動や構造物への氷荷重をおおむね良く表している。しかし、以下の理由により、細部においては差異がある。DMDFモデルは、流氷運動を流氷の集団である氷群の移動や変形の数値解析を用いて表すため、個々の流氷の間の相互作用及び流氷の回転は考慮していない。また、水槽での模擬氷の漂流実験のように流氷の大きさが比較的小さいとき無視できなくなる水の表面張力や水槽の水面に発生する波の影響も考慮していない。

 4.実海域での流氷運動の数値シミュレーションから求められた、流氷域内のある氷盤の流速は、計測の結果と割合よく一致している。詳しく言えば、氷盤の流速が0.5m/sec以下では計算と観測は非常によく一致している。流速が速くなると計算の方が観測のものより小さくなるが、その変化は良く捉えられている。

 一般的に、連続体モデルは比較的広い領域での流氷運動を取り扱うのに適切であるが、比較的狭い領域での流氷運動、特に流氷の相互作用の影響が大きく現れる領域では適用が困難であると言われている。また、個別要素モデルは流氷の相互作用の影響が大きく現れる領域での流氷運動を取り扱うために提案されている。それに対してDMDFモデルは広い領域及び、流氷の相互作用の影響が大きく現れる領域での流氷運動の両方の取り扱いに適切なモデルである。すなわちDMDFモデルは、かつての連続体モデルと個別要素モデルの両方の特性を含む、中間的なモデルである。このモデルを用いることによって、連続体モデルでは表現できない流氷の離散的な特性を表せるとともに、個別要素モデルに比べより多くの流氷を、短時間で計算できる。

 以上により、DMDFモデルの有効性が確認できたと思われるが、本モデルは未だ開発途上にあることも事実である。本モデルの実用性をより高めるための改良法については、第7章に述べられているが、要約すると以下のようになる。

 1.観測データとの比較を多く行い、氷盤の形状や大きさ、摩擦係数などのパラメーターをtuningする。

 2.運動量保存則に加えて角運動量保存則も加え、氷盤の回転運動も考慮できるようにする。

 3.数値計算法を改良し、1タイムステップ内の氷盤の衝突過程をより厳密に表せるようにする。

審査要旨

 流氷の運動とそれによる氷荷重を精度良く予測することは、自然環境や沿岸住民の生活という側面ばかりでなく、氷海用構造物,船舶などの経済活動にも極めて重要である。例えば、構造物に働く氷荷重は構造物の設計に必要な外力の主成分であり、それを精度良く推定することは氷海用構造物の設計に必要不可欠なことである。また、この様な構造物の設置による流氷運動の変化が予測できれば、周辺環境への影響の評価につながるばかりでなく、流氷を制御するための構造物の効率的な設計に用いることができる。さらに、数日先までの流氷の運動が精度良く予測できるようになれば、氷海域を航行する船舶の最適航路設定に、大いに寄与する。

 流氷は、様々な大きさと形状の氷盤により構成され、お互いの氷盤が衝突・接触により力を伝達しつつ移動する。広範囲の流氷運動を計算する際には、この氷盤同士の相互作用力を直接計算に取り込むのは不可能で、種々のモデル化が行われる。地球物理学や気象学の分野では、流氷域全体を一つの連続体として捉え、相互作用力を変形に抵抗する力としてモデル化することがよく行われる。この様なモデルは、広範囲・長期間の流氷運動を大雑把に表現することには有効だが、構造物や船舶を対象とするような狭い範囲の運動を予測するには本質的な限界があり、また、氷盤の衝突による衝撃的な力を表すこともできない。一方、最近の氷海工学の分野では、円盤で近似した氷盤をLagrange的に追跡する個別要素モデルによる計算がいくつか行われ始めているが、個々の氷盤の運動を追跡し、極めて短時間に起こる衝突を計算しなければならないため計算量が膨大になり、実用的でない。本論文では、流氷域をいくつもの氷群に分割し、氷群内では均質な氷盤分布を仮定することにより、氷盤の衝突による衝撃的な力の伝達を表現するモデルが提案されている。"Distributed Mass/Discrete Floe Model"(以後、本モデルと称す)と名付けられたこのモデルは、流氷が本来持っている離散的な特性を考慮しつつ、連続体モデルに近い広範囲な流氷運動の計算も可能とするものである。本論文は、このモデルの定式化を詳述した後に実際に計算を行い、自ら行った風路付回流水槽での実験結果,文献に記されていたカナダ北極海沿岸での流氷運動観測結果,他モデルの計算結果と比較し、さらには境界条件を単純化した種々の領域についての計算結果を詳細に考察することにより、モデルの合理性と実用化の可能性を検証したものである。

 以下に本論文の構成と内容を示す。

 本論文は、8章より成っている。第1章は序論であり、研究の目的と必要性,従来の研究状況,論文の構成と各章の内容について述べている。

 第2章流氷の漂流では、まず、氷に働く外力の一つである風と海流による剪断力の測定法を解説し、既存モデルである連続体モデルと個別要素モデルを概説している。

 第3章Distributed Mass/Discrete Floeモデルでは、本モデルの仮定と定式化が詳しく述べられている。流氷域を多くの氷群に分け、氷群内及び氷群間の氷盤の衝突の際の運動量保存則により衝撃的な力の伝達を定式化している。すなわち本モデルは、個別要素モデルと連続体モデルの両者の利点を合わせ持つものであり、流氷が本来持っている離散的な特性を表現しつつ、広い範囲での計算も可能とする。流氷の形状の影響を議論するために、矩形氷盤の場合と円形氷盤の場合に分けて定式化している。また、氷と水の運動の相互干渉に着目し、多層モデルを用いた海水流動の計算と連立させて、流氷運動の方程式を解けるようにしている。

 第4章模擬氷の漂流実験では、本モデルの妥当性を調べるために行った風路付回流水槽での実験について述べられている。プラスチック製の矩形模擬氷,円形模擬氷の自由漂流と、それらと構造物模型の干渉実験を行って、流氷運動や氷荷重の特性を調べている。

 第5章単純領域での流氷流れの数値シミュレーションでは、境界条件を単純化したいくつかの領域について試計算を行い、計算された流氷運動の合理性を検証するとともに、海水との連成計算の重要性、境界条件の影響などが詳細に議論されている。

 第6章実験・実海域での観測および他モデルとの比較では、第4章で述べた実験結果やカナダ・ボーフォート海沿岸で観測された流氷の動きと計算結果を比較・考察し、さらに、連続体モデルと個別要素モデルによる計算結果とも比較している。

 第7章考察では、これまでの計算結果・比較結果を総括して本モデルの妥当性・合理性を改めて述べるとともに、モデルの今後の改良方法について示唆している。

 第8章は結言であり、本研究の結論を総括し、本モデルの発展性を述べている。

 以上要するに、本論文は流氷運動の計算に対して、離散的な特性を考慮した新しい数値モデルを提案し、それを用いて行ったいくつかの計算を比較・考察することによりモデルの合理性と実用化の可能性を示したものであり、氷海工学の発展に寄与するところが大きい。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53833