放射線の発見以来、その利用とともに人体に対する影響の研究も同時に進められてきている。原子力利用に伴う安全の立場から、あるいは放射線によるガンの治療という医学的観点など、いくつかの観点から多くの経験的な因果関係のデータは蓄積されてきているが、例えば、線質効果やLET効果の生ずる原因など人体影響のメカニズムに関しては、未解明な点が多い。現在、このメカニズムを解明するため、従来の多くの理論的実験的成果に基づき、マイクロドシメトリと呼ばれる新しい研究が進行中である。これは、放射線の人体や生物に対する効果は、特に低線量レベルではDNA(デオキシリボ核酸)に対する作用、つまりDNAの物理化学的変化として説明できるという知見に基づき、DNAレベルでの放射線量分布を求め、それにより放射線影響を評価しようとするものである。 本論文は、このマイクロドシメトリーの手法をベースとして、DNAに対する放射線損傷の効果をシミュレーションにより評価しているもので、全体は5章より構成されている。 第1章は緒言であり、マイクロドシメトリーに至る従来の研究の経緯と、現在のマイクロドシメトリー研究の現状と課題についてレビューを行なっている。特に、低レベル放射線の人体影響については、実験的な解明は統計性の点からも極めて難しく、マイクロドシメトリーによるシミュレーション評価による方法のみが可能であるとしており、本研究の方向性を明確にしている。 第2章は、単色電子線が人体中に入射した時、個々のDNAにどれだけのエネルギーを与えるかについてシミュレーション計算したもので、電子の散乱挙動計算を逐一模擬するモンテカルロ法に基づいている。特に本計算では、DNAの二重螺旋構造を幾何学的モデルとして正確に取り入れ、電子の散乱挙動に伴ってDNAの各分子に与えられるエネルギーを計算している。その結果、DNA中のリン酸塩部、糖部、水素結合部、水溶液ベース部につき、各領域毎の電子の散乱確率、エネルギー付与量、一重鎖切断(SSB)の発生確率と致命的な効果を与える二重鎖切断(DSB)の発生確率を求めている。DSBは、SSBが10塩基対以内(約3.4nm)に2個生ずる確率として評価しているが、特に放射線の人体影響上、修復不可能な損傷となるDSBの発生確率を電子エネルギー250eV〜20KeVの範囲で求めており、SSBに対し1/25という値を確定している。本結果には放射線が周囲分子を介してDNA損傷を与えるという間接効果は含まれていないが、DSB発生の直接過程を適切に記述している。 第3章は、DSBのように致命的な放射線損傷を生じやすい電子散乱点の密集した領域、クラスターの生成について評価している。計算手法は前章と同一であり、前章で求めた電子飛跡上の散乱点分布の結果に対し、解析ルーチンを追加してクラスター生成量を算出している。 その結果、同一の吸収線量の場合には、入射する電子エネルギーが50〜100eVと低い値のときに、クラスター生成確率が最も大きくなり、クラスタ一半径は数nm、クラスターに与えられるエネルギーは60eVが上限であると評価している。このことより、DNA損傷に対しては、電子飛跡中に生ずる低エネルギーの二次電子線(いわゆるデルタ線)や終端近くの60eV以下の電子などによるクラスターからの寄与が大きいと結論している。 第4章は、以上のような局所的損傷を受けたDNAのその後の挙動について、特に形態的変化の評価を行なったものである。具体的には、DNA中のサイトジン分子にOH基が付着して、5ハイドロキシ-6-サイドジニルラジカルになった後、DNAが新しい安定状態を求めてどのように変形するのか、分子動力学法に基づきGAUSSIAN92、AMBER4.0コードを用いて全原子の運動方程式を解いて求めている。 その結果、局所的損傷はDNA全体の形態的変化を生ずることを極めて視覚的に求めており、正常なDNAに比較して、全体が屈曲するような変形をすること、それに伴い多くの分子結合構造間において局所的な歪みとストレスを生ずることを明らかにしている。その変形は、約100ピコ秒という短い時間内に生じることも示している。 第5章は、結論であり、本研究の成果をまとめるとともに、今後残された問題は放射線によって細胞内に生じた水ラジカルがDNAを損傷するという間接効果の評価、および何等かの実測値との比較であるとまとめている。 以上をまとめると、本研究は放射線の人体への影響のメカニズムをDNAレベルでの放射線量分布に基づき評価しているものであり、特にその初期直接過程に多くの新しい知見を得ており、放射線の利用を進める諸分野にとって寄与するところは極めて大きい。 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |