学位論文要旨



No 110816
著者(漢字) ピナック,ミロスラフ
著者(英字)
著者(カナ) ピナック,ミロスラフ
標題(和) DNAの放射線損傷の理論的計算シミュレーション評価
標題(洋) Theoretical Computational Simulation of DNA damage by Ionizing Radiation
報告番号 110816
報告番号 甲10816
学位授与日 1994.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3271号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中澤,正治
 東京大学 教授 青木,芳朗
 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 助教授 井口,哲夫
 東京大学 講師 高橋,浩之
内容要旨 1.

 近年、低線量放射線の効果を健康へのリスクとして評価する研究が行われており、放射線の被曝により、染色体異常、細胞不活性化、発ガンなど、細胞に変化が起きる分子的メカニズムに注目が集まっている。細胞内に入射した放射線により誘発される、様々な生物物理あるいは生化学レベルの事象は、これら放射線による効果に根本的な関わりあいを持っている。これまでの研究により、細胞に対する放射線効果においては、DNA(デオキシリボ核酸)が最も重要な標的細胞構成要素であることが判明している。DNA周囲の原子分子またはDNAの各部分そのものが電離・励起されることが、放射線効果の物理化学的な開始点である。実験的研究に加え、理論的に照射後のこれら生体構造物の変化を探ることは重要なことである。計算機によるシミュレーションは、マイクロメータからナノメータのレベルでDNAにどのような物理化学的変化が起きているのかを探る、理論的手段の一つである。この研究の最終的な目標は、細胞に放射線のエネルギーが付与されてからDNAに重要な効果が現れるまでのメカニズムを明らかにすることである。

2.研究の方法

 放射線照射後のDNA及びDNA周辺に起きる初期(数psec以内)の変化は、

 a)DNA及び周囲の水分子の電離・励起と放射線化学作用による反応種生成。

 b)局所的な損傷の形成、(例えば塩基変化、塩基消失、DNA鎖切断等)

 c)局所的損傷が大局的な細胞機能や特性の変化につながる様相、

 というような、幾つかのステッブに分けることができる。最終的に、これらの変化が正常な遺伝子の損傷をおこし、突然変異、発ガンの初期化、細胞の分裂死などの原因となりうる。

 本研究で行ったこれらの課題のそれぞれに関する研究を以下に示す。

2.1.単色電子線によるDNA構造体へのエネルギー付与のモンテカルロシミュレーション

 電子の飛跡を計算するため、水蒸気中のモンテカルロシミュレーション計算コードであるETRACKを使用した。DNAモデルとして、ヌクレオチド構成要素である燐酸、糖(デオキシリボース)、塩基の幾何学的構造を記述する"構造モデル"(図1)を採用した。このモデルは、化学的な結合状態を考慮した位置情報を含んでいる。各部分は放射線により直接的に、または水ラジカルにより間接的に損傷を受けるものとして扱われており、形状としてはB-DNA構造に属する。ETRACKコードを用いて、50eVから100keVまでのエネルギーの単色電子線を細胞内DNAに均一に照射した場合に、DNA各部分で発生する相互作用の種類と頻度、及びそのエネルギー付与量に関するシミュレーションを行った。

図1 DNA構造モデル。
2.2.電子軌跡中でのクラスター生成

 ある領域が均一に照射された場合でも、相互作用は空間的に均一に起きているわけではない。線質効果は、主にこれら初期相互作用の空間分布の不均一性(クラスター状)に起因する。このため、50eVから100keVまでのエネルギーを持った単色電子線の飛跡上のクラスター生成シミュレーション計算を行った。ここでクラスターは、放射線との相互作用が複数個のかたまりとして起きている場所と定義する。計算では、飛跡上で相互作用があった二つの地点の距離がある基準値より短ければ、この二つの相互作用は一つのクラスターに属するとした。この基準値は、"構造モデル"で定義されるDNAの構成要素に応じて設定され、今回はB-DNA鎖のヌクレオチドの平均間隔、すなわち0.34nmとした。

2.3.5-ハイドロキシ-6-サイトジニルラジカルDNAドデカマーの分子動力学

 ここでは局所的損傷の形成が全体的形状変化へ影響するプロセスを調べた。具体的には、ピリシジン基のC5炭素にOHラジカルが付着した5-ハイドロキシ-6-サイトジニルラジカル(C*)が、9番目のサイトジンに置き代わったときのDNAドデカマーd(CGCGAATTC*GCG)2の、構造変化をみる分子動力学の方法を検討した。これは、水中に放射線で生成されるOHラジカルによって、最もよく生成される分子である。幾つかのステップ(エネルギー最小化、密度安定化、分子動力学)からなるシミュレーション計算は、AMBER(バージョン4.0)計算コードによってなされた。このシミュレーションでは、核酸の全原子の原子間に標準的な原子間力場を採用した。

3.結果及び考察3.1.単色電子線によるDNA構成要素へのエネルギー付与

 DNA分子のなかで放射線と直接相互作用する確率が最も大きかったのは、燐酸ジエステル結合部であった(確率52%)。DNAに対する衝突断面積を水蒸気と同じと見做したため、確率は構成要素の体積にほぼ比例し、細部は電子の飛跡に沿っての相互作用の分布に依存することになる。最も直接相互作用の確率が大きくなる入射電子エネルギー領域は5keVから10keVの間であった(図2)。このエネルギー依存性は、

 (1)電子のエネルギーが大きくなるに従って電子衝突断面積が減少すること

 (2)電子のエネルギー損失ストラグリングの2因子によってほぼ説明される。

図2 DNA構成要素各部分に対する相互作用率。

 DNAに付与されるポテンシャルエネルギー量は、大多数の場合に25eV以下であった(図3)。しかし、このエネルギー量は、DNA鎖切断や塩基変化を起こすために十分な大きさである。また、25eV以上のエネルギーを付与するためには2回以上の相互作用が必要となるので、多数回相互作用は一回相互作用よりも起こる確率が低いことが判明した(約1/10)。

図3 DNA各部分に対するエネルギー付与率分布。

 これらの結果により、SSB(一重鎖切断)と致死的な損傷となるDSB(二重鎖切断)の発生確率を評価することが出来る。今回、燐酸ジエステル結合部分にエネルギーが付与された場合、SSBが発生するための最低エネルギーを15eVと仮定した。その根拠は、電離衝突が燐酸ジエステル結合の切断を引き起こす化学変化の開始点であるので(分子動力学の部分で述べられる)、この電離エネルギーが12.6eV(水の電離ポテンシャル)以上必要であることにより設定した。SSBの収量は入射電子のエネルギーが5keVから10keVで最大になっている。これはこのエネルギー領域で衝突頻度が大きくなることに対応している。しかし、設定されたエネルギーしきい値のため、SSBの収量は小さく抑えられた。計算において、DSBは対の鎖でそれぞれSSBが10塩基対以内(〜3.4nm)に発生した場合に生成されるとした。これらの仮定の元で、250eVから20keVまでのエネルギー領域について計算を行ったところ、SDB/SSB比は1/25となった。この結果は他の研究者の計算結果と同様であり、実験結果ともよく一致している。

3.2.電子飛跡上のクラスター生成

 クラスター生成の頻度分布は、入射電子のエネルギー、クラスター中の相互作用の数やクラスター半径などの関数として求めた。以下の結果は全て吸収線量1Gy当たりに規格化してある。

 クラスター生成確率は、電子のエネルギーが低い場合(50〜100eV)に最も大きくなる。これは電子飛跡の長さが短い(〜1nm)ことにより相互作用密度が大きくなっていることの結果である。数百eVの電子の場合は大きなクラスター(数nm以上。これは5塩基対の以上の長さに相当)の作成率が最も低くなっている。数keVのエネルギーになると、最も低いエネルギーの電子に対応するものほどではないが、大きなクラスターを生成する確率は再び大きくなる(図4)。

図4 クラスター収量のエネルギー分布。(クラスター大きさ制限無し。相互作用種類制限無し。)

 クラスター中に付与されるエネルギーを決めるクラスター中の相互作用の数は2か3が最も起こりやすいことを考慮すると、この付与されるエネルギーは60eVが上限値となる。これ以上のエネルギーを付与するクラスターの生成確率は級数的に減少する。

 この計算では、クラスター生成確率は問題とするDNAの構造の定義に依存する。幾つかのヌクレオチド対が含まれる球状の領域を、放射線に対する最小有感単位と考える場合は、電子飛跡に沿って生成されるクラスター半径は数nm位になる。この結果小さいクラスターも大きいクラスターも発生確率は小さくなる(図5)。

図5 クラスターの大きさ分布。

 この結果より、糖-燐酸バックボーン損傷から始まるDNA損傷は、

 (1)電子の飛跡中の低エネルギーの二次電子(デルタ線)によるクラスター

 (2)高エネルギー電子が減速し止まる時に発生する、60eV以下の低エネルギーの電子によるクラスター

 によるものが大きいと結論づけられる。

3.3.5-ハイドロキシ-6-サイトジニルラジカルDNAドデカマーの分子動力学

 ここでは、局所的損傷が分子全体に広がっていく際の形態変化を扱うために、DNAの分子動力学シミュレーションを行った。この計算は幾つかのステップで構成されている。DNAドデカマーの9番目のサイトジンを5-ハイドロキシ-6-サイトジニルラジカルに置換したものを作り、モンテカルロ法で発生した水分子で満たした周期的境界条件の立方体の領域にこのDNAを入れ、エネルギー最小化、密度安定化、300Kまで加温、全原子の運動を分子動力学的に解く、というステップでシミュレーションを構成する。

 シミュレーション実行の後、損傷を受けたDNAと受けていないDNAの全体の構造比較や、その他の特性の比較(局所的ひずみ、糖の五員環構造の歪み、塩基構造の歪み、螺旋構造の歪み)を行った。正常なDNAと損傷を受けたB-DNAドデカマーを図6に示す。

図6 正常なDNA 損傷を受けたDNA
4.結論

 本研究では細胞が放射線を照射された場合に、DNA分子に複雑な損傷が発生するプロセスを理論的に一貫して解明することを試みた。このプロセスを幾つかの相互に関連のあるステップにわけて(DNAの幾何学的なモデル、放射線とDNA構造の各部分との相互作用分布、クラスター効果を扱うナノドシメトリ、及び損傷したDNAの分子動力学)解析した。これにより、放射線によるDNA損傷の初期プロセスに関する新しい知見が得られた。しかし、水ラジカルが溶液中を拡散してDNAと反応する問題、他のDNAの部位への反応過程及び相互関係の問題などが残されている。これらは、水ラジカルのブラウン動力学問題及び分子動力学との関連など、今後の研究課題も明らかとなった。

審査要旨

 放射線の発見以来、その利用とともに人体に対する影響の研究も同時に進められてきている。原子力利用に伴う安全の立場から、あるいは放射線によるガンの治療という医学的観点など、いくつかの観点から多くの経験的な因果関係のデータは蓄積されてきているが、例えば、線質効果やLET効果の生ずる原因など人体影響のメカニズムに関しては、未解明な点が多い。現在、このメカニズムを解明するため、従来の多くの理論的実験的成果に基づき、マイクロドシメトリと呼ばれる新しい研究が進行中である。これは、放射線の人体や生物に対する効果は、特に低線量レベルではDNA(デオキシリボ核酸)に対する作用、つまりDNAの物理化学的変化として説明できるという知見に基づき、DNAレベルでの放射線量分布を求め、それにより放射線影響を評価しようとするものである。

 本論文は、このマイクロドシメトリーの手法をベースとして、DNAに対する放射線損傷の効果をシミュレーションにより評価しているもので、全体は5章より構成されている。

 第1章は緒言であり、マイクロドシメトリーに至る従来の研究の経緯と、現在のマイクロドシメトリー研究の現状と課題についてレビューを行なっている。特に、低レベル放射線の人体影響については、実験的な解明は統計性の点からも極めて難しく、マイクロドシメトリーによるシミュレーション評価による方法のみが可能であるとしており、本研究の方向性を明確にしている。

 第2章は、単色電子線が人体中に入射した時、個々のDNAにどれだけのエネルギーを与えるかについてシミュレーション計算したもので、電子の散乱挙動計算を逐一模擬するモンテカルロ法に基づいている。特に本計算では、DNAの二重螺旋構造を幾何学的モデルとして正確に取り入れ、電子の散乱挙動に伴ってDNAの各分子に与えられるエネルギーを計算している。その結果、DNA中のリン酸塩部、糖部、水素結合部、水溶液ベース部につき、各領域毎の電子の散乱確率、エネルギー付与量、一重鎖切断(SSB)の発生確率と致命的な効果を与える二重鎖切断(DSB)の発生確率を求めている。DSBは、SSBが10塩基対以内(約3.4nm)に2個生ずる確率として評価しているが、特に放射線の人体影響上、修復不可能な損傷となるDSBの発生確率を電子エネルギー250eV〜20KeVの範囲で求めており、SSBに対し1/25という値を確定している。本結果には放射線が周囲分子を介してDNA損傷を与えるという間接効果は含まれていないが、DSB発生の直接過程を適切に記述している。

 第3章は、DSBのように致命的な放射線損傷を生じやすい電子散乱点の密集した領域、クラスターの生成について評価している。計算手法は前章と同一であり、前章で求めた電子飛跡上の散乱点分布の結果に対し、解析ルーチンを追加してクラスター生成量を算出している。

 その結果、同一の吸収線量の場合には、入射する電子エネルギーが50〜100eVと低い値のときに、クラスター生成確率が最も大きくなり、クラスタ一半径は数nm、クラスターに与えられるエネルギーは60eVが上限であると評価している。このことより、DNA損傷に対しては、電子飛跡中に生ずる低エネルギーの二次電子線(いわゆるデルタ線)や終端近くの60eV以下の電子などによるクラスターからの寄与が大きいと結論している。

 第4章は、以上のような局所的損傷を受けたDNAのその後の挙動について、特に形態的変化の評価を行なったものである。具体的には、DNA中のサイトジン分子にOH基が付着して、5ハイドロキシ-6-サイドジニルラジカルになった後、DNAが新しい安定状態を求めてどのように変形するのか、分子動力学法に基づきGAUSSIAN92、AMBER4.0コードを用いて全原子の運動方程式を解いて求めている。

 その結果、局所的損傷はDNA全体の形態的変化を生ずることを極めて視覚的に求めており、正常なDNAに比較して、全体が屈曲するような変形をすること、それに伴い多くの分子結合構造間において局所的な歪みとストレスを生ずることを明らかにしている。その変形は、約100ピコ秒という短い時間内に生じることも示している。

 第5章は、結論であり、本研究の成果をまとめるとともに、今後残された問題は放射線によって細胞内に生じた水ラジカルがDNAを損傷するという間接効果の評価、および何等かの実測値との比較であるとまとめている。

 以上をまとめると、本研究は放射線の人体への影響のメカニズムをDNAレベルでの放射線量分布に基づき評価しているものであり、特にその初期直接過程に多くの新しい知見を得ており、放射線の利用を進める諸分野にとって寄与するところは極めて大きい。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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