学位論文要旨



No 110820
著者(漢字) 三林,浩二
著者(英字)
著者(カナ) ミツバヤシ,コウジ
標題(和) 非侵襲バイオセンシングシステムの開発
標題(洋) Development of non-invasive biosensing system
報告番号 110820
報告番号 甲10820
学位授与日 1994.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3275号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 軽部,征夫
 東京大学 教授 柳田,博明
 東京大学 教授 藤正,巌
 東京大学 教授 氏平,祐輔
 東京大学 教授 渡辺,公綱
 東京大学 助教授 宮山,勝
内容要旨 1.研究の目的

 近年、日本では急速な高齢化に伴い老人介護など福祉医療が重要な問題となっている。また一方、労働の現場ではOA機器が急速に普及し作業の効率化が進む反面、労働者への精神的・肉体的負担が増し、労働に伴う過労が社会的な問題となっている。このような社会的な状況を反映して、自分自身で血圧や心拍数などを測定して健康管理を行うといった予防を目的とした医療や在宅での医療が注目され、それに伴いより詳細な生体情報を得るための多角的な評価の方法が求められている。また糖尿病疾患などでは毎日の血糖値コントロールが不可欠であるが、その測定の煩雑さにも増して感染症の危険性から、血液の採取を必要としない簡単な検査方法が求められている。つまり、今後の予防医療や在宅での医療の促進には、より多くの生体化学情報を安全かつ簡便に収集する手法が必要である。

 本研究の目的は、身体を傷つけることなく採取または測定ができる対象サンプルとして1.汗、2.呼気、3.涙に着目し、これら対象サンプルからの情報を集める非侵襲型の化学センサーの開発を行い、その生体情報源としての可能性を示すことである。

2.研究内容2.1.汗中代謝産物の分析と計測システムの開発

 運動生理学の分野において血中乳酸は生体でのエネルギー代謝を評価するのに有効な指標である。しかしながら、運動中に刻々と変化する血中濃度を連続的に測定することは容易なことではない。そこで運動に伴い分泌される汗に着目し、高温での汗と嫌気的代謝を導く激しい運動での汗を複数の被験者より採取し、その濃度の変化を調べた。その結果(図1)、激しい運動による汗の乳酸濃度は高温発汗よりも5.2倍も高いことがわかった。またアンモニア濃度も10.6倍の増加を示した。

 生理学的な見地から考察した結果(図2)、嫌気的な糖代謝によるATP生産では解糖での酸化型NADの不足を補うためにピルビン酸の還元反応が生じ、その際乳酸が生産される。さらに細胞内での急激な乳酸の増加はプリンヌクレオチドサイクルを活性化し、その副生成物としてアンモニアが生産される。そして、この乳酸とアンモニアが激しい運動での嫌気的代謝系を相乗的に活性化させる。

 この結果を踏まえて、次に運動での嫌気的代謝の評価指標の1つと考えられる汗の乳酸を連続的に測定するバイオセンサーの開発を行った。図3は前腕に装着可能な腕時計型のバイオセンサーの構造図である。このセンサーでは乳酸酸化酵素を固定化した作用電極、そして銀対極が円筒形反応セルに組み込まれており、in vitroにて乳酸を0.06〜1.11mmol/Lにて定量することが可能であった。

 図4はこのセンサーを用いて汗の乳酸を計測した結果である。測定ではこのセンサーを被験者の前腕内側に取り付け、高温(38℃)にて発汗を促した。また被験者の行動を制限しないためテレメーターを用いた。図からわかるように、酵素を固定化した電極では高温での発汗にともなう出力の漸次増加が見らるが、酵素を固定化していない電極では見られず、本センサーにて汗の乳酸を選択的に計測することが可能であった。そして、このセンサー出力をもとに求めた汗の乳酸濃度は前述の高温発汗(図1)と同程度の16.6mMと概算され、このセンサーにより分泌された乳酸の濃度測定が可能であることがわかった。

 このセンサーは汗に含まれる化学情報(乳酸、アンモニアなど)を連続的に収集するデバイスとして、嫌気的代謝などの身体の状態の非侵襲評価に利用できるものと考えられる。

2.2.呼気アルコール用バイオセンサーの開発

 飲酒は人間の脳幹に働き人の行動や判断を緩慢化させるほか、アルコール中毒症をも引き起こす。一般に呼気中のアルコール濃度は血中濃度と相関することから、酔いの状態の評価に使うことができる。しかしながら、選択性の低い半導体型ガスセンサーや湿度の影響を受けるガス検知管などでは複合臭を伴う呼気の分析には適さない。

 一方、生体内にはアルコールを選択的に触媒する酵素がある。そこでこの酵素を使いアルコールガス用のバイオセンサーの開発を行った。図5にアルコールガス用バイオセンサーの構造を示す。このセンサーはアルコール酸化酵素を固定化した酵素電極を気液2相セルに組み合わせて作製されている。気相と液相のセルは多孔性膜により隔てられており、気相セル内のガス成分がこの隔膜を介して液相に拡散し、液相内の酵素電極にて検出される。

図1.高温発汗と無酸素運動発汗での成分濃度比較図表図2.エネルギー代謝系とその制御 / 図3.腕時計型バイオセンサー / 図4.腕時計型センサー出力応答 / 図5.アルコールガス用バイオセンサー

 作製したセンサーの特性を調べたところ(図6、7)、飲酒による酔いの程度の評価が可能な、人間の嗅覚にも匹敵するレベルであるエタノールガス0.358〜1242ppmの選択的な定量が可能であった。

 このガスセンサーでは用いる生体触媒を選択することで他の揮発性物質の測定に応用できることから、内臓疾患の初期診断や体臭の成分計測への利用が考えられる。

2.3.涙液用フレキシブルセンサーの開発

 涙は眼球表面を覆い、角膜への酸素と栄養分の供給を行い、細菌かもの感染を抑制する役割を持っている。しかしながら、涙の体積は約7Lと微量であり、かつ反射性の分泌によりその成分濃度が変化することから、その計測は容易でない。ここではコンタクトレンズのように結膜嚢に装着し、涙の成分を連続的に測定することができる安全で柔軟なセンサーの開発を行った。

2.3.1.涙液用導電率センサーの開発

 乾性角結膜炎症(ドライアイ)は主涙腺からの涙の分泌が低下し、角結膜に炎症などの傷害をもたらす病気である。この疾患では、涙の分泌の低下によりその電解質濃度が上昇することが報告されている。そこでドライアイ評価を目的として涙の導電率を計測するセンサーの開発を行い、臨床的に涙液導電率を計測すると共に、食塩水点眼後の導電率変化により涙の分泌機能を調べた。

 図8にフレキシブル導電率センサーの構成を示す。このセンサーは親水性膜の両面に金電極を真空蒸着法にて直接積層して作製し、幅3mmの帯形状としたものである。また、この中央部を医療用接着剤によりコートすることで検出部の長さを4mmとした。このセンサーの特性を交流周波数100kHzでの4端子法にて調べたところ、NaCl.0.1〜50.0g/Lの定量が可能であった。

 次にセンサーの生体への安全性ならびに涙液計測での性能を日本白色種兎にて確認したのち、眼科医師と共同で臨床での涙液導電率の測定を行った。図9は臨床測定でのシステムを示すもので、センサーは下瞼内側に取り付けられた。図10は涙液導電率の出力応答を示したもので、安定した導電率測定が可能であると共に、出力値から電解質濃度を算出することができた。また、図11は4%NaCl点眼に伴う健常人とドライアイ患者の涙液導電率の変化を示すものである。涙の入れ替わり度合いを表す涙液ターンオーバー率はこの減少曲線の回帰式より算出される。

図表図6.アルコールガス用バイオセンサー検量曲線 / 図7.アルコールガス用バイオセンサーと半導体型ガスセンサーのガス選択性 / 図8.フレキシブル導電率センサーの構造及び検量線 / 図9.涙液導電率計測システム

 図12は多数の健常人とドライアイ患者より求めた電解質濃度とターンオーバー率の結果を示したものであや。この図よりわかるようにドライアイ患者では健常人に比べ電解質濃度が高く、T検定にて有意差が認められた。この電解質濃度の上昇は、涙の分泌量の低下と開眼による涙の蒸発によるものと考察された。またターンオーバー率についてはドライアイ患者では健常人に比べ低く、両者の有意差もT検定にて確認された。この結果、フレキシブルセンサーを使うことでドライアイ患者の涙の分泌の低下を静的・動的に評価することができた。

 涙の成分情報をモニタリングした例はこれまでになく、このセンサーを使った連続計測は涙の生体情報源としての可能性を示唆するものである。

2.3.2.涙液用グルコースセンサーの開発

 涙のグルコース濃度が血糖値と相関することが報告されており、涙液グルコース計測による簡易的な血糖値評価の可能性が示されている。そこで我々はフレキシブル導電率センサーの技術を利用して、結膜嚢に装着が可能なグルコースセンサーの開発を行った。

 フレキシブルバイオセンサーの作製では先に示した金蒸着膜に酵素を固定化し作製した。図13に作製方法を示す。まず蒸着膜に酵素を外から固定化できるように、片面にメッシュマスクを用いて蒸着し不均一電極層をつくる。次にその不均一な面よりグルコース酸化酵素と光架橋材の混合液を含浸させ、光照射にて酵素を包括固定化する。この方法により安全で柔軟性に富むバイオセンサーをつくることができる。

図表図10.涙液導電率出力応答 / 図11.4%NaCl点眼後の涙液導電率応答 / 図12.ドライアイ患者と健常人の涙液浸透圧とターンオーバー率の比較 / 図13.フレキシブルバイオセンサーの作製工程

 作製したバイオセンサーの特性を調べた結果(図14)、グルコース6.7〜662mg/Lの定量が可能であり、メッシュマスクを利用しない電極に比べて出力が高く、検量特性に優れていることがわかった。涙液中のグルコース濃度は約100mg/Lであることから、このセンサーにて涙のグルコース計測が可能である。またフレキシブルバイオセンサーの臨床応用を考慮し、種々の消毒液にてセンサー滅菌後の性能を調べた結果、80%アルコール溶液を使った消毒が最適であることがわかった。

図14.フレキシブルグルコースセンサーの検量曲線

 このセンサーは今後、涙のグルコース計測による血糖の非侵襲評価への利用が考えられるほか、固定化する生体触媒を変えることで他の涙液成分の計測への応用も可能である。

3.まとめ

 生体の状態を非侵襲にて評価する新しい情報源として汗、呼気、涙液に注目し、これらの成分を連続的に計測できる化学センサーを開発した。今後、上記デバイスを用いて収集される化学情報は、生体に関する物理情報(血圧、心拍数など)と共に予防医療や在宅医療での多角的な体調評価において重要な役割を果たすものと考えられる。

審査要旨

 本論文では、今後の健康医療において不可欠と考えられる採血を伴わず生体の化学情報を収集する技術の確立を目的として、「皮膚表面から分泌される汗」、「口腔から放出される呼気」、そして「眼球表面を覆っている涙」を生体サンプルとして選択し、これらについて研究、開発を進めた非侵襲バイオセンシングシステムについて詳細に報告している。

 まず汗については、運動に伴うエネルギー代謝と皮膚表面から分泌される汗の成分について着目し、種々の条件での汗を複数の被験者より採取し、その成分について化学分析を行った。その結果、汗中の乳酸とアンモニアの濃度が嫌気的な運動において急激に増加することを見いだし、さらに生理学的な考察を加えることで、これらの成分が運動中の嫌気的代謝の度合いを表す指標となりうることを明らかにした。そしてこの結果を踏まえ、指標の一つである汗中乳酸を計測する腕時計型バイオセンシングシステムを開発した。このシステムは化学認識素子として乳酸酸化酵素を利用したもので、汗中乳酸を選択的に検出すると共に、その濃度を連続的に測定することを可能とした。また測定系は、計測器の携帯化とテレメトリシステムの活用により、計測の簡便性や被験者の負担低減を考慮した総合的なシステムとして構築されている。

 次に、呼気による非侵襲計測に関連して、飲酒に伴う酔いの度合いを評価することができる高い選択性と感度を有する新しいタイプのエタノール用ガスセンサーの開発を行った。このセンサーでは優れた基質特異性を持つアルコール酸化酵素を化学認識素子として用いることで、これまでにない高い選択性を付与することに成功している。このセンサーは飲酒による酔いの度合いを評価するのに十分な感度を保持すると共に、反応セル内のガス透過性膜を変えることでその検量特性を向上させることが可能で、人の嗅覚の検出限界以上の感度が得られることも明らかにした。また、同様な原理にて生体触媒を交換することで、他の揮発性物質を計測することもでき、新しい人工嗅覚システムの構築の可能性も示された。

 涙の非侵襲計測では涙液導電率とグルコースの計測を目的とし、コンタクトレンズのように目の結膜嚢部分に装着することが可能なフレキシブルセンサーを開発した。まず、柔軟な親水性ポリテトラフルオロエチレン膜の両面に真空蒸着法にて金電極を形成することによってフレキシブル導電率センサーを作製した。そしてこのセンサーを幅3mmの短冊形状とし、その検出部を下瞼内側に装着することで、涙の導電率を連続的に測定することに成功している。また、このセンサーで得られた導電率値から、涙の電解質濃度、そして涙の入れ替わり度合いを表すターンオーバー率を求め、これらを指標とする静的・動的なアプローチにより、涙の分泌動態を評価しうることを明らかにした。

 次に、このフレキシブル導電率センサーの技術を応用したグルコース用フレキシブルバイオセンサーの開発を行った。このセンサーはメタルマスクを使って金の蒸着層を意図的に不均一とし、その後センサー内部の親水性膜に酵素を固定化したものである。これにより、[電極]-[酵素膜]-[電極]という極めて簡単な構成の理想的な電気化学デバイスが構築された。本センサーは酵素固定化後もその柔軟性が保たれており、またアルコール溶液にて滅菌消毒が可能であることから、生体計測に適したデバイスであると判断される。一般に涙のグルコース濃度は血糖値を反映し相関することが報告されており、作製したフレキシブルバイオセンサーは涙のグルコース濃度範囲を含む検量特性を有することから、非侵襲血糖値評価を目的とした涙液グルコース計測に適するものである。

 このように本論文では、「汗」、「呼気」、「涙」といった多様な生体サンプルに着目し、生体化学情報を安全かつ簡便に収集する種々の非侵襲計測法が開発された。この研究の中では、化学センサーに柔軟性といった新しい概念を盛り込むことで、眼部という非常に敏感な生体器官に装着できるフレキシブルセンサーを開発し、涙の連続計測に成功するなど独創的なセンシングシステムの開発を行うと同時に、これら対象サンプルの生体情報源としての可能性をも明らかにしている。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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