本論文では、今後の健康医療において不可欠と考えられる採血を伴わず生体の化学情報を収集する技術の確立を目的として、「皮膚表面から分泌される汗」、「口腔から放出される呼気」、そして「眼球表面を覆っている涙」を生体サンプルとして選択し、これらについて研究、開発を進めた非侵襲バイオセンシングシステムについて詳細に報告している。 まず汗については、運動に伴うエネルギー代謝と皮膚表面から分泌される汗の成分について着目し、種々の条件での汗を複数の被験者より採取し、その成分について化学分析を行った。その結果、汗中の乳酸とアンモニアの濃度が嫌気的な運動において急激に増加することを見いだし、さらに生理学的な考察を加えることで、これらの成分が運動中の嫌気的代謝の度合いを表す指標となりうることを明らかにした。そしてこの結果を踏まえ、指標の一つである汗中乳酸を計測する腕時計型バイオセンシングシステムを開発した。このシステムは化学認識素子として乳酸酸化酵素を利用したもので、汗中乳酸を選択的に検出すると共に、その濃度を連続的に測定することを可能とした。また測定系は、計測器の携帯化とテレメトリシステムの活用により、計測の簡便性や被験者の負担低減を考慮した総合的なシステムとして構築されている。 次に、呼気による非侵襲計測に関連して、飲酒に伴う酔いの度合いを評価することができる高い選択性と感度を有する新しいタイプのエタノール用ガスセンサーの開発を行った。このセンサーでは優れた基質特異性を持つアルコール酸化酵素を化学認識素子として用いることで、これまでにない高い選択性を付与することに成功している。このセンサーは飲酒による酔いの度合いを評価するのに十分な感度を保持すると共に、反応セル内のガス透過性膜を変えることでその検量特性を向上させることが可能で、人の嗅覚の検出限界以上の感度が得られることも明らかにした。また、同様な原理にて生体触媒を交換することで、他の揮発性物質を計測することもでき、新しい人工嗅覚システムの構築の可能性も示された。 涙の非侵襲計測では涙液導電率とグルコースの計測を目的とし、コンタクトレンズのように目の結膜嚢部分に装着することが可能なフレキシブルセンサーを開発した。まず、柔軟な親水性ポリテトラフルオロエチレン膜の両面に真空蒸着法にて金電極を形成することによってフレキシブル導電率センサーを作製した。そしてこのセンサーを幅3mmの短冊形状とし、その検出部を下瞼内側に装着することで、涙の導電率を連続的に測定することに成功している。また、このセンサーで得られた導電率値から、涙の電解質濃度、そして涙の入れ替わり度合いを表すターンオーバー率を求め、これらを指標とする静的・動的なアプローチにより、涙の分泌動態を評価しうることを明らかにした。 次に、このフレキシブル導電率センサーの技術を応用したグルコース用フレキシブルバイオセンサーの開発を行った。このセンサーはメタルマスクを使って金の蒸着層を意図的に不均一とし、その後センサー内部の親水性膜に酵素を固定化したものである。これにより、[電極]-[酵素膜]-[電極]という極めて簡単な構成の理想的な電気化学デバイスが構築された。本センサーは酵素固定化後もその柔軟性が保たれており、またアルコール溶液にて滅菌消毒が可能であることから、生体計測に適したデバイスであると判断される。一般に涙のグルコース濃度は血糖値を反映し相関することが報告されており、作製したフレキシブルバイオセンサーは涙のグルコース濃度範囲を含む検量特性を有することから、非侵襲血糖値評価を目的とした涙液グルコース計測に適するものである。 このように本論文では、「汗」、「呼気」、「涙」といった多様な生体サンプルに着目し、生体化学情報を安全かつ簡便に収集する種々の非侵襲計測法が開発された。この研究の中では、化学センサーに柔軟性といった新しい概念を盛り込むことで、眼部という非常に敏感な生体器官に装着できるフレキシブルセンサーを開発し、涙の連続計測に成功するなど独創的なセンシングシステムの開発を行うと同時に、これら対象サンプルの生体情報源としての可能性をも明らかにしている。 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |