学位論文要旨



No 110828
著者(漢字) 佐藤,淳二
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ジュンジ
標題(和) 表象と共同体 : ルソー『ダランベールへの手紙』における「公的領域」と「私的領域」の構造
標題(洋)
報告番号 110828
報告番号 甲10828
学位授与日 1994.10.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人文第95号
研究科 人文科学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩川,徹也
 東京大学 教授 田村,毅
 東京大学 教授 浅井,健二郎
 東京大学 助教授 月村,辰雄
 東京大学 助教授 中地,義和
内容要旨

 本研究は、ルソーが1758年に公刊した『演劇に関するダランベール氏への手紙1』と題される作品において、表象と共同体の問題を、「公的領域」と『私的領域』に関するルソー独自の観念を導きの糸として考察したものである。この研究を通じて、『手紙』がルソーの思想家としての完成にとって大きな転換点であったことが明らかにされる。

 「表象(representation)」という多岐にわたる概念を一つの鍵概念とする時、その限定が必要となるが、われわれはこれを「同一性」と「他者性」との不即不離の根源的な現象と考える。そこから二つの方向性が現われる。一つは、「演劇」そのものの「上演(ルプレゼンタション)」において「演技」と「現実」との関係を問うこと。また一つは、この「表象」をある一定の囲いの中に成立させているその「外部性(l’exteriorite)」を問うことである。ここではこの二つの方向性の内で、後者の「外部性」の問題に考察の範囲を限定し、「演劇」そのものの検討、ルソーにおける「表象」の十全で全面的な研究の一つの階梯とする事を目標とした。

第一章起源の表象

 この章では、『手紙』に至るルソー自身の思想の展開と、ダランベールとの論争の前史とでもいうべき演劇・劇場の歴史的連関、さらには「文明」の観念の史的問題が取り扱われる。

 ルソーの「自然」の観念がいかに奥深いものであるかが、『人間不平等起源論』の「自然状態」概念の検討によって示される。社会状態が、「新しい欲求」といわれる新たな必然性の連関によって成立するとルソーは諭じている。さらに、『言語起源論』のとりわけ音楽論に注目することで、意味と無意味の根底に、ルソーの場合「共同体」の文化が横たわっていること、芸術とはこの基底に触れるものであることが了解される(以上第一節)。

 このような芸術の起源から、具体的な文化論と演劇論に移行するために、十八世紀当時のフランスの劇場の社会性が、そこに集う群衆の論理として記述される。さらにジュネーヴと演劇をめぐる状況で欠かす事のできないヴォルテールの動向、そしてその盟友ともいえるダランベールの文明観が記述される。これに対して、「同一性」を強いるものとしての「文明」に批判的であったルソーの立場が、『学問芸術論』を中心として論じられ、この論争の前史を締めくくるものとして『百科全書』のダランベール執筆の項目「ジュネーヴ」の要約が示される(以上二・三節)。

第二章:『ダランベールへの手紙』:その構造

 この章では、逸脱的議論の多い『手紙』が、実際はある全体的な構図に収まるものであるという事を、論旨の要約を通じて明らかにする。さらに、ここで問題となる「演劇」そのものの構造を素描し、それを通じて逸脱を開始させる深層の動機としての「女性性」の制御という問題を浮き出させ、「公的領域』と「私的領域」という隠された対立を浮き彫りにする。

 まず、『手紙』の論争的文章としての構造が提示される。論争は、扉の頁、序文そしてジュネーヴの宗教論(ここでもソッツィーニ主義とジュネーヴ宗教界の問題に深く関わったヴォルテールの問題が論じられる)という様々な水準で、様々な目的において展開されている。しかし、『手紙』の圧倒的部分を占めるのは演劇論であり、本研究でも、ここで演劇論の全体に渡って、詳細な論拠の整理が行われる。これによって、逸脱の多い事で名高い『手紙』にも、一般論から特殊論へと移行していく論旨の一貫した流れが存在していることがわかる(以上第一節)。

 この要約の作業を通じて、『手紙』では「開かれたもの」と「閉じられたもの」というトポスに従って論拠やテーマが組織されていることがわかる。とりわけ、それは共同体と『公的領域』と個人の属する「私的領域」の区別として反復されるトポスである。古代においてはっきりと区別されていた「公」と「私」の二つの領域は、近代の市民社会の成立と共にこの区別を曖昧にされていったが、ルソーは古代モデルを採用するため、複雑な屈折を示すことになる。それは、「公」と「私」の区別を女性のエロスの誘惑に対する制御の問題と重ねているという点である(以上第二節)。

第三章:法/習俗/欲望

 この章では、さまざまな水準で「公」と「私」のテーマが論じられる。モリエールの喜劇、ラシーヌの悲劇、さらにユートピア的共同体のニエピソードなどを通じて、ルソーがいかに「習俗(moeurs)」という観念を活用し、それを規定するものとしての「公衆に懐かれる臆見(l’opinion publique)」の概念を「法」の根拠としたかが考察される。最後に、これらの「公的領域」に対して最大の脅威となる「女性性」の問題として、女性の「羞恥・恥じらい」論が分析される。

 モリエールの『人間嫌い』を論じる部分は、『手紙』の中でも最も有名な一節であるが、ここでルソーの批判は、アルセストという有徳の士が、仮象に蝕まれた世間に苛立つが故に、かえって滑稽なものとして描かれているという点に向けられている。だが、ルソーはさらにこの作品の書き換えを提案し、そこに「公的領域」と「私的領域」との対立を尖鋭化させようとする。ラシーヌの『ベレニス』の分析は、ローマ皇帝という「公」の頂点に立つ権力者が、愛する女性と帝国との二者択一に悩む姿を浮き彫りにする(以上第一節)。このような共同体の内部での「公的領域」と「私的領域」とはどのように発生して、対立関係におちいるのであろうか。この点の分析が「モンタニョン」のユートピア的共同体を舞台として行われる。このユートピアは、自給自足の孤立した共同体であるとされ、外部の「公的領域」を持っていない。しかし、そこにいったん劇場が建設されたとすると、存在と仮象が分裂し、記号が全面化し、共同体内に差異が生じることになる(以上第二節)。

 この「公的領域」と「私的領域」の中間に位置するのが、習慣として言語化されないままに共同体の成員全員によって実践されている生活習慣としての「習俗」である。これが曖昧なまま意識化・言語化されたのが、「公共の臆見(l’opinion publique)」というイデオロギー概念である。市民の参加によって形成される近代的な[公論」とは違って、ルソーの「公共の臆見」は、他在の評価の中に自己を見出す一種の「承認」概念であり、合意によるものではなく、「鏡像的」に一挙にあたえられるものである。ここにルンーの「法」の根拠が据えられていくことになる。その実例が「名誉の法廷」の思考実験である(以上第3節)。

 このような「公的領域」と「私的領域」の構造化は、ナルシシックな「私的領域」に主体を引き止めようとするエロスの誘惑に対して、主体をいかにして公の空間に登場させ、エロスに抵抗して共同体への貢献・自己犠牲を全うするかという問題となる。この抵抗の根拠が、女性の[羞恥・恥じらい」の議論において展開される(以上第四節)。

第四章:ジュネーヴの城壁、古代への距離

 この章では、「公的領域」と「私的領域」の対立において「徳」の観念を中心とした古代ギリシアのモデルが、ルソーの思想の内部で機能していることを確認する。ルソーは、ジュネーヴの「セルクル」という一種のクラブ制度を重視し、これを「公的領域」と「私的領域」の中間にある媒介として位置付ける。さらに「公」と「私」の構造を維持するものとして、「表象なき祝祭」の夢が語られ、最後に、エロスの最終的な制御と「家」の再生産のために公開され監視された夫婦選択の問題が論じられる。

 ルソーのモデルは古代の「公」と「私」、「ポリス」と「オイコス」の対立である。この基盤は近代になって失われているが、ルソーはこの基盤の再生の必要性、失われたパラダイムとしての「祖国」「民族性」の再生が重要であると訴える(以上第一節)。この古代のイマージュを残しているのが、ルソーによると、ジュネーヴのクラブ社交組織「セルクル」である。これは公共性と家族の私性のちょうど中間に位置するものであり、男女別に集い、戸外に開かれた集団の中で、真理を求める激しい議論が、ちょうど古代ギリシアのアゴラにおける討論との類比によって論じられる(以上第二節)。

 こうして構造化される「公的領域」と「私的領域」は、明確に区別されながら統合される。この構造化された共同体において、沈殿する差異、矛盾を消尽し、各人が再び元の自分の持ち場に戻る再生産の構造を維持する目的で、差異の生じない、想像力を機能させない祝祭が必要とされる。そのような祝祭の一環として、プラトンを髣髴とさせる公開制の男女の夫婦選びが想像される。そこでは、若い男女が他人の視線から隠れて「私的」な快楽に埋没しないように、共同体の視線の承認により「夫婦の発案(l’invention)」が行われることになる。しかし実はこの公開の夫婦選定は、ルソーの「恥じらい」の欲望論と循環を発生させることになる(以上第三節)。

 ***

 『ダランベールへの手紙』では、習慣・生き方の全体を規定する「公的領域」と「私的領域」の<間>に存立する、間主観的な存在構造をもつ実践としての「習俗」が、「恥じらい」を鍵にした「欲望」論によって媒介されて、独特の「祝祭」と「家族」の構想に結実しつつあったといえる。この意味でこの作品は、ルソーの一つの頂点を形成する書簡小説『新エロイーズ』(そこでは秘められた愛が破れ、公開された結婚を通じたオイコスの再生が試みられ、「失敗」する)へと至る、彼の家族論そして共同体論の転換点として位置付け得るのである。さらに循環する欲望論は、家族を失い、自らの家族を構成することのできなかったジャン=ジャックの「欲望」の問題から、「自伝」的な次元へと通じていくのである。

審査要旨

 フランス啓蒙思想の記念碑である『百科全書』の「ジュネーヴ」の項の中で、執筆者ダランベールは、カルヴァン派の牙城である同市が、劇場を設立して、趣味の洗練と文化の振興を図るべきだと主張していた。同市の出身で、『学問芸術論』、『人間不平等起源論』で、根本的な文化批判の立場を打ち出していたルソーは、それに反対して、ダランベール宛の公開書簡(『ダランベールへの手紙』)を執筆するが、それはたんなる演劇の道徳性に関する議論の枠を越えて、文化の人間的・社会的価値、共同体(国家)において文化の占める位置と役割にまで及び、彼の初期思想と円熟期の思想を橋渡しする重要な著作となっている。しかしながらこの作品には、いまだ信頼できる批評校訂版が出版されていないこともあって、比較的研究が手薄であった。佐藤氏の論文は、この作品を正面から取り上げて、その思想的基盤をなす、表象と共同体の問題を、「公的領域」と「私的領域」に関するルソー独自の観念を導きの糸として考察した、意欲的な研究である。その際、現実の模倣的再現(representation)である演劇が、現実の社会の中に場所を占める制度でもあることに着目して、演劇と共同体の関係に焦点を絞って、考察が進められる。

 第一章では、本論への予備的考察として、『ダランベールへの手紙』に至るルソー自身の思想の展開が跡づけられ、さらに論争の前提となる観念、とくに「文明」の観念の意味の広がりと歴史的変遷に検討が加えられる。第二章は、『手紙』の内容に立ち入って、脱線論議の多いこの作品が、論争の戦略の観点から全体として緊密に組織されていることを、論旨の要約を通じて明らかにし、その上で、脱線を誘発する深い動機として、演劇と不可分の関係にある「女性のエロス」の問題があり、それがルソーにとって、共同体の「公領域」の存立の危機として理解されていたことを浮き彫りにする。第三章では、「習俗」と「公衆の臆見」の観念を導きの糸として「公的領域」がどのように構造化され、また逆にその対極にある「私的領域」の原理となる「女性性」が、「羞恥」の観点から考察され、政治思想家ルソーにとっては、「私」的なエロスの誘惑に抗して、主体をいかにして公の空間に引き出し、共同体への貢献を全うするかが課題であったことを明らかにする。最後の第四章では、「公」と「私」の対立という図式が、ルソーが古代ギリシアのポリスについて抱いていたイメージに起因することを明らかにした上で、そのイメージが、現在のジュネーヴに投影されていることを、「セルクル」というジュネーヴ特有のクラブ制度の描写の検討を通じて確認する。最後に、理想的な「公」と「私」の関係が成立するユートピアの条件として、一方では「表象なき祝祭」、他方ではエロスが統御された「家」の形成をルソーが構想していたこと、しかしこの構想自体が、彼の思想の中で循環と矛盾をはらんでいることが指摘され、それがルソーの後期思想の展開の一つのバネになっていることが示唆される。

 本論文は、テクストの緻密で執拗な読解に基づいて、強力な思索を展開しており、議論の出発点となる観念、とくに「私的領域」の観念の把握の仕方にいささかの曖昧さを残すとはいえ、明確な問題意識に導かれて、興味深い知見を示しており、ルソー研究のみならず、広く18世紀フランス思想・文化の研究に新鮮な寄与をなすものといえる。以上から、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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