学位論文要旨



No 110829
著者(漢字) 溝渕,淳
著者(英字)
著者(カナ) ミゾブチ,アツシ
標題(和) 純粋失読の病態機序に関する実験心理学的研究
標題(洋)
報告番号 110829
報告番号 甲10829
学位授与日 1994.10.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人文第96号
研究科 人文科学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 河内,十郎
 東京大学 教授 二木,宏明
 東京大学 助教授 丹野,義彦
 東京大学 教授 竹内,信夫
 東京女子医科大学 教授 岩田,誠
内容要旨

 純粋失読とは,脳病変によって生ずる後天的な読字障害であり,音声言語の障害・書字障害が殆どなく,読字のみが選択的に障害される病態をいう.神経学では,純粋失読は視覚野と言語野との離断により,視覚情報から,異種感覚情報である「読み」を喚起することが困難となることから生ずるとする説(離断理論)が一般的である.これに対して近年の認知神経心理学的研究では,純粋失読症例における様々なレベルの視覚性障害の存在が研究され,そうした視覚性障害を純粋失読の原因とする種々の説が提出されている(視覚性障害理論).

 また,本邦の純粋失読症例では,多くの場合仮名と漢字の両方に障害がみられるが,一方の文字種に強い障害を呈する症例も存在する.こうした文字種に選択的な純粋失読の発現機序は明らかにされていない.

 著者は,仮名に選択的な純粋失読症例(以下,仮名症例と記す)と漢字に選択的な純粋失読症例(以下,漢字症例と記す)とをほぼ同時に経験し,これら症例の対比から,文字種に選択的な読字障害の病態機序を考察するとともに,上記の離断説/視覚性障害説の妥当性を吟味した.

I症例

 ○仮名症例,HM.発症時62歳,男性,右利き.左後頭-側頭葉内側の梗塞病変により純粋失読を呈した.障害は仮名に強く,漢字読字は比較的良好.

 〇漢字症例,ST.発症時64歳,男性,右利き.右後頭-側頭葉内側の梗塞病変により純粋失読を呈した.言語半球が右半球であることがアミタール検査で確認された.

 これらの他に,中〜軽度の純粋失読症例RU,重度症例YOを被検者とした.

 また対照例として,後大脳動脈梗塞病変による失読を伴わない視野障害例を用いた.

II基礎的な資料

 ・ 文字認知閾の測定:仮名/漢字1字を瞬時提示して文字種毎に認知閾を調べた.応答は,(1)音読,(2)書字の2種を用いた.その結果,HMでは,音読による認知閾は対照例よりも上昇し,特に仮名で顕著であったが,書字応答による認知閾は対照例と差が無かった.STでは,音読・書字いずれの応答様式でも対照例より認知閾が上昇した.仮名症例HMでは,1文字の視覚性認知機能が良好で,音韻化に障害があると思われた.STでは1文字の視覚性認知機能に障害があるものと思われた.

 ・ 単語音読:1〜3字からなる仮名単語/漢字単語を提示して音読反応時間を測定した.その結果,仮名単語音読課題では症例HMの成績が不良であり(文字数増加に伴う音読反応時間の増加率が大),漢字単語音読課題では,症例STの成績(正答率)が不良であった.両症例の成績差は失読重症度の相違ではなく,(相対的な意味で)文字種に選択的な純粋失読を示すものと考えられた.

III仮名読字障害と視覚性認知

 仮名症例HMにおける仮名単語音読障害の機序を考察するため,文字列の視覚性認知課題を実施した.

 ・視覚性把握課題:複数要素からなる刺激を短時間提示し,要素の異同を判断させた.HMの視覚把握機能は良好であった.

 ・視覚性走査課題:1個〜3個の要素からなる記号列/文字列を用いて標的を検出させ,要素数と反応時間との関係を調べ,音読課題でみられた文字数-反応時間の関係と対比した.HMにおける関数の傾きは対照例一般と比較して大となったが,対照例の中に,HMよりも明らかに仮名単語読字が良好であるにもかかわらず,本課題ではHMよりも成績が不良となった者がいたことから,HMの仮名単語音読障害は,本課題でみられた走査速度低下では直接説明することができないものと思われた.

 ・短時間提示する文字列と音読と視覚性認知の対比:HMの視覚性走査機能を別の角度から検討するため,次のような検査を実施した.すなわち,(1)音読課題:縦書き3文字列を短時間(1秒)提示して音読する,(2)同様の文字列と,その近傍に標的の文字を置いたものを短時間(1秒)提示し,文字列が標的と同一字を含んだかどうかを判断する課題,であった.音読課題では文字列の下方の文字で成績が低下したが,標的を検出する視覚性認知課題では,下方文字の成績低下はみられなかった.また同様の文字列を用いて,提示終了直後に手がかりを提示してそこだけ答えさせる部分報告法を用いて,音声応答と書字応答とで実施した.音声応答では,音読と同様,下方文字で成績が低下したが,書字応答ではそうした傾向がみられなかった.これらの所見から,短時間提示条件で下方文字の成績が低下することは,視覚性走査の障害によるものではないと解釈した.

 同時に,HMとSTとを対比すると,一貫してHMの方が成績が不良であった.このことから,視覚性走査機能はSTの方が良好に保たれているものと思われた.

 また,HMの仮名単語読字障害が,走査する文字列中の他の文字からの「妨害」によるものどうかを予備的に検討した.その結果,特定の条件でHMの音読反応時間はSTよりも有意に延長した.

IV章漢字読字障害と視覚性認知

 漢字症例STにおける漢字読字障害の機序を考察するため,まず漢字の複雑性が音読成績に及ぼす影響を調べた.

 ・画数の異なる漢字を用い,音読成績を調べた.その結果,HMでは画数が成績に影響を与えなかったが,STでは画数の多い漢字・左右に分離する漢字で成績が低下した.

 ・STにおいて,画数の多い漢字・左右に分離する漢字で成績が低下する理由が,画数の多い字で視覚性認知が困難となるためかどうかを検討するため,画数の異なる文字を用いて,視覚性認知課題を実施した.課題は次の3種を用いた.すなわち,(1)2文字の異同判断課題,(2)1文字を正立ないし上下逆転/鏡映で提示し,正しい文字か否か判断する課題,(3)実在字ないし非実在字を提示し,提示された字が実在字か否かを判断する課題を実施し,判断に要する反応時間に対する画数の影響を検討した.その結果,STはHMに比べて全体的に反応時間が延長したが,画数の効果はみられなかった.すなわち,STの漢字読字障害は,視覚性認知の障害を背景に持つものの,音読における画数の効果は,視覚性認知自体によるものではないと推測された.すなわち,視覚情報から音韻や意味を喚起する段階の障害と思われた.

V章漢字の意味処理の検討

 仮名に選択的な純粋失読症例HMにおいて,漢字の読字が良好に保たれている理由を考察するため,同症例を含む純粋失読症例における漢字の意味処理機能を検討した.

 第1節・2節では,漢字の音韻判断(漢字を提示して,それが予め定めた音韻範疇に入るか否かを判断する課題)と意味判断(漢字を提示して,予め定めた意味範疇に入るか否かを判断する課題)とを行い,対照例と対比した.意味判断課題では,HMと対照例との間で反応時間差は殆どなく,HMにおいて漢字の意味処理の機能が極めて良好に保たれているととが示された.3節ではより多くの意味範疇を用いてそれを確認した.

 一方,音韻判断課題では,HMの成績(反応時間)は対照例と比較して有意に低下した.これは同症例において,漢字の音韻を喚起する機能には障害があることを示しており,II章の漢字単語音読において,HMの音読反応時間が対照例より延長した所見と一致している.これらの結果から,HMにおける良好な漢字読字は,極めて良好な意味理解機能に支えられていると考えられた.

VI総括

 III章,HMにおいて,文字列を短時間提示して音読する課題では,文字位置の効果がみられた(下方文字で成績低下)が,視覚性認知課題では,文字位置の効果がみられなかった.IV章,STにおいて,音読課題では画数の効果がみられたが,視覚性認知課題では,画数の効果がみられなかった.いずれも,視覚性の要因(文字の位置/文字の複雑性)が,音読課題でのみ効果を現し,視覚性認知課題では効果を示さなかった.

 上記所見は,本検討における読字障害が,視覚性認知障害の直接的結果ではないことを示しており,視覚情報から読みを喚起する段階で生じていることを示唆している.すなわち「離断理論」の方が妥当性が高いと思われた.

 一方,仮名症例で文字列の視覚性走査機能に,漢字症例で1文字の把握機能に,相対的に大きな障害がみられたことは,こうした文字種に選択的な純粋失読の基底に,異なる種類の視覚性障害が存する可能性を示唆しており,視覚性障害の性質が純粋失読の発現形態を修飾する可能性がある.すなわち,文字種に選択的な純粋失読は,いずれも「離断」を本質としつつも,随伴する視覚性障害の性質によって生ずる可能性が考えられた.

審査要旨

 論文「純粋失読の病態機序に関する実験心理学的研究」は、仮名に選択的な純粋失読症例HMと、漢字に選択的な純粋失読症例STに対して、綿密な実験心理学的検討を加え、言語障害がなく、書くこともできるのに読めないという純粋失読が,文字種に選択的に生じる機序の解明を試み、純粋失読自体の発現機序に関する[離断理論]と[視覚性障害理論]の妥当性を検討したものである。

 実験は、文字の視覚的認知のレベルから意味処理のレベルまで多彩な領域に及んでおり、障害者を対象としたこの種の研究としては異例ともいえる充実さを示している。また、文字種に選択性を示さない純粋失読2例と、純粋失読のない後頭葉内側部損傷患者8例を対照群として一部の実験で用いていることも、結果の信頼性を高めている。

 仮名障害例HMにおいても漢字障害例STにおいても、音読課題で成績の低下をもたらす要因(HMでは文字列内の位置など、STでは文字の複雑性など)が、視覚性認知課題では成績の低下をもたらさないという実験結果を根拠に、2例の読字障害の原因が、文字の視覚性認知のレベルにあるのではなく、認知された文字列からそれに対応する音韻列を生成する過程にあるとして、純粋失読の発現機序は[離断理論]によって説明されるとの結論に達しているが、個々の実験結果を厳密に検証しながら進められていくその間の議論の展開も、十分説得力のあるものとなっている。

 ただし、文字種選択性の問題に関しては、きわめて良好な意味処理を介して漢字の音読を行っているとするHMに対する説明は問題ないとしても、STでは軽度の視覚性認知障害が随伴しているために仮名より漢字が悪いとする説明は、さらに検討の余地を残している。しかしこうした点も、従来はともすると厳密さに欠ける傾向があった障害事例研究に一つの方向を示したともいえる本研究の価値を低めるものではない。

 よって、審査委員会は、本論が博士(心理学)論文として、十分評価に値するとの結論に達した。

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