本稿は、ガンディー及びナーラーヤンの運動(前者の場合には、南インドのアーンドラ地方における反英非協力運動を例に、後者の場合には、北インドのビハール地方を中心にして展開された全面革命運動を例に)の実態を、南アジアの社会構造、政治及び経済の問題に対する彼らの独自のアプローチに特に注目しながら明らかにするとともに、現代南アジアにおける紛争の一つの典型例であるスリランカの民族紛争を事例として、紛争が生じるに至った要因を整理することにより、現在南アジアに生じている「民族、宗教、カースト等を基にした集団(=エスニック・グループ)間の対立及び紛争」の問題を新たな角度から捉え直そうとするものである。 本研究により明らかになったことは、まず第一には、現代南アジアのエスニック・コンフリクトは、独立後の政治が、南アジアの分断的な社会構造と密接に絡みながら作り上げているという点である。スリランカの場合で言えば、S.W.R.D.バンダーラナーヤカの政治運動は、シンハラ人大衆にそれまで希薄であったシンハラ人としてのアイデンティティーを敢えて意識化させた。筆者は、本論中、スリランカ社会の分断構造をその一番奥に親族、その外側にカースト(シンハラ人の間では、<高地シンハラ><低地シンハラ>の区分も入る)、そして更にその外側に民族が来る三層の同心円的多重構造として捉えることを示唆したが、そのような図形のイメージを利用しながら単純化して説明すれば、彼の運動は、それまで親族或いはカーストのレベルまでであった彼らの「我々意識」を、更にその外側にある民族のレベルにまで拡大させたと言い換えることもできよう。問題は、シンハラ人のアイデンティティーが、結果的にタミル人を敵とするような形で成立したことであった。他方、これは、逆にタミル側の諸政治集団が、「シンハラ民族」に敵対するものとしての「タミル民族」のアイデンティティーを利用しながらその勢力を拡大させていく契機となった。因に、やはり単純化して説明すれば独立以前のスリランカにおいては、「我々意識」はせいぜいカースト、或いは<高地シンハラ><低地シンハラ>といったレベルまでで、従ってそこでの対立は、ゴイガマ対カラーワ、ヴェッラーラ対カライヤール或いは<高地シンハラ>対<低地シンハラ>等の形態を取っていた。つまり、独立前独立後のいずれにせよ、そのように分断化されしかも階層化された社会構造を持つスリランカのような社会においては、「我々意識」が及ぶ範囲の集団をアイデンティティーの基礎としなら、そうでない集団と対立する契機は容易に作り出され得る状況にあったわけである(もちろん独立後の対立の方がスリランカ全体に影響を及ぼす性格を有していたのは言うまでもない)。 ガンディー及びナーラーヤンは、内面変革の運動を通して、そのような集団間に同じく存在していた共存の契機を引き出そうとすると同時に、パンチャーヤト、ジャナタ・サルカールの設立運動を通して、大衆の側に、政治家の思惑によって利用されることのないような、或いは動かされてしまうことのないような自立の精神を育てることによって、それらの対立の問題を解消させようとした。だが、それらの運動は、一時的には昂揚を見せたものの、その大きさのわりには、いざ運動が終わってみると然程の成果を残すことができなかった。これは、一つには、原理主義や排外主義を前にしては、説得がなかなか困難なものであったこと、一つには、ガンディーやナーラーヤンがインドの政治的風土の中で人々から「聖者」と捉えれていたが故に、彼らが存在している限りにおいて運動が存続し得たことに因るものであった。 第二には、経済問題がエスニック問題に転化している点である。同じくスリランカの場合で言えば、民族間紛争の要因とされている入植問題(独立後、タミル人の多く住む北・東部へ多くのシンハラ人が入植した問題)も教育上の差別問題(70年以降に導入された大学入試政策の変更により、タミル人に対する教育上の差別が行われた問題)も大きくは、経済問題と絡んでいた他、70年代後半以降シンハラ・タミル民族間の対立が暴力的な対決の様相を呈してくる背景には、77年以降の急激な自由主義的経済政策の遂行による社会矛盾の増大があった。 ガンディーやナーラーヤンはこれに対し、等身大で安上がりの、地域の生活に密看した経済のあり方を模索した。ガンディーの場合で言えば、チャルカー運動は、外国の綿業資本に対抗する手段としての点、貧民の失業救済という点では一定の成果を上げたが、結果的には、資本(商業資本や工業資本)の圧力の前に、その提起した課題を十分に果たすことができなかった。 なお、ガンディーやナーラーヤンの運動には、様々な問題点があったが、彼らが提起した課題は、今日南アジアが抱えている問題解決のための一つの手がかりを示していることは明らかであり、その歴史的意義は長期的な観点から考察されなければならないであろう。 |