学位論文要旨



No 110844
著者(漢字) 冨田,篤尚
著者(英字)
著者(カナ) トミタ,アツヒサ
標題(和) NO放出物質SNP(Sodium Nitroprusside)の投与後除去によるグリア細胞の形態分化
標題(洋)
報告番号 110844
報告番号 甲10844
学位授与日 1994.12.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第690号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 教授 今井,一洋
 東京大学 助教授 長野,哲雄
 東京大学 助教授 松木,則夫
内容要旨

 (序論)神経系の細胞の分化は個々が独立して分化するより相互作用して分化の時間と場所を決定する方が有利であるように考えられる。ニューロンとグリアはその異種細胞間の相互作用がそれぞれの細胞分化に重要であることが知られているが、そのメカニズムはまだ明らかになっていない。グリア細胞は、突起を伸ばした形態に分化して、その突起上をニューロンが移動して脳構造を形成することから、脳発生に本質的に重要な役割を果たしていることが知られている。本研究ではニューロン-グリア細胞間相互作用によるグリア分化に関わる物質として一酸化窒素(NO)の役割について検討した。NOは神経伝達物質の1種であり、数秒の半減期で速やかに消滅し、かつ細胞膜を自由に拡散でき、したがって直接細胞質から細胞質へ情報伝達する細胞間伝達物質として非常に有利な性質をもっている。事実脳においても多様な部位でその機能に重要であることが知られているが、特に小脳では、NOが顆粒細胞ニューロンから放出されてグリア細胞のcGMP濃度を上昇させること、また成熟期よりも発生時に顕著に存在することが知られている。そこで本研究では顆粒細胞から放出されたNOがグリアに作用して分化をおこす可能性についてNO放出物質SNP(Sodium Nitroprusside)を培養小脳グリア細胞に投与することにより検討した。またグリア細胞の形態分化におけるNOの作用機序について検討した。NOの作用機序としてはcGMP依存性また非依存性にも細胞内カルシウム濃度を減少させることが知られていることからカルシウムを介したメカニズムについて検討した。

 (方法)Wistarラットの生後4日齢のものから単離した小脳を酵素等によりdissociateした。これをパーコール密度勾配遠心及び細胞の接着性によりグリアを分離し培養した。培養用培地はハンクスのMEMにアミノ酸及びビタミンを総量で2倍になるように加え、牛胎児血清5%及び馬血清5%、さらに微量成分やホルモン、抗生物質を加えたものを用いた。実験には培養14日後の培養細胞を用いた。実験用培地にはハンクスのMEMに微量成分やホルモン、抗生物質を加えたものを用いた。

(結果と考察)(1)SNP処理下でのグリア細胞

 100M SNPで実験用培地下で24時間処理したところ、グリア細胞に形態変化はみられなかった。但し12例中2例で扁平な細胞体が球形に変化するのが認められた。しかし分化したアストロサイト状の突起をもった形態は観察されなかった。

 一方10分間のみSNPで処理した後にSNPを含まない実験用培地に交換すると、培地交換して2時間後に分化したアストロサイト様の突起をもった形態へ形態分化するのがみられた。

 SNP投与時間を1時間、2時間に延長した場合も、SNP投与後除去してから2時間後に同様に形態変化が認められた(Fig.1)。

Fig.1 SNP投与後除去によるグリア形態分化におけるSNP投与時間の影響
(2)SNP除去によるグリア形態分化におけるカルシウム流入の関わり

 グリア形態分化の代表例であるcAMPによる形態分化にカルシウム流入が必要であることが示唆されている。そこでここでみられたSNPの投与後の除去による形態変化におけるカルシウム流入の役割について検討した。

 SNP投与後除去によるグリア細胞の形態分化は非特異的なカルシウムチャネル阻害剤であるコバルト2mM及びニッケル2mMにより阻害された。しかし非選択的電位依存性カルシウムチャネル阻害剤であるベラパミル、ジルチアゼム及びL型電位依存性カルシウムチャネル阻害剤であるニフェジピンによる阻害はみられなかった(Fig.2)。よってこの分化にはカルシウム流入が必要であり、そのカルシウム流入は電位非依存性のカルシウムチャネルを介していると考えられる。

Fig.2 SNP投与後除去によるグリア形態分化におけるカルシウム流入の影響
(3)SNPの副産物の影響の検討

 SNP放出時の副産物であるFe(CN)64-をSNPと同様に10分、1時間及び2時間投与後培地を実験用培地に戻したが形態に変化はみられなかった。

(4)カルシウムアンタゴニスト投与後除去によるグリアの形態への影響

 NOの作用機序として細胞内カルシウム濃度を減少させることが知られていることから、カルシウムアンタゴニストをSNPと同様に投与後除去してグリアの形態への影響をみた。

(4-1)カルシウムチャネルアンタゴニスト

 非特異的電位依存性カルシウムチャネル阻害剤であるバラパミル、ジルチアゼム、L型電位依存性カルシウムチャネル阻害剤であるニフェジピン、及び非特異的カルシウムチャネル阻害剤であるコバルト、ニッケルをSNPと同様に投与後除去したが形態変化は認められなかった。

(4-2)Cinnarizine

 細胞膜カルシウムチャネルに加えて細胞内IP3 induced Ca releaseの阻害剤であるCinnarizineをSNPと同様に投与し実験した。Cinnarizineを慢性的に投与するだけではグリア細胞に形態変化はみられなかったが、10分間投与後除去すると2時間後にSNP投与後除去の場合と同様に形態変化がみられた。このCinnarizine投与後除去による形態変化は、SNPの場合と同様に、Cinnarizineの投与時間を1時間、2時間に延長しても除去2時間後に形態変化がみられた(Fig.3)。

Fig.3 Cinnarizine投与後除去によるグリア形態分化におけるCinnarizine投与時間の影響

 ニッケル、コバルトの除去でグリアの形態変化がおこらなかったことから形態変化に必要なカルシウムの抑制後の回復は膜を介したカルシウム流入の抑制後の回復だけでなく細胞内カルシウム動員の抑制後の回復が重要であることが示唆される。

 Cinnarizineの投与後除去による形態変化におけるカルシウム流入の影響について検討したところ、SNPの場合と同様に、コバルト、ニッケルにより阻害されたが、ベラパミル、ジルチアゼム、ニフェジピンでは阻害されなかった(Fig.4)。

Fig.4 Cinnarizine投与後除去によるグリア形態分化におけるカルシウム流入の影響
(5)血清を含む培地下でのSNP投与後除去によるグリア形態変化

 形態分化が無血清培地の時よりも不明瞭であり、少数で、かつSNP除去2日後に変化が認められた。SNP投与後除去によるグリア形態分化に対して血清が抑制作用を及ぼすことが示された(Fig.5)。

(6)SNP投与後除去によるグリア形態変化の長期観察

 SNP投与後除去による形態変化は、除去24時間後の形態分化した細胞の割合は約30%に減少した。以降1週間は形態分化した細胞の割合がほぼ維持された(Fig.5)。

Fig.5 SNP投与後除去によるグリア形態分化の長期変化及び血清の影響

 顆粒細胞ニューロンとの接触によりグリアが形態分化することが知られている。よって本研究で示されたSNP投与後除去の場合と同様に、in vivoにおいても顆粒細胞から放出されたNOがグリアに一時的に作用してから消滅することでグリアを分化させていることが示唆される。また細胞内カルシウムの抑制後の回復がグリア形態分化をおこすことが示唆されることから、グリア分化の共通のメカニズムとしてカルシウムの抑制後の回復が考えられる。

 (結論)(1)NO放出物質SNPを一時的に投与後除去することによりグリア細胞が形態分化する。(2)形態分化のタイミングはSNP除去のタイミングにより決定される。(3)SNP投与後除去によるグリア形態分化は細胞内カルシウムの抑制後の回復のメカニズムを介していると考えられる。(4)SNP投与後除去によるグリア形態分化にはカルシウム流入が必要である。

審査要旨

 発生過程においては、全体の中の個々の細胞の位置あるいは細胞間の関係を個々の細胞が認識できることが本質的に重要であると考えられる。幼弱ラット小脳の発生第II期の層構造形成過程においては、顆粒細胞とバーグマン・グリア細胞との相互作用が重要である。即ち、顆粒細胞が深部に移動する際に、まずグリア細胞が分化して突起を伸ばした形態となり、この伸びた突起を足場にして顆粒細胞が移動する。また、逆に、小脳グリア細胞の分化(突起伸展)には、顆粒細胞からの働きかけが必要であり、その情報伝達物質の候補としてNOが示唆されていた。学位申請者、富田篤尚の本論文「NO放出物質SNPの投与後の除去による小脳グリア形態変化」は、ラット小脳グリア細胞の分化における一酸化窒素(NO)の役割を明らかにしたものである。

 本研究では、顆粒細胞から放出されたNOがグリアに作用して分化をおこす可能性について詳細に検討するために、生後4日齢のラットから単離した小脳よりグリア細胞を分離して培養し、これにNO放出物質であるSodium Nitroprusside(SNP)を投与してその効果を観察した。即ち、SNP(100M)を含む実験用培地中で培養したところ、予測に反して、何の形態変化も認められなかった。ところが、SNPを10分以上投与した後、SNPを含まない実験用培地に交換すると、約2時間後に、グリア細胞はそれまでの球形から、アストロサイト様の突起を伸展した形態へと変化した。こうして、グリア細胞は、NO投与後の除去により分化が引き起こされることが示された。

 多くの細胞において、NOは細胞内カルシウム濃度を減少させることが知られており、また、細胞内cAMP濃度上昇が引き起こす形態変化にはカルシウムの流入が必要であることが知られている。そこで、SNP除去による形態変化においても同様の機構が働いているか否か、検討した。即ち、SNP除去による形態変化に対する種々のカルシウム拮抗剤(電位依存性カルシウムチャネルの阻害剤であるベラパミル、ジルチアゼム、ニフェジピン;非特異的なカルシウムチャネル阻害剤であるコバルト及びニッケルイオン)の効果を調べたところ、コバルト及びニッケルにより阻害された。従って、SNP除去による分化にはCaイオンの流入が必要であり、それは電位非依存性チャネルを通って流入することが示された。

 そこで、細胞内Ca濃度が一度低下してから再び上昇することで分化が誘起されるのか否か調べた。即ち、カルシウム拮抗剤を投与して培養した後にこれらの拮抗剤を除去したが、形態変化は認められなかった。しかしながら、細胞膜のCaチャネル阻害のみならず、細胞内CaストアーからのIP3により誘起されるCa遊離の阻害剤でもあるシンナリジンを投与後除去すると、SNPの場合と同様に、形態変化が認められた。従って、分化には、膜を介したCaの流入の抑制後の回復のみならず、細胞内Ca動員の抑制後の回復が必要であることが示された。

 以上、本研究は、ラット小脳グリア細胞の分化におけるNO及びCaイオンの作用機構について、新しい知見を加えたものであり、in vivoにおいても、顆粒細胞から放出されたNOが一時的にグリア細胞に作用した後消滅することがグリアの分化を誘起するという、新しい可能性を指摘したものである。よって、本研究は、神経科学及び発生学における細胞間相互作用の研究に貢献するところがあり、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認めた。

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