学位論文要旨



No 110846
著者(漢字) 栗原,一嘉
著者(英字)
著者(カナ) クリハラ,カズヨシ
標題(和) CuCl励起子分子および励起子ポラリトンの二波長励起ピコ秒分光
標題(洋)
報告番号 110846
報告番号 甲10846
学位授与日 1994.12.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2837号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 末元,徹
 東京大学 助教授 久我,隆弘
 東京大学 教授 兵頭,俊夫
 東京大学 助教授 五神,真
 東京大学 教授 長澤,信方
内容要旨

 本論文は、2波長ピコ秒光源によりCuCl(塩化第一銅)中の励起子分子の波数を選択して低密度励起をおこない、励起子ポラリトンおよび励起子分子の時間分解分光を低温(1.6K)でおこなった報告である。ピコ秒パルスと低密度励起と2波長の三つの条件を備えた光源により、広波数範囲の励起子分子の寿命、励起子ポラリトンの結晶中の伝播を明らかにした。

研究の背景と目的

 励起子研究は、固体中の一つの電子と一つの正孔の複合粒子である励起子、二つの電子と二つの正孔の複合粒子についての研究である。励起子と励起子分子の緩和を正しく測定することは励起子研究の基本的な問題である。CuClは、励起子構造が最も単純であり、励起子が光と強く相互作用して励起子ポラリトンであること、励起子分子が安定に存在することから励起子研究の中心的役割を果たしている物質である。

 励起子ポラリトンの緩和および励起子分子の寿命はピコ秒領域にあり、その研究にはピコ秒レーザの登場を待たなければならなかった。70年代後半にQスイッチ・モード同期レーザーを基本波とするピコ秒レーザーシステムが登場し、ピコ秒現象が本格的に研究され始めた。しかし、励起密度が高く、励起子-励起子間衝突による励起子分子の生成や、励起子分子-励起子分子間衝突によるバンド内緩和などの高密度効果を引き起こし、励起子ポラリトン伝播の緩和や励起子分子の寿命を正しく観測することは難しかった。80年代後半のCWモード同期レーザーを基本波とする高繰り返しピコ秒レーザーシステムの登場により弱励起による測定が可能となり、励起子ポラリトンや励起子分子の基本的な緩和の本格的な研究が始まった。

 本研究は、ピコ秒弱励起の最終的な研究段階として、二波長によって励起子分子を波数選択励起する実験である。これにより、広波数範囲の励起子分子の寿命が測定でき、時間分解発光による励起子ポラリトン伝播の測定も可能となる。

実験

 光源は、CWモード同期YAGレーザーを基本波するレーザーシステムである。KTP結晶による第2高調波で2台のローダミン6G色素レーザーを同期励起し、LIO3結晶により色素レーザー光と残りの基本波で2つ和周波発生をおこない、2つの同期した波長可変なピコ秒パルスの紫外光を得た。試料は真空蒸留、ゾーン精製を施した高純度のCuClを気相成長させた厚さ10m程度の薄膜状の単結晶のCuClであり、温度1.6Kの超流動液体ヘリウムに浸して測定した。

 励起子分子の寿命測定は、発光を分光器で分光した後、シンクロスキャンストリークカメラで時間分解した。励起子ポラリトンの時間分解発光は、2つのビームで励起子分子を生成し、励起子分子からの発光の強度によりポラリトンのポピュレーションを観測した。片方のビームにチョッパーを入れ、ディレイを変えながら、分光した発光を光電子増倍管でロックイン検出した。

結果と考察

 (i)高波数励起子分子の寿命測定、(ii)低波数励起子分子の寿命測定、(iii)時間分解発光による励起子ポラリトン伝播測定、について結果をまとめる。

(i)高波数励起子分子の寿命測定

 波数0.89〜6.2×106cm-1の高波数励起子分子のMT発光とML発光を時間分解測定した。MT発光は横波励起子を残す発光であり、ML発光は縦波励起子を残す発光である。MT発光は立ち上がりが急峻で指数関数的に減衰し、寿命は波数に応じて短くなった。一方、ML発光は、立ち上がりに遅れが見られ、顕著な波数依存性を示さなかった。図1に高波数励起子分子の緩和の波数依存性を示す。黒の丸と黒の四角がMT発光の緩和であり、白の丸と白の四角が立ち上がりを考慮したML発光の緩和である。丸と四角は、異なる2つの試料を示す。

 MT発光とML発光の緩和の違いをMT発光とML発光の発光方向の違いにより説明した。励起子分子の波数方向緩和の原因として、欠陥・不純物等による弾性散乱を導入し、MT発光の緩和の波数依存性を、輻射緩和と音響フォノン緩和と弾性散乱により解析した。図1の点線は輻射緩和の理論曲線、一点鎖線は音響フォノンの理論曲線である。弾性散乱の大きさの波数依存性をMT発光の緩和の波数依存性から定め、平均自由行程の逆数として、1.7×104cm-1を得た。図1の実線はこのように求めた曲線である。破線は輻射緩和と音響フォノン緩和の和であり、ML発光の緩和を良く説明している。

図1:高波数の励起子分子の緩和の波数依存性

 位相緩和という観点から、MT発光とML発光の緩和を検討した。MT発光の緩和時間が励起子分子の位相緩和時間であること、ML発光の緩和時間が励起子分子の(ポピュレーションの)寿命であることを明らかにした。

(ii)低波数励起子分子の寿命測定

 波数0〜0.22×106cm-1の低波数励起子分子のUP発光とLP発光を時間分解測定した。低波数励起子分子は、上枝ポラリトンのUP発光と下枝ポラリトンのLP発光により輻射緩和する。発光の時間分解測定により、励起された低波数励起子分子が、高波数側にバンド内緩和していることが分かった。図2にバンド内緩和していない低波数励起子分子の緩和の波数依存性を示す。発光寿命の顕著な波数依存性は観測されなかった。この発光寿命は、(i)の議論より、位相緩和時間と考えた。図3にバンド内緩和をした励起子分子の緩和を示す。この緩和時間は、図2の緩和時間より長く、後述するモデルにより、励起子分子の寿命を反映していると考えた。

 波数kmol2k0の発光であるMT発光とML発光が現れていることに注目して、低波数励起子分子の高波数側のバンド内緩和の原因を、波数kmol2k0励起子分子との非弾性散乱よって説明した。図2の位相緩和を、輻射緩和と励起子分子-励起子分子間の非弾性散乱で説明するモデルを建てた。このモデルによって、図3の緩和時間の最も長い極限を励起子分子の寿命とした。そして、低波数励起子分子の寿命として60ps、励起子分子-励起子分子間の非弾性散乱断面積として1.8×10-10cm2を得た。

図2:低波数励起子分子の位相緩和時間の波数依存性図3:バンド内緩和をした低波数励起子分子の波数依存性
(iii)時間分解発光による励起子ポラリトン伝播測定

 高波数励起子分子のMT発光とML発光の時間分解発光測定により、伝播する励起子ポラリトンのポピュレーションを観測した。その結果、MT発光とML発光の時間分解発光に違いが見られた。これは、(i)高波数励起子分子の議論と同様に、MT発光とML発光の発光方向の違いにより定性的に説明できた。MT発光とML発光の時間分解発光の違いにより、結晶内を折り返して伝播する励起子ポラリトンの振る舞いを初めて直接観測することができた。

審査要旨

 本論文は,二波長励起による波数選択励起の手法を用いて,CuClにおける励起子ポラリトン,励起子分子のダイナミックスの詳細な研究を行ったものである.CuClは,励起子が光と強く結合した励起子ポラリトンとして観測されること,励起子分子が安定して存在する事,励起子帯構造が単純である事,励起子分子系におけるボーズ凝縮実現の可能性がある事などによって,励起子研究において特別重要な位置を占めており,これまでに励起子系に関する精密な研究結果が蓄積されている.励起子ポラリトン及び,励起子分子の緩和過程の解明についても,1970年代よりパルス光励起を用いた試みがなされてきた.しかし,これまで励起子分子の緩和の様子が波数(あるいは運動量)にどのように依存しているかに関する実験的考察は十分でなかった.本論文提出者は,この点を解明することを目的として研究を開始した.

 本論文は7章からなる.第1章の序論,第2章の理論的導入部分につづき,第3章で実験方法について述べている.まず緩和素過程の研究に不可欠な低密度励起(弱励起)の条件を維持しつつ波数選択励起を行うため,ピコ秒領域で同期した2色の光パルスを高繰り返しで発生する光源を開発した.2つの波長のパルス光を同時照射すると,励起子分子は,励起子ポラリトンを中間状態とした共鳴2光子過程で波数空間の一点に作られる.入射光の波長や方向を変えることにより,この波数を制御する事が可能となる.このようなアイディアに基づき,波数選択励起の実験を行った結果,いくつかの興味有る成果が得られた.主要な結果は第4,5,6章に述べられており,第7章が結論となっている.

 まず,第4章では平行二波長励起によって高波数の励起子分子を生成し,この寿命を,励起子分子から縦波励起子ポラリトンを残すMT発光および横波励起子ポラリトンを残すML発光の減衰より調べた結果を述べている.MT発光は立ち上がりが急峻で,寿命は波数とともに短くなる,一方ML発光は立ち上がりに遅れがみられ,顕著な波数依存性は示さなかった.論文提出者はMT,ML発光の時間的振舞いの違いをMT,ML発光の発光方向選択則の違いと励起子分子の空間的位相緩和により説明した.更に輻射緩和,音響フォノン緩和,欠陥(または不純物中心)による弾性散乱に起因する位相緩和を考慮したモデルを導入することにより,MT発光寿命の波数依存性を定量的に説明することに成功した.以上の解析により,MT発光の寿命が励起子分子の位相緩和時間に,ML発光の寿命が分布数の緩和時間に対応する事を結論している.

 第5章では,対向入射二波長励起により低波数励起子分子を生成し,LP,UP(下枝,上枝ポラリトン)発光のスペクトルと時間分解の測定を行った結果を述べている.それぞれのスペクトル線幅は,励起子分子のバンド内エネルギー分布を反映していると解釈された.更に発光寿命がそのスペクトル幅の中で高エネルギー側と低エネルギー側でわずかに異なることが見いだされた.論文提出者は,この現象を,低波数励起子分子が,この実験条件で同時に生成されている高波数の励起子分子との衝突によって,バンド内緩和するというモデルで解析した.これによれば,高波数励起子分子の発光であるMT,ML発光の時間的振舞いも定性的に理解できる.さらに,最も長い寿命を示すLPの高エネルギー側の減衰が励起子分子の分布数の緩和に対応すると解釈され,それは波数にほとんど依存しないことが示された.ただし,励起子分子間衝突に関して通常より1000倍大きな散乱断面積を仮定しなければならないという問題点が残っている.

 第6章では,時間差をつけた二波長励起によって,伝播している励起子ポラリトンの分布数を観測した.この場合もMT,ML発光の時間的振舞いに違いが見い出されたが,これもML,MT発光の方向選択則によって理解できる事を示した.

 以上,何れも二波長波数選択励起によってはじめて可能になった興味有る成果である.特に高波数領域で励起子分子の寿命に波数依存性があることを示した点は励起子分子のダイナミックスの議論における本質的な進歩であり,高く評価できる.第5章,第6章の成果は,二波長励起分光の有効性を示したと言う点で十分に評価できると考えられる.このように,論文提出者は,低密度二波長励起という新しい手法を導入することによって,励起子分子,励起子ポラリトンのダイナミックスの研究分野に大きく貢献した.

 以上の理由により,本論文は,博士(理学)論文として十分に評価できると審査委員全員が認め,合格と判断した.

 なお,本論文第4章の研究は松岡正浩氏,徳永英司氏,馬場基芳氏との共同研究であるが,論文提出者が立案,計画から実験,解析に至るまで主体的に行っており,主要部分は実質的に独力で行ったものと認められる.

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