学位論文要旨



No 110847
著者(漢字) 蔡,辰豪
著者(英字)
著者(カナ) チェ,ジンホ
標題(和) 光彩を発するサフィリナ科橈脚類の機能形態学と生態学
標題(洋) Functional morphology and ecology of the iridescent copepods,Family Sapphirinidae
報告番号 110847
報告番号 甲10847
学位授与日 1994.12.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1524号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水産学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 沖山,宗雄
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 塚本,勝巳
 東京大学 助教授 寺崎,誠
内容要旨 内容1.緒言

 サフィリナ科橈脚類は熱帯・温帯海域の表層に広く分布し、プランクトンネットで容易に採集される。分布密度は小さく優占群となることはまれだが、その形態と生態にはいくつかの顕著な特徴がある。体型は著しく扁平で透明だが、雄は光を反射して種により異なる光彩を発する。一方、Sapphirina属の雌雄とCopilia属の雌は大きなレンズと走査機能をそなえた眼をもつ。またサフィリナ科の2種はサルパ類に寄生することが知られている。サフィリナ科はオンケア科、コリキウス科とともに、構成種の大部分が寄生性であるポエシロストマ目に属する。これらの橈脚類は従来浮遊性と考えられていたが、近年前者2科の数種がサルパ、尾虫類などのゼラチン質プランクトンと寄生・捕食関係をもつことが明らかにされ、これらの分類群が系統的にも生態的にも浮遊性と寄生性の中間的段階にあることが示唆されている。

 このようにサフィリナ科橈脚類は海洋プランクトンにおける光生物学、性的二型、個体の認識、寄生などの諸現象のメカニズムとその生態学的意義を解明するうえできわめて興味深い動物群である。しかし従来の研究はほとんどが分類学的記載と光学顕微鏡レベルの形態学であり、生態については分布・行動に関する断片的な報告があるにすぎない。

 本研究では、形態学と生態学双方の視点からサフィリナ科橈脚類の生活を究明することを目的とし、サフィリナ科を代表する2属、SapphirinaとCopiliaについて、光彩発生のメカニズムとその光学的特性、分布・移動、遊泳、および摂餌生態を調べた。さらにこれらの要因相互の関係を検討し、光彩の生態的意味とサフィリナ科橈脚類の生活様式について考察した。

2.材料と方法

 試料は研究船淡青丸と白鳳丸の航海で各種のプランクトンネットを用いて採集した。

 光彩の発生に関与する構造を明らかにする目的で、活きた試料を常法により処理し、走査型(SEM)および透過型(TEM)電子顕微鏡で皮殻の微細構造を観察した。また高速液体クロマトグラフィ(HPLC)により光彩発生に関与する反射小板の化学組成を分析した。さらに光彩の種特異性を定量的に比較する目的で顕微分光測光により光彩の波長スペクトルを測定した。種の鉛直分布様式と日周鉛直移動の解析には西部北太平洋、南シナ海、およびインド洋の熱帯・亜熱帯海域で元田式多層水平ネットにより採集された標本を用いた。白鳳丸船上において単色光分光器を用いた行動実験を行い、各種光条件に対する橈脚類の反応を解析した。摂餌の日周性と食性を把握する目的で消化管内容物の充満度と消化管内クロロフィルを測定し、SEMにより口器形態と消化管内容物を観察した。

3.皮殻の構造と光彩発生のメカニズム

 観察に供したSapphirina属とCopilia属の7種すべてにおいて雄の背側全面にわたり多層の薄膜構造が認められた。この構造は雄の背側のクチクラ層直下のみにあり、腹側および雌にはない。多層構造は上皮細胞の中にあり、10-14対の平行に並ぶ薄膜と細胞質からなり、さらに背-腹方向の膜で区分される。背面から見ると、この膜は正六角形が整然と並んだ蜂の巣状構造を示す。さらにSEMを用いた観察により上記膜構造によって囲まれていると考えられる正六角柱の反射小板が確認された。またHPLCを用いた分析によりこの反射小板がグアニンの結晶であることが明らかとなった。以上の結果をもとに光彩発現に関与する皮殻の構造を模式化し(図)、光彩発生のメカニズムについて以下のように考察した。光がサフィリナの多層の反射小板に入射すると、反射される光は干渉によって狭い範囲の波長を持つ。反射光の波長()は反射小板の厚さ(t)と屈折率(n)で決められ、垂直光では=4ntとなる。SEMの観察から得られた反射小板の厚さ(61-83nm)をこの式に代入すると、Sapphirina angustaとS.gastricaでは光彩の色と理論的波長帯が一致するが、S.darwiniiとS.nigromaculataでは一致しない。従って、後者2種の光彩には反射小板以外に色素等、他の要因が関与するものと考えられる。

図.サフィリナ科の雄の皮殻の構造を示した模式図。bl:基底膜;cm:細胞膜;d:反射小板径;e:表層クチクラ;m:ミトコンドリア;mls:多層反射小板構造;n:核;p:原クチクラ;t:反計小板の厚さ
4.顕微分光測光による光彩の測定

 サフィリナ科各種の光彩の特性と差異を明らかにするため、Sapphirina属6種の光彩の分光比反射率を顕微分光光度計を用いて測定した。活きた試料の分光比反射率は種により異なったパターンを示したが、海域による種内の変異は認められなかった。S.ovatolanceolataでは430-600nmのみで弱い反射が見られ、S.angustaとS.opalinaはともに約390-470nmと>730nmに2つの極大を示した。S.auronitensとS.gastricaも<450nmと>600nmの2つの極大を示し、その反射率は非常に高かった。S.metallinaは部位によりさまざまな極大を示し、その波長は広い範囲におよび、高い反射率を示した。各種の分光比反射率曲線の大きい方の極大は反射小板の厚さから推定した波長の理論値および目視で観察した光彩の色とほぼ一致する。一方、色素の測定の結果、赤い色素を持つS.angusta,S.opalinaおよびS.metallinaでは長波長側の極大に色素が関与するものと考えられる。

5.鉛直分布と日周鉛直移動

 西部太平洋、南シナ海、およびインド洋の熱帯、亜熱帯海域で調査した結果、出現したSapphirina属およびCopilia属の全種が昼夜ともにほぼ200m以浅に分布する典型的な表層プランクトンであった。分布深度は種により異なり、Sapphirina属の中で、黄色の光彩を発する種では約50m以浅の混合層(上部表層種)に、青色の種では混合層より深い表層(下部表層種)に分布の中心があった。Copilia属の2種は下部表層に中心をもつが、上記2群に較べ広い鉛直分布を示した。また上部表層種のうち4種および下部表層種の1種が、昼間の分布深度が夜間より浅くなる、顕著な「逆転鉛直移動」(reverse vertical migration)を示した。またSapphirina属2種では、海域により昼間多量に採集されるが、夜間にはまったく採集されない現象が認められた。

6.遊泳行動

 24時間、暗所での移動活性を測定した結果、S.opalinaでは日出時付近に移動指数(locomotive index)が増加したが、S.nigromaculata,S.gastricaおよびS.stellataでは移動指数に顕著な日周性は認められなかった。S.gastrica,S.stellataおよびS.opalinaは赤色の波長帯以外のすべての波長帯(430-650nm)で正の走行性を示したが、S.gastricaとS.stellataは黄色の波長帯、S.opalinaは青色の波長帯でより強い反応を示した。これらの反応は雌雄ともに観察されたが、反応時の遊泳行動は雌雌で異なり、とくに雄では非常に速い回転運動(例:S.gastricaで5〜9回転/秒)が観察された。

7.口器形態と摂餌生態

 Sapphirina属の雌雄およびCopilia属の雌は鈎爪状の第二触覚と顎脚、鋸歯状の上顎、および短い刺毛のはえた下顎を持つが、Opilia属の雄では触覚と顎脚以外は痕跡的である。したがってサフィリナ科橈脚類の口器形態は微少な懸濁粒子の捕収よりもむしろ大型の物体への付着・懸垂とその表面からの物質の剥離に適した構造と考えられる。南シナ海における20時間の経時採集の結果S.auronitensとS.metallinaの消化管には昼夜ともに内容物が認められたが、消化管の充満度は昼間より夜間に高く、とくにS.auronitensでは、雄雌共に日出時に高い傾向を示した。Sapphirina属、Copilia属ともに消化管内のクロロフィルおよびフェオ色素はきわめて微量で、植物プランクトンはこれら橈脚類の主要な餌料ではないと考えられる。光学顕微鏡およびSEMにより観察した結果、胃内容物は大部分、同定不能の不定形物体と繊維状物体であった。以上の結果から、サフィリナ科橈脚類が他の動物の組織を摂食する可能性が示唆されたが、内容物の由来についてはさらに検討を要する。

8.光彩の生態的意味とサフィリナ科橈脚類の生活様式

 以上の結果をもとに光彩の生態的意味とサフィリナ科橈脚類の生活様式について考察した(表)。本研究の調査海域はすべて外洋の貧栄養域で、水中光は海面直下ではほぼ白色光だが、深くなるにしたがい長波長帯が減衰し50m以深でほぼ青色光となる。黄色の光彩を発する種が浅い層、青色の種がより深い層に分布することから、これらの種の雄個体はその分布深度で卓越する波長帯の光を効率よく反射・干渉し、周囲の光条件に対して強いコントラストを示すものと考えられる。雄の個体のみが光彩を発すること、雌の眼がよく発達していること、雌雄の分布深度が昼間よく一致すること、さらに雌雄ともに雄の光彩に対応する波長帯の光に対し強い正の走光性を示すことなどから、光彩は雌雄のコミュニケーション、とくに雌による雄個体の認識システムに重要な役割を果たすものと考えられる。一方、光の豊富な昼間の表層における視覚捕食者からの捕食逃避には、雌の透明な体と、雄の回転運動が関与するものと考えられる。夜間の行動については不明の点が多いが、本研究の結果から夜間遊泳力の大きい動物に付着してこれらの体組織を摂食する可能性が示唆された。

表.サフィリナ科各種の光彩パターン、反射小板の厚さから推定した干渉色、色素最大の正の走光性を示した波長帯および昼の平均分布深度

 このように、サフィリナ科橈脚類は光の豊富な外洋の表層に適応した生物であり、その特殊な形態と生態は、広大な透明度の高い空間で同種個体を発見し、乏しい餌条件のもとで有効に栄養を摂取する機能を進化させた結果と考えられる。

審査要旨

 ポエシロストマ目に属する橈脚類は大部分が寄生性、共生性であるが、サフィリナ科橈脚類は熱帯・温帯海域の表層に広く分布し、プランクトンネットで容易に採集される。体型は著しく扁平で透明だが、雄は光を反射して種により異なる光彩を発する。一方、Sapphirina属の雌雄とCopilia属の雌は大きなレンズと走査機能をそなえた眼をもつ。またサフィリナ科の2種はサルパ類に付着、その組織を食べることが知られている。このようにサフィリナ科橈脚類は海洋プランクトンにおける光生物学、性的二型、個体の認識、食性などの諸現象のメカニズムとその生態学的意義を解明するうえできわめて興味深い動物群である。しかし従来の研究はほとんどが分類学的記載と光学顕微鏡レベルの形態学であり、生態については分布・行動に関する断片的な報告があるにすぎない。

 本研究では、サフィリナ科を代表する2属、SapphirinaとCopiliaについて形態学と生態学双方の視点からその生活を究明することを目的としている。論文は7章から成り、第1章の序論の後、以下のような結果を得ている。

 第2章では、皮殻の微細構造と生化学的組成について調査し、その結果から光彩発生のメカニズムを明らかにしている。雄の背側全面にわたってクチクラ層直下の上皮細胞に多層の薄膜構造が認められた。背面から見ると、この膜は正六角形が整然と並んだ蜂の巣状構造を示す。さらにその膜構造によって囲まれていると考えられるグアニンの正六角柱の反射小板が確認された。サフィリナ科橈脚類の光彩はその多層反射小板に入射する光の屈折、反射、干渉によって発生すると結論した。

 第3章では、サフィリナ科各種の光彩の特性と差異を明らかにするため、Sapphirina属6種の光彩の分光比反射率を顕微分光光度計を用いて測定した。活きた試料の分光比反射率は種により異なったパターンを示した。各種の分光比反射率曲線の大きい方の極大は反射小板の厚さから推定した波長の理論値および目視で観察した光彩の色とほぼ一致する。

 第4章では、サフィリナ科橈脚類の鉛直分布と日周鉛直移動を西部太平洋、南シナ海、およびインド洋の熱帯、亜熱帯海域で調査した。出現したSapphirinaおよびCopilia属の全種が昼夜ともにほぼ200m以浅に分布する典型的な表層プランクトンであった。分布深度は種により異なり、Sapphirina属の中で、黄色の光彩を発する種では約50m以浅の上部表層に、青色の種では混合層より深い下部表層に分布の中心があった。Copilia属の2種は下部表層に中心をもつが、上記2群に較べ広い鉛直分布を示した。また上部表層種のうち4種および下部表層種の1種が、昼間の分布深度が夜間より浅くなる、顕著な逆転鉛直移動(reverse vertical migrationを示した。

 第5章では実験室内の光におけるS.gastricaとS.opalinaの遊泳行動を観察した。24時間、暗所での移動活性を測定した結果、顕著な日周性は認められなかった。調査した2種は共により高い照度でより強い正の走光性を示したが、S.gastricaは黄色の波長帯、S.opalinaは青色の波長帯でより強い反応を示した。これらの反応は雌雄ともに観察されたが、反応時の遊泳行動は雌雄で異なり、雄では非常に違い螺旋状遊泳が観察された。

 第6章では、口器形態と摂餌生態について研究を行なった。サフィリナ科橈脚類の口器形態は微少な懸濁粒子の捕収よりもむしろ大型の物体への付着・懸垂とその表面からの物質の剥離に適した構造と考えられる。南シナ海における20時間の経時採集の結果S.gastricaとS.metallinaの消化管には昼夜ともに内容物が認められたが、S.gastricaでは、雄雌共に消化管の前腸部の充満度は昼間より夜間に高い傾向を示した。Sapphirina属、Copilia属ともに消化管内のクロロフィルおよびフェオ色素はきわめて微量で、胃内容物は大部分、同定不能の不定形物体と繊維状物体であった。以上の結果から、サフィリナ科橈脚類が他の動物の組織を摂食する可能性の大きいことを示した。

 第7章では、以上の結果をもとに光彩の生態的意味とサフィリナ科橈脚類の生活様式について考察した。雄個体の光彩はその分布深度で卓越する波長帯の光を効率よく反射・干渉し、周囲の光条件に対して強いコントラストを示すものと考えられる。雄の個体のみが光彩を発すること、眼がよく発達していること、雌雄の分布深度が昼間よく一致すること、さらに雌雄ともに雄の光彩に対応する波長帯の光に対し強い正の走光性を示すことなどから、光彩は雌雄のコミュニケーション、とくに雌による雄個体の認識システムに重要な役割を果たすものと結論している。

 以上本論文はサフィリナ科橈脚類の形態、行動および分布・摂餌生態を調査し、それらの視点からその生活様式、特に光彩の生態学的意味について考察したもので、学術上、応用上大きな貢献であることを認める。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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