学位論文要旨



No 110848
著者(漢字) 村田,功
著者(英字) Murata,Isao
著者(カナ) ムラタ,イサオ
標題(和) 赤外吸光分光観測に基づく南極成層圏HCl,HF,N2Oの研究
標題(洋) Stratospheric HCl,HF and N2O in Antarctica observed with solar infrared absorption method
報告番号 110848
報告番号 甲10848
学位授与日 1994.12.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2838号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 岩上,直幹
 東京大学 教授 秋元,肇
 東京大学 教授 小川,利絋
 東京大学 教授 富永,健
 東京大学 助教授 中島,映至
 東京大学 助教授 松田,佳久
内容要旨 1.目的

 極域において成層圏オゾンが大きく減少するいわゆる’オゾンホール’現象においては、フロンなどから発生する塩素化合物が重要な役割を果たしている。すなわち、塩素化合物の中で安定なHClなどのreservoir分子が極渦の中でActive Chlorine(Cl,ClOなど)へと変化し、これがオゾンを減少させるのである。したがって、HClのActive Chlorineへの変化量がオゾンの減少量を左右する。しかし、観測例が極めて少ないために定量的にはまだ不明な点が多い。本研究では、南極昭和基地においてHClの連続観測を行なうことにより、塩素化合物間の分配の時間的変化をオゾン量の変化と対応づけて定量的に示すことが目的である。また、同時に観測したHF、N2Oは反応性に乏しいため、大気運動のトレーサーとして有効である。

2.観測・解析の方法

 観測方法は地上からの太陽を光源とした吸光分光法であり、各成分の鉛直気柱密度を観測した。観測波数はそれぞれ、HCl-2926cm-1,HF-4039cm-1,N2O-2583cm-1である。観測装置は1.5mダブルパス回折格子型分光器を中心としたもので、分解能は3000cm-1で0.09cm-1である。観測は’91年7月30日から12月21日まで行ない、計41日分のデータを得た。

 観測データの解析では、28層大気モデルを用いて計算した各吸収線のスペクトルを最小二乗法によって観測スペクトルにfittingするという方法により鉛直気柱密度を求めた。

3.観測結果

 鉛直気柱密度の季節変化

 HCl(図1)

 冬:(1.65±0.43)×1015cm-2

 夏:(6.07±1.20)×1015cm-29〜10月に4.4×1015cm-2増加

 HF,N2O(図2)

 HF:(1.30±0.25)×1015cm-2

 N2O:(5.93±0.42)×1018cm-2観測期間中ほぼ一定

図表図1 / 図2

 HClは冬から夏にかけて大きく変化しているのに対し、HF、N2Oは観測期間中ほぼ一定であった。HF、N2Oは大気運動のトレーサーとして考えられるので、大気鉛直輸送の変動の効果は小さいといえる。また、HF/HCl比の変化を見ると、夏には中緯度と同程度の値をとるのに対し、冬には非常に大きな値となる。これは冬のHClの減少が化学反応によることを示している。さらにHClの減少量(4.4×1015cm-2)が夏期全量の2/3以上にも及ぶことは、HClの高度分布から考えると、冬期にはPSCs粒子表面上でのHeterogeneous反応により下部成層圏のHClがほぼ全て他の塩素化合物に変化していることを示している。

4.南極オゾンホールにおける塩素系化学についての考察

 これまで定性的にはHClがPSCs粒子表面上でのHeterogeneous反応によりActive Chlorineに変化するといわれてきたが、定量的な評価はまだほとんどなされていない。我々は観測結果から塩素化合物間の分配についての定量的な考察を行なった。

 昭和基地でのオゾン全量データを見ると昭和基地は10月から11月にかけてオゾンホールの中から出たり入ったりしているが、オゾンホールの中にある時のデータだけを見ても、HClは11月には夏期の値にまで増加していることがわかる。また9月までのオゾンホールの中にある時期については、上空の気温、風のデータから力学的に安定した状態であり、輸送による変化の影響は小さいことがわかる。したがってHClの増加のプロセスもほぼ化学反応のみで起こると考えてよい。そこで、一次元光化学モデルを用いて9月のオゾン観測値の減少量を再現するのに必要なActive Chlorineの量を見積もった。その結果得られたActive Chlorineの量は、HCl減少分の全てがActive Chlorineに変化していると考えた場合の半分程度であることがわかった。残りのHClについては、他の塩素化合物(ClONO2)に変化するか、あるいはPSCs粒子内に取り込まれていると考えられる。以上から塩素化合物間の分配の変化のシナリオをまとめると図3のようになる。

図3
審査要旨

 南極域の春期において、成層圏オゾンが著しく減少する「南極オゾンホール現象」では、フロンなどより生成される活性な塩素化合物が重要な役割を果たしていると理論的に推定されている。すなわち、夏期においては比較的安定な塩化水素などの貯留成分として存在する塩素族化合物が、冬期の安定かつ低温な極夜渦中に出現する極域成層圏雲粒子上での不均質相反応によってより不安定な気体種に変化し、春先の日照の開始にによって酸化塩素などの活性種を生成して、成層圏オゾンの著しい減少を引き起こすというものである。従って、塩化水素から活性塩素化合物への変換量がオゾンの減少量を規定する主要因であるといえる。しかし、この両者に関する観測例はいずれも極めて少なく、上記の推定は定量的にはもちろん定性的にさえも充分に検討されたとは言い難い。この論文は著者自身が南極昭和基地に越冬して行った塩化水素、フッ化水素、一酸化二窒素の地上分光観測に基づき、他の手段により同時期、同所で得られるオゾン全量データ、気象ゾンデデータなど、他の情報を合わせ、さらにモデル計算を行って、オゾンホール出現期における塩素族化合物間の分配の時間変化を定量的に追跡し、南極オゾンホールの成因に関する重要な知見を得るに至っている。

 本論文の第一章は、本研究の背景をまとめたものであり、成層圏における塩素族化合物のふるまいについて最近の研究を概観している。第二章は著者自身が南極昭和基地に設置して使用した赤外分光システムの特色を記述している。第三章は取得した吸収スペクトル中から雑音に埋もれた目的の吸収構造をひろい出し、最小自乗法的手法を用いて鉛直積分量(コラム量)を確定する過程を既述しており、さらにランダム誤差および系統誤差の評価を行っている。特に、種々の原因によって擾乱を受けたスペクトル中から、目的の気体種のコラム量を安定に定量する方法に関して工夫がなされている。第四章は1991年7月末から12月末までの観測結果を記述しており、塩化水素のコラム量のみが著しく変化するという極めて興味ある結果を明瞭に示している。このことから、極域成層圏雲が出現すると予想される高度12〜25kmに存在した塩化水素のほとんど全部が消失したことを結論している。フッ化水素および一酸化二窒素のコラム量の変化が小さかったことより、塩化水素に見いだされた変化は主に化学反応によることが明かとなった。第五章では、以上で得られた知見に基づき、オゾンホール現象下における塩素族化合物のふるまいを検討している。はじめに気象ゾンデデータを総括して輸送による効果を見積もったうえで、数値モデルによるシミュレーションを行い、消失していた塩化水素コラム量の全部ではなく1/3程度のみが活性塩素に変換されていたという新しい知見を得た。残りの2/3は別の貯留成分に変化している、あるいは極域成層圏雲上に吸着されているとして、観測された塩化水素とオゾンのコラム量の変化を、整合的に説明することに成功した。

 このように著者は困難な観測を厳しい自然条件下で実行して類例の極めて少ない価値あるデータを得ることに成功し、さらにそれに緻密な理論的考察を加えることにによって、南極オゾンホール出現時における成層圏塩素族化合物のふるまいに関する多くの重要な知見を得、オゾンホール現象に関する研究を格段に発展させた。本論文は公表時には共著となる予定であるが、観測の実行、データの解析、結果の解釈のいずれの点においても著者の貢献度は大きく、ここに示した成果のほとんどは著者の創意と努力によって得られたものである。

 以上の理由により、著者は成層圏大気の物理化学研究の進展に大きく貢献しており、提出論文は博士の学位請求論文として合格と判定する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54427