本論文は、企業家及び企業が残した原文書、その他の各種史料に依拠した、「新式企業」の近代中国における誕生、成長、発展の歴史に対する総合的な研究である。研究対象は、主に企業家、商人の活動範囲、行動様式と企業、商社の合弁、分支機構の分布ネットワークに関して、以下の三点を考察する。(1)近代中国に新式企業が伝えられた過程とメカニズム。(2)香港、広東、上海という場の新式企業を伝え広める作用。(3)香港、広東、上海三地の、十九世紀の七十年代には出現していた経済的繋がり。全文は、六章に分けられ、内容的には以下の様に三分できる。 第一部分は、一、二章にあたる。ここでは、主に十九世紀中期の中国人の新式企業に対する理解、態度、そして最も早く新式企業形態を利用する際における議論を考察する。広東籍の買辨、商人は率先して新式企業形態を利用し、その商業活動の範囲は広東、香港、マカオ、上海に広がり、徐潤、唐廷樞、鄭観應という三人が新式企業を広めていくことに関して、最も貢献した。 第二部分は、三章に相当する。小売業、保険業、銀行業の三業種を例として、新式企業出現以前の伝統的な経営形態について概述する。中国の合会は保険業と儲蓄業の要素を兼ね備えているが、これは近代的な保険会社や儲蓄銀行に発展することはなかったのである。伝統的な金融組織の中では、票号、銭荘、当鋪が最も一般的であるが、内外の要素があって、ここから近代的な銀行が形成されることは始終なかった。それに対して、上海商業儲蓄銀行の経営史を見ると、そこには西方の経営手法を採用する姿勢が窺え、一方で伝統金融業の経営上の特長も吸収している。 第三部は、四、五、六章にあたる。それぞれ、保険業、銀行業、旅行観光業に関して個別的に検討する。ここで、上述の新式企業の形成過程、発展原因について、詳細な議論を行う。永安公司、華安生命保険会社グループ、上海商業儲蓄銀行に関するケーススタディを通じて、以下の幾つかの結論を得た。(1)保険業の出現は、百貨店に少し遅れるが、展開する順は、まず水災保険、火災保険、次に生命保険へというものである。血縁、地縁に頼ることは少ない。外国商人と競争したり、合作関係にあるものは比較的多い。二十世紀の二十年代には大企業の多角経営が現れ、保険会社を合併する趨勢にあった。(2)銀行経営は地縁に依存する現象が見られるが、しかし厳密なものではなく、幾つもの地域の地縁団体と関係を有した。また伝統金融組織、例えば銭荘などとの併存期間は最も長い。そして政府と緊密な関係を有し、資本規模も最大である。百貨店同様、一九五〇年代には上海を離れて香港に移るが、今もなお中国市場に再参入しようとする姿勢を示していない。(3)旅行観光業は、伝統企業の中に相当するものを見出し得ない唯一の業種である。経営形態は、兼業である。旅行業は通済隆に始まり、この会社は旅行業から旅行金融へと発展した。だがそれに反して中国旅行者は、上海商業儲蓄銀行が創立し、銀行の援助を受けて全国に展開していくという策略を採ったのである。 |