学位論文要旨



No 110855
著者(漢字) 杉浦,清了
著者(英字)
著者(カナ) スギウラ,セイリョウ
標題(和) 心筋ミオシン分子のインビトロにおける機能測定
標題(洋)
報告番号 110855
報告番号 甲10855
学位授与日 1995.01.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第979号
研究科 医学系研究科
専攻 第一臨床医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野々村,禎昭
 東京大学 教授 熊田,衛
 東京大学 教授 矢崎,義雄
 東京大学 助教授 永井,良三
 東京大学 講師 大内,尉義
内容要旨

 心筋の主要な収縮蛋白であるミオシンの研究にも分子生物学的手法が応用されV1,V2,V3の3種類のアイソフォームが存在すること、そしてその相対的発現量が様々な生理的、病的刺激によって変化することが示されている。申請者らのグループはこうしたミオシン分子の構造変化が機能面に与える意義をインビトロ運動再構成系とよばれる実験系を用いて検討しミオシンのアイソフォームの組成、ATPase活性がインビトロにおける無負荷滑り速度と相関することなどを示してきた。ただし負荷に抗して収縮し血液を駆出するという心筋の機能を考えるとこうした無負荷条件下での機能情報は不十分であると思われる。そこで本研究においては新しいインビトロ張力測定系を使い心筋ミオシン分子の負荷条件下での運動を観察しV1、V3の二つのアイソフォーム間で比較した。

 幼若ラット(4週齢)心筋よりV1アイソフォームを、抗甲状腺剤投与により甲状腺機能低下症をひきおこしたラット心筋よりV3ミオシンアイソフォームを得、ピロ燐酸ゲル電気泳動によりそれぞれが1種類のアイソフォームのみを含むことを確認した。カルシウム活性化ATPase活性は1.11(V1)と0.33(V3)-molePi/mg/minであった。これらのミオシン標本を2種類のインビトロ張力測定系で評価した。一つはNitellopsis obtusaと呼ばれる水草の巨大節間細胞内のアクチンケーブルの上でミオシンをコートした小ビーズATP存在下に滑走させる系に回転ステージとストロボライトを装着した遠心顕微鏡と呼ばれる装置を組み合わせた測定系である。抽出したそれぞれのミオシンをMg-ATPを含む生理的緩衝液に浮遊させアクチンケーブルを露出した節間細胞内に潅流によって導入する。ビーズ表面のミオシンはアクチンとATP依存性の相互作用を始めこの結果ビーズはアクチン上を一定速度で運動する。この標本を遠心顕微鏡のステージの上に乗せステージを定速度で回転すると一定の遠心力(=負荷)の下でのビーズの運動が観察された。無負荷条件では滑り速度は1.70±0.62(V1)と0.61±0.15(V3)m/sで明らかにV1で高かった。負荷を増していくと速度はしだいに低下しある値でビーズの運動は停止した。この時の負荷を最大張力(P0)としたがP0は7.0±3.7(V1)と6.2±2.0(V3)pNで両者に差はなかった。一方負荷を様々に変化させて得た張力-速度関係曲線の形状は図1に示すように筋肉標本でえられるものと異なり負荷を増大していくとプラトーから急激に速度が低下する特有の形を示した。またこの傾向はV1(左)で著明であった。双曲線に近似できる低負荷領域のデータをHillの式(P+a)(V+b)=(P0+a)b[P:張力V:速度P0:最大発生張力a,b:定数]で近似しミオシンのエネルギー効率の指標として使われるa/P0の値を求めたところ-0.48(V1)対0.21(V3)と明らかに異なっていた。

図1

 もう一つの方法はガラスに固定したミオシン面の上を蛍光アクチンフィラメントをATP存在下に滑走させ、それを蛍光顕微鏡で観察する系にレーザー光による光トラップを組合わせたものである。アクチンはウサギ骨格筋より得、ファロイジンロダミンにて蛍光ラベルした。また現状では分子を直接レーザーで捕捉することは不可能なので、アクチンフィラメントの尾端に小ビーズをゲルゾリンを介して接着した。レーザー光は波長1047nmの赤外のもので顕微鏡の対物レンズ(100×,n.a=1.3)を通してミオシン面の近傍に焦点を結ぶようにした。レーザー光トラップは焦点近傍では線形バネのように働くのでトラップ中心からの変位によりビーズに働く力(=アクトミオシン間で発生している張力)を求めることができる。実際の実験に際してはミオシン面より上でアクチンフィラメントの付着したビーズを捕捉し面に向かって下降させていった。最初ブラウン運動していたビーズはアクチンがミオシンと相互作用を開始すると一方向に向いて運動をするようになった。この記録より最大変位(=力)と蛍光像から計測したアクチンフィラメントの長さとの関係を調べるとV1とV3との間には有意差はなくフィラメント1mあたり約3pNの力が発生していることが分かった(図2)。

図2

 力の時間によるゆらぎを周波数領域で解析したところゆらぎのパワースペクトルはLorentz型でありその折点周波数(fc)は5.10±2.43(V1)対2.36±1.49(V3)HzとV3においた低かった。ミオシン頭部がランダムにattach,dctachの2状態をとるとする簡単なモデルに基づけばfcはクロスブリッジのattachment,detachmentの間の遷移確率を反映する。したがってこの結果はおそらくV1アイソフォームがV3に比べ速くattachment,detachmentを繰り返していることを意味すると考えられる。

 インビトロ運動再構成系の特徴は運動に関わるミオシン分子の数が極めて少ないことである。ミオシンコートビーズで観察される張力-速度関係の特徴的な形状がこの数の違いに基づくと仮定したモデルにを用いて張力-速度関係を解析したところ形状の相違をある程度説明できた。さらにV1、V3の間の張力-速度関係曲線の形状の違いはミオシン頭部がある時間にattachの状態にある確率の差で説明された。

 これらの結果より心筋ミオシンの2つのアイソフォームV1、V3

 1)無負荷の滑り速度はV1が速いが平均最大発生張力については差がない。

 2)attachment,detachmentのkineticsは異なっておりそれが張力-速度関係曲線の特徴的な形状の差を作っている可能性がある。

 などの点が示された。

審査要旨

 本研究は心筋の収縮性が収縮の単位であるミオシンアクチンの構造変化にともなって修飾を受けることを明らかにするため、新しい実験手法であるインビトロ運動再構成系を用い分子レベルでの収縮能を測定したものであり、下記の結果を得ている。

 1.ラット心筋より得た2種類のミオシンアイソフォームV1、V3をコートしたラテックスビーズをATP存在下に淡水産の水草である車軸藻の細胞内に存在するアクチンケーブルの上を滑走させたところ滑り速度はそれぞれのアイソフォームのATPase活性に相関していた。この標本を回転するステージとストロボライトを組み合わせた遠心顕微鏡と呼ばれる装置のステージに固定し回転数によって決まる遠心力を負荷として加えたところいずれのアイソフォームについても負荷が増加するにつれて速度が低下することが観察された。ビーズの運動が停止する負荷は両者の間に差は見られずビーズ表面のミオシンの密度が同じであることを仮定すればV1、V3アイソフォームの1分子が発生する最大発生張力(時間平均値)には差がないと考えられた。

 2.負荷と滑り速度の関係をプロットしたところ低負荷領域では筋肉標本で観察されるような双曲線型の張力(=負荷)-速度関係が得られた。しかし負荷の大きな領域では骨格筋ミオシンについて報告されているように双曲線からの偏位がおこり、しかもこれはV1アイソフォームにおいて顕著であった。アイソフォーム間に見られた張力-速度関係曲線の形状の違いを説明するため極めて少数のミオシン分子がビーズの運動に関わっているとの仮定に基づくモデルを提唱した。モデルは形状の差をミオシンのkineticsによって説明することができ、2種類のアイソフォームはATP分解と共役した力発生のパターンが大きく異なることが示唆された。インビトロ運動再構成系の特徴は運動に関わる分子の数が極めて少ないことでありそれによって個々の分子の挙動が明らかにされた。

 3.遠心顕微鏡の問題点は1)植物のアクチンを使用していること、2)運動に実際に関わっているミオシン分子の数を推定することが困難であることである。これらの点を解決するためレーザーによる光トラップを用いた装置により実験を行った。密度が一定になるようにカバーグラス上に固定した心筋ミオシン(V1、V3)の上に尾端にラテックスビーズを固定した蛍光アクチンフィラメントをATPを含む溶液に浮遊させて導入したところアクチンフィラメントはビーズを引いて運動した。このビーズをレーザー光によってトラップし、焦点からの偏位によってアクチンフィラメントがミオシンとの間で発生している力を測定した。力はアクチンフィラメントの長さに比例しており単位長さあたりの発生張力は2つのアイソフォームの間で差はなかった。ただし骨格筋ミオシンとの比較すると単位長さあたりの発生張力は1/3程度であった。

 張力揺らぎの解析からはやはりV1とV3アイソフォームのkineticsの差が示唆された。

 以上、本論文は新しいインビトロ実験系を用いて、心筋ミオシン分子の収縮機能を分子レベルで測定し個々の分子の挙動を明らかにした。本研究は心筋収縮要素の構造研究と機能研究の直接の対応をはかる新しい試みであり、学位の授与に値するものと考えられる。

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