本論文は日本で最初の本格的な韓国近代詩の訳詩集と知られる金素雲『朝鮮詩集』を対象に、近代詩領域における日韓両国の関係に焦点を合わせたものである。全三部から成り、第一部は八、第二部は十、そして第三部は四つの章に分けられる。 一九四〇年「乳色の雲」という題で初めて世に出された『朝鮮詩集』は、一九二〇年代から三〇年代に活躍した主要な韓国近代詩人たちの作品を収めたアンソロジーで、日本による植民地支配下に成立・展開した韓国近代詩の足どりを一通り俯瞰するためには、打ってつけの資料と言える。 本論文の第一部では、『朝鮮詩集』に収められた約四〇名の詩人のうち、かれらの日本の詩や詩人との関係、韓国詩史における重要性などを考慮した上で八人を選び出し、『朝鮮詩集』に訳された作品を対象に分析を行った。当時の韓国詩人の大多数は日本で修学した人である。第一部の目的は、彼らが植民地時代という特殊な歴史的背景の中で、支配国の文学をいかに受け止め、これを消化し、自分の作品世界に反映しでいったかという点を明らかにすることにある。その上、同詩集の訳者自身、原作者たちと同様に長く日本に滞在し、かれらと同時代を生きた一人の詩人であって、当然日本の近代詩人の作品がその訳筆に影を落としているに違いない。このような観点から第一部では、原詩と訳詩を突き合わせるばかりでなく、原詩と訳詩の双方にみられる日本近代詩との発想や表現面での照応関係にも、こまかく眼を配った。 まず朱耀翰は、一九二〇年前後の韓国詩壇の形成において主導的役割を果たした人物である。『朝鮮詩集』に収められた「春をのぞみて」は、原詩の自由律を十二・十二調とも呼ぶべき息の長い韻律に衣替えさせた金素雲の訳出ぶりが異彩を放っている。端正な文語定型詩の目立つ『朝鮮詩集』の特徴を示す典型的な一篇と言える。 次に金億と金素月は、民謡調の恋愛詩人として、日本の島崎藤村や佐藤春夫などを連想させる美しい抒情小曲を残している。特に金素月の作品は「恨」と呼ばれる韓国民の伝統的美意識を下敷きにしていると言われるが、これらの作品を訳出する際、金素雲は佐藤春夫の『殉情詩集』の語彙やスタイルを大いに活用している。おそらく金素雲は、『殉情詩集』などに示される「もののあはれ」の無常美感がとりわけ日本人の普遍的情感を代弁しており、その感傷的恋愛抒情こそ「恨」の哀傷調の恋心を翻訳するに最も適切であると思ったのだろう。第二部の「二 別離の歌」や「四 うたてき恋の歌」の章でも触れるとおり、全然別個の国民情緒である「恨」と「もののあはれ」を、比較文化的に結び付けてみる余地は十分あると思われる。 一九二〇年代の韓国詩壇は、頽廃的で感傷的な浪漫主義風潮が主流を成しており、李相和の「わが寝室」はその代表格の一篇に挙げられる。一九一九年失敗に終った所謂「三・一運動」の余波は、当時の知識人たちに挫折や絶望の暗鬱な時代の影を落とした。呉煕秉や朴英煕の作品は当時の詩人たちの精神的苦悩を歌ったもので、金素雲も彼らの亡国の悲哀を文体や言葉使いなどに細かく配慮し、その再現につとめている。 こうして一九二〇年代の詩が感情の流露に身を任せた主情的性格を持つのに対し、三〇年代の詩は前代の詩風をことごとく否定し、言語やイメージ重視の立場に則った、透明な抒情の主知的作風を打ち出した。その詩史的転換の流れを辿るため、小論では李章煕、鄭芝溶、金起林の三人を選んだ。李章煕は二〇年代の半ばに活躍した人でありながら、その独特の機知的詩風は鄭と金の先駆を成すものと言うべく、特に「春は猫ならし」は李の萩原朔太郎への傾倒ぶりを窺わせる注目すべき一篇である。 しかし『朝鮮詩集』に収められた詩家たちの中で、誰よりも日本の詩人たちとの比較研究の必要性を強く感じさせるのは、鄭芝溶と金起林である。二人はともに日本で英文学を専攻した人たちで、韓国では彼らの主知的詩を比較文学的に語る際はもっぱら英米詩との関わりが注目される傾向がある。だが鄭の「カフェ・フランス」から金の「蝶と海」に至る一連の詩篇の背後には、北原白秋、萩原朔太郎といった「感覚派」詩人たちの他に、昭和期において日本のモダニズム運動の主役をつとめた『詩と詩論』の詩家たちとの密接な関係が認められる。 一方『朝鮮詩集』の何よりの魅力は、これを読むものなら誰もが賛辞を惜しまない、高い芸術的完成度に求められよう。ある意味では翻訳不可能とも言われる詩の翻訳を試みる上で、訳者の金素雲はつねに詩的弾力を持った原詩の再創作・再構成の姿勢で臨んでおり、翻訳文学としての価値に富んだものに仕上げている。第二部ではその金素雲の訳詩法を、恋愛と望郷の諸篇を以て論じてみた。恋愛詩と望郷詩は抒情詩の中核を成すものだが、とりわけ『朝鮮詩集』にはこの二つのテーマを扱ったものが多い。もちろん韓国近代詩そのものに抒情詩への傾斜が著しいことはいうまでもないが、それにも増して金素雲自身が原作者たちとほぼ同時代を生きた詩人として、彼らの哀傷や失郷意識に深く共鳴した上で作品を選定したのではなかったかと思う。 まず第二部冒頭の「一 『朝鮮詩集』の翻訳観」では、金素雲が理想とした訳詩の在り方について考察を加えた。金素雲は、訳詩の中に原作者と訳者が同居しているという意味で、永井荷風の『珊瑚集』を一つの手本に据えているが、それは原詩の心を守るためには或る程度の「僭越と越権」は許されるべきだ信念に則っている。そうした観点からみると、「二 別離の歌」での金素雲の「岩つつじ」はいわば失敗作であった。それは次章の「三 ’ニム’の恋歌」における同じ金素月の「うたごゑ」と比べてみると十分推察がつく。「岩つつじ」では、原詩の字数律をほぼ正確に再現し、日本の詩としては十分鑑賞にたえるものの、肝心の原詩の心、すなわち「恨」の感情が繰りだす複雑な心理の二重性は、どうしても伝ってこなかった。これは「恨」の翻訳の困難さを物語るものであるが、次章の「四 うたてき恋の歌」で取り上げた一連の感傷的恋愛観の表出は、それをいかにも日本詩的情感に密着させて表現しようとした訳者の意図から出たものに他ならない。 次に望郷詩は、金素雲の訳詩法を論ずる上で特に重要なものである。小論では『朝鮮詩集』の望郷詩を「五 船出の望郷歌」から「九 故郷喪失の悲哀」までの五つの小題に分けてみたが、結局全体のパターンとしては、大都会の形成に伴う離郷、懐郷、帰郷、そして故郷喪失など、日本の近代望郷詩にみられるテーマ群とさほど変わりはない。ただ韓国の場合は、植民地時代という歴史的背景から、その故郷への想いが、作者の生地へのノスタルジアに止まらず、祖国喪失の悲哀にまで広がりを見せており、しばしばその寓意性をめぐって議論が交わされたりする。従ってこの種の作品を翻訳する際には、訳者の「読み」が加えられることになるが、金素雲は比較的原詩の精神よりは純粋詩としての密度に重きを置いた柔軟な態度を取っている。例えば「七 愛と伝説のふるさと」で論じた李陸史の「青葡萄」がそれである。 訳者には激動の時代において日本と韓国を半々に生きた境遇であったが、原作者たちに勝るとも劣らない祖国への強い愛着があった。それを端的に示すのが「九 故郷喪失の悲哀」で取り上げた朴龍哲の「ふるさとを恋ひて何せむ」で、「村井戸」という金素雲の創作的表現をめぐって、藤間生大との論争は、彼の故郷への想いを強く印象づける。結局恋愛詩と望郷詩に見る金素雲の訳詩法は、詩の翻訳における論理的な問題を論ずる前に、この訳詩集こそ「自分の詩集のようなもの」といった、訳者のことばを深く吟味しなければならない。 その歴史的意義を改めて問う意味で、最後の第三部では金素雲と『朝鮮詩集』が、日韓両国の近代文学史上占めるべき位置に焦点を合わせた。最初にアンソロジーとしての『朝鮮詩集』は、『乳色の雲』から岩波文庫本に至るまで、質量とも他の韓国近代詩の日本語訳詩集を圧倒している。例えば許南麒の『朝鮮詩選』は訳者の政治的意識に偏りすぎるし、金鍾漢の『雪白集』は、公的訳詩集というよりはむしろ個人の創作詩集と呼ぶにふさわしいなど、これらと比較してみれば明らかである。特に『朝鮮詩集』は日本政府による韓国語の抹殺政策が進む中で、いつ消滅するかしれない母国語の運命を背負っての、半ば冒険的な出版であった。金素雲には、たとえ外国語による翻訳だったにせよ、母国の詩は母国の言語から成り立つ以上、それを日本に紹介することはその存在をアビールすることになるとの認識があった。この歴史的使命感が祖国の美しい詩心を支配国の読者に知らせる意図につながったのであり、金素雲のひとかたならぬ強い祖国愛・郷土愛がそれを可能ならしめたのである。実際、金素雲が書き残したわずかな創作詩篇を見ると、自分の波瀾に満ちた人生から愛憎の交差する祖国への想いが伝わってくる。これが、『朝鮮詩集』で原詩の再創作・再構成をあえてし、諸篇をすぐれた出来映えに仕上げているのである。 このように翻訳文学としての価値を持っているにもかかわらず、『朝鮮詩集』は日韓両国の近代詩史においてまだ十分な評価を受けていない。特に韓国では、金素雲が一時いくつかの「親日的」性格の詩や文章を書いたことと関連づけて、『朝鮮詩集』のような日本語による著述を、当時の日本政府の「皇国臣民」化政策に同調するものと見る傾向が著しい。しかし全生涯を祖国の輝かしい文化を、日本への紹介に捧げてきた金素雲の足跡は、日韓間の真の相互理解のために欠かせぬものであり、『朝鮮詩集』を含めた金素雲の訳業に対し、冷静な評価の必要性を痛感せざるを得ないのである。 |