本研究では、日本植民地帝国による台湾支配(第1部)と中国大陸支配(第2部)を対象として、どのような思想と論理に基づき「教育文化政策」-狭義の教育政策を中心としながらも言語政策や宗教政策等の文化政策を包摂する概念-が構想され、実際にどのような展開を見せたのか、ということを解明した。従来の植民地教育史研究では、政策の特質を「同化政策」と規定し、天皇信仰や日本語の押しつけという側面のみを強調する傾向が強かった。これに対して、本論では異民族の「他者」性とも言うべきものに着目することで、天皇信仰や日本語の観念が「他者」としての異民族の視線に曝された時に露呈する内部矛盾を剔出することを研究のモチーフとした。 第1部第1章では、領台初期の1900年前後における、教育の制度・内容をめぐる論議と法制化のありように即して植民地教育の骨格がいかに形成されたのかを検討した。 この時期に本国では義務教育制度が確立されたが、現地住民向け初等教育機関である公学校教育の義務化は否定された。憲法を始めとする法制度の植民地への適用を原則とする内地延長主義を「構造的同化」と呼ぶならば、その逆の「構造的異化」という差別の体制が植民地教育の基調に据えられることになったわけである。 他方、教育内容面では、1904年公学校規則により漢文科の内容から儒教の経書を排除、「国語」としての日本語による「同化」の方針が明確にされた。これは、「万世一系」の王統の連続性に天皇支配の正統性を求める国体論と易姓革命による王朝の交代を認める儒教の差異が顕在化せざるをえない状況のもとで、1898年公学校規則の「同文同種」論的な折衷主義が問題視されたことによるものだった。結果として、1904年公学校規則は教育内容面では建前として「国語」教育による包摂を主張しながら、制度的には「構造的異化」という排除の論理を貫徹する二重構造を形成することになった。 第2章では、1910年代前半に辛亥革命の影響などにより民心の「変調」が無視しえなくなった段階で、台湾支配に適合的な教義が模索されたことを究明した。 一つの方策は、台湾版教育勅語-補論1で資料考証を行った-発布構想であった。その特徴は、儒教や漢民族の民間信仰の中核に位置する「天」の観念を用いて天皇の地位を正統化しながら、従順な労働力たれと呼びかけていることにあった。もう一つの方策は漢民族の民間信仰の内に存在した呉(ごほう)鳳伝説を改編し、先住民による首狩という「野蛮」な行為をやめさせた自己犠牲の美談として利用することだった。それは、漢民族の先住民に対する差別を拡大再生産しつつ、「文明」の担い手としての総督府権力に自己同一化させようとする意図を持つものであった。いずれも総督府が台湾の住民に天皇制の教義を本国同様に適用することの効用を疑問視していたことを示す事例と言える。しかし、結果として台湾版教育勅語は発布に至らず、教材としての呉(ごほう)鳳伝説が建前としての天皇制の教義との間に懸隔を孕みながら部分的彌縫策としての役割を担うことになった。 このような支配の教義が、漢民族の文化的伝統の一部を換骨奪胎的に利用しながら「文明としての近代」の観念と天皇制の浸透を図るものだったのに対して、抗日運動の論理は伝統の一部を選択しながら、人権や民主の観念に集約される「思想としての近代」の実現を図ろうとする側面を持っていたと考えられる。第3章では、1920年代後半に草屯庄で洪元煌を中心に行なわれた抗日運動を事例としてこうした仮説的な枠組の検証に努めた。 洪元煌が目指していたのは、台湾の社会的文化的伝統としての「自治」の再生とそれを可能にする政治的な主体形成であり、その発想を根底で支えていたのは易姓革命の思想や宗族の共有地による小作人保護の慣行に見られるような「公」の観念だったことを問題提起的に指摘した。その活動は、彼と同様に土着地主資産階級に属した洪火煉が明治製糖会社の原料委員として利益を享受しながら総督府による「文明としての近代」の導入に協力的だったことや、貧農の息子の生れである張深切が日本留学等の機会を経て祖国復帰を目指す「近代的」民族主義者として活動したことの何れとも対照的な軌跡を描いている。 洪元煌は、政治的諸権利獲得のための手段として公学校や日本語教育の必要性を認めていた。第4章では、このような抗日運動からの圧力の下で「構造的異化」という差別体制を存続させることが困難となり、1930年代前半には「構造的同化」の前提としての「文化的同化」へと力点が移ったことを指摘した上で、「国語常用」の論理と方策を分析した。分析対象として取り上げたのは、台湾から「満洲」を経て華北占領地へと移動した実践家山口喜一郎の日本語教授理論と台北第一師範附属公学校の話し方教育である。 山口の日本語教授理論は、日本語を通じて伝えるべき思想内容は問題にせず、思想方法の同一化を目標として、その目標から翻訳を媒介としない「直接法」の有効性を演繹するものであった。その論理は、教育の理念・内容レベルでの排除の論理と包摂の論理の矛盾・共存を根本的に改編することなく、教育方法論のレベルで「文化的同化」主義による包摂の論理を具体化したものと言える。 山口は、日本語教育により異民族に「日本精神」を「体得」させることが可能だと考えていた。ただし、直接法による教授を効果的に成立させるためには、数の観念のような普遍的な内容の教材が必要であるとも主張しており、それは、「日本精神」のより直接的な注入に相反する側面も持っていた。他方、学校生活に関わる事項をすべて日本語化すべきであると「国語常用」という政策的要請に直結する主張もしていた。こうした方法論における二面性は、台北第一師範附属公学校の話し方教育との関係で顕在化した。すなわち、同校の実践は、山口の教授理論のうち学校生活の日本語化という主張だけを拡大してうけとめる一方、普遍主義的な内容の教材論は無視したものとして特徴づけられるのであり、こうした方向で直接法が形骸化しつつ普遍化していったことに台湾における日本語教育の特徴を見出すことができる。 結局、台湾における教育文化政策は異民族を排除しつつ包摂する体制を最後まで基調としていたのであり、そうした矛盾に満ちた政策が被支配民族に与えた心理的傷痕の一端を補論2の聞き取り調査の内容に見出すことができる。 第2部第1章では、第1部第2章の内容に呼応しつつ、満洲国における支配の教義たる王道主義を分析した。その当初の解釈は宗教教化団体に集う富農層を標的として橘樸(しらき)により主張されたものであり、孫文も評価していた大同思想を王道の理想とするものだった。だが、次第に儒教オーソドクスである朱子学に従った解釈が浮上、それも易姓革命思想と切り離しえないことが問題視されて1937年頃から王道主義そのものを後継に斥ける力が働き始め、天皇制イデオロギーへの居直りにより統治理念全体が破綻の様相を強めていく。そのプロセスは、台湾の1904年公学校規則における経書の排除をさらに大規模に再現したものとみなすこともできる。 第2章では、山口喜一郎の日本語教授理論を比較の軸としながら関東州、満鉄附属地、「満洲国」、華北占領地における日本語教育政策の展開と破綻の様相を明らかにした。 1900年代に支配下に収めた前二者と1930年代に占領した後二者-「満洲国」と華北占領地-では教育状況が大きく相違し、後二者では日本による占領以前から近代的な学校体系が存在すると共に、抗日ゲリラ活動の拠点ともなる広大な農村部を含んでいた。したがって、日本語教育という局面でも教員の不足などの問題が深刻化することになった。 満洲国では大出正篤がこうした教育現実に即した速成式日本語教授法の有効性を説き、華北では国府種武が山口の普遍主義的な教材論を批判し、「日本文化」に関わる内容を教材に積極的に持ち込むべきことを主張した。両者ともに翻訳を認める考えであり、日本語教育による「日本精神」への感化といった発想の破綻を示唆するものと言える。しかし、明確な政策転換が行なわれた形跡も見られない。その要因としては、翻訳による伝達可能な理念、思想内容の不在という問題が重要な位置を占めていたと考えられる。 従来「同化政策」という言葉で表現されてきた天皇信仰、日本語の押しつけを「他者を消去する」契機と呼ぶならば、本研究では「他者を消去する」契機と「他者に対応する」契機のせめぎ合いとして教育文化政策の構造を捕捉すべきことを明らかにした。後者の契機の所在を示すのが、台湾版教育勅語、呉鳳伝説の利用、山口の教授理論、王道主義等である。それは前者の契機と矛盾・共存しつつより巧妙な帝国主義的支配の方策を示していたが、「他者を消去する」負の力としての国体論の壁に阻まれて自らを貫徹することはできなかった。ただし、そのプロセスは、天皇信仰や日本語の観念に支えられた国体論が異民族という「他者」の前で無内容であることを露呈し、教育文化政策の政治的な有効性を自ら掘り崩していく過程でもあった、というのが本研究の結論である。 |