海洋の生態系においては、微生物は低次生産者として食物連鎖の基礎となっていると同時に、分解者として有機物の分解・無機化などを行っているが、その高い活性と多様な代謝機能によって海洋の物質循環に重要な役割を果たしている。外洋や好気的な環境においては好気性の従属栄養細菌による有機物の分解が顕著であるが、内湾や有機物に富む沿岸域の底土においては嫌気性従属栄養細菌、特に硫酸還元菌が卓越し、硫酸塩を還元して硫化物生成作用を営んでいる。このような硫酸還元に基づく硫化物の生成は、海水中に無尽蔵に豊富な硫酸塩を基質とするので、海洋における微生物過程の中でも局部的には非常に顕著であり、環境への影響も極めて重要である。その活動によって生産される硫化物は、直接、底泥中や底層水中のベントス、魚介類に対して毒性を発揮するばかりでなく、溶存酸素の欠乏、還元状態の発達、赤潮発生の要因など沿岸環境に各種の悪影響を及ぼしている。硫酸還元菌は電子受容体として硫酸塩、供与体としては炭素を利用する偏性嫌気性細菌(Eh<-100mV)であるが、炭素源としては乳酸など限られた低分子の有機物しか利用できないため、環境中における存在は好気性や微好気性の従属栄養細菌群と密接な相互関係を持っでいる。 海洋の硫酸還元菌に関してはこれまでも多くの研究が行われてきているが、純粋分離された硫酸還元菌株を用いてその微生物的性状や生理的性状を明らかにする研究や、硫酸還元を伴う底泥付近での生化学的プロセスあるいは利用される低分子の有機酸の動態に関する研究などが主であり、硫酸還元菌の群集構造や種の遷移過程に関する研究はあまり行われてない。その理由としては、これまでの培養法によっていては時間と手間があまりにも大きすぎるため現場での動態にまでは追いつかないと考えられる。それらの難点を解決するためには、培養することなく短時間にそれぞれの菌群を検出できる可能性のある分子生物学的手法を導入するのが望ましいと思われる。本研究は16S rRNAの塩基配列に基づくオリゴヌクレオチドプローブ(蛍光色素を添加)を用いてインサイチュハイブリダイゼーション(Fluorescence In Situ Hybridization法、以下、FISH法)を行うことにより硫酸還元菌の直接検出、計数を検討し、海洋における硫酸還元菌の生態研究に応用しようとしたものである。この方法により海洋における動物プランクトンやデトリタスの分解過程での硫酸還元菌群の動態をマイクロコスムおよび現場において観察した。また、酸素が充分に存在する海洋現場での微少環境における硫酸還元菌の存在などについても検討を行った。本研究の概要は以下の通りである。 1.16S rRNAプローブの作成とFISH法を用いた硫酸還元菌検出の検討 米国Genbank databasesに登録されてある細菌の16S rRNA塩基配列のデータに基づいて海洋性硫酸還元菌のプローブを検討し、Ammanらの報告(1990)をもとに硫酸還元菌検出用プローブをDNA自動合成機により合成した。得られた合成オリゴヌクレオチドの5’末端に蛍光色素を付加し、ゲルろ過、電気泳動、逆相系クロマトカラムにより精製し、その結果、2種類の蛍光プローブ、即ちSRBおよびDesulfobacterプローブが得られた。三角フラスコを用いて動物プランクトンの分解実験を行いながら、FISH法と培養に依存した従来法による計数を比較したところ、FISH法により従来法よりも100〜1000倍高い計数値の得られることが明らかになった。また、多くの細菌に共通に染まるEubacteriaプローブも用いた。 2.動物プランクトン分解過程における硫酸還元菌の検出と群集変動の観察 1994年の淡青丸による航海の際に相模湾や南海トラフ海域から、また油壷湾から合わせて8種類の動物プランクトンを採取し、滅菌された容器の中に現場海水を加えて、それぞれの種類を入れ、25℃、暗条件に保ち分解させながら、硫化水素の発生と、硫酸還元菌の出現をFISH法と培養法を用いて調べた。南海トラフなど外洋域の動物プランクトンの分解過程では硫化水素の発生も硫酸還元菌も検出できなかったが、相模湾からのオキアミ科Nematoscelis tenellaと油壷湾からのヒゲナガヨコエビ科Ampithoe sp.からはともに観察された。そこで、この2種類を採集後直ちに無菌的にホモジナイズし、三角フラスコを用いて同じ条件で分解を進行させた。FISH法ではAmpithoe sp.の実験においては、分解の進行に伴ってビブリオ形(0.7-1.0×2-4m)から球菌形(0.7-1.5m)の硫酸還元菌への遷移が観察された。Nematoscelis tenellaにおいては桿菌形と球菌形の硫酸還元菌が混在して分解が進行している様子が観察された。硫酸還元菌用のプローブはまだ必ずしも種に特異的な物が得られていないが、それでも多くの細菌が混在する分解過程で硫酸還元菌のみを特異的に検出、計数し、種の遷移に伴うと思われる形態変化も観察できることが明らかになった。 また、海水や懸濁物を寒天平板法を用いて観察すると、南海トラフのような外洋においてはほとんど硫酸還元菌が検出されなかったが、相模湾や油壷湾など沿岸においては海水や50mより大きな懸濁物にはかなり存在することが確認された。 3.海底直上のデトリタス分解過程における硫酸還元菌の観察 1994年夏の淡青丸航海の際に、東京湾と相模湾においてマルチプルコアラーを用いて海底直上のデトリタスを採取した。東京湾の試料は20℃で、また相模湾の試料は4℃、暗条件に100日間保ち、硫酸還元菌、生成および消費される有機酸、環境因子の動態などを調べた。東京湾のデトリタスにおいては培養開始3日目に硫化水素の発生とビブリオ形(0.7-1.0×2-2.5m)および桿菌形(0.7-1.0×1.5-2m)の硫酸還元菌の出現が認められた。3日目から8日目まではサイズの異なる桿菌形(1.5-1.8×2.5-3.5m)と球菌形(0.7-1.0m)が認められ、有機酸はn-酪酸>プロピオン酸>酢酸の順で利用された。8日から10日目まで有機酸の利用はプロピオン酸>酢酸>n-酪酸と明らかに種類の遷移がみられ、Desulfobacterプローブで検出されるものが認められるようになった。以後10日目からはDesulfobacterがさらに増加し、この間に酢酸の急激な消費が認められた。その後17日目にはDesulfobacterが全硫酸還元菌の70%を占めるに至った。一方、相模湾のデトライタスにおいては35日目になって長桿菌形(0.7-1.2×2.5-6m)が認められたが顕著な有機酸の利用は認められなかった。45日目には同様の菌であったが微量のn-酪酸とプロピオン酸が利用されるようになった。100日目には異なる菌詳となり、球菌形(2-3m)が90%を占めるようになった。 4.油壷湾底泥における硫酸還元菌生菌数および沈降物、底泥混合物からの有機酸の生成 海底泥中の硫酸還元菌については蛍光色素が泥粒子に吸着されてしまうため、今のところはFISH法を用いることができない。そこでWiddel培地にそれぞれ酢酸、プロピオン酸、乳酸、n-酪酸を基質として、培養法により硫酸還元菌の計数したところ、年間を通じて102-5/gのオーダーで計数された。そこで2月と5月に採集された底泥とセジメントトラップによって採取された沈降物を等量加えた混合物を20℃で培養し、有機酸の消長を調べた。沈降物については2月の試料は5月に比較して、POC/Chl aの値が高く、微生物による分解がより進んでいるものと思われた。有機酸の生成は酢酸>n-酪酸>プロピオン酸>iso-酪酸の順であったが、5月の試料の方が生成開始の時間も早くまた生成率も高かった。さらに、ペプトンを基質とした実験群を設け、培養温度の違いによる有機酸生成を検討した。その結果、現場に棲息する硫酸還元菌やその他の細菌群、基質、温度条件などによって有機酸の分解生成、その利用の動態がかなり影響を受けるものと考えられる。 以上、本研究においては海洋における硫酸還元菌の生態を調べるために従来の培養法の他にオリゴヌクレオチドプローブを用いるFISH法について検討し、さらに海洋現場からの試料に適用したものである。今後、さらに特異性のあるプローブの開発や底土などへの適用範囲を広げることなどの問題点は残るとしても、硫酸還元菌の動態を研究するためには新しい一局面を開くものであると思われる。 |