学位論文要旨



No 110871
著者(漢字) 今水,寛
著者(英字)
著者(カナ) イマミズ,ヒロシ
標題(和) 視覚運動学習を可能にする中枢神経機構への計算論的アプローチ : 人間の到達運動から推定する座標系と表現
標題(洋)
報告番号 110871
報告番号 甲10871
学位授与日 1995.02.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人文第104号
研究科 人文科学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 下條,信輔
 東京大学 教授 河内,十郎
 東京大学 教授 大築,立志
 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 助教授 高野,陽太郎
内容要旨

 われわれが目の前にあるものに手を伸ばすとき,目標物の位置は視覚の作業座標(外部座標)で与えられる.しかし,実際に腕を動かして目標物に手先を届かせるには,筋の長さや関節角といったキネマティック(運動学的)な身体座標や,関節のトルクや運動司令といったダイナミック(動力学的)な身体座標で腕の運動軌道を表現する必要がある.外部座標で表現された軌道をキネマティックな身体座標で表現することを逆キネマティクス変換,ダイナミックな身体座標で表現することを逆ダイナミクス変換と言う.生体の運動制御に関する計算論的なアプローチでは,中枢神経系には外界や筋骨格系の内部表現が存在し,そのような変換を学習することによって,速く滑らかで正確な運動制御を可能にしていると考えられている.本論文は,視覚運動学習課題をパラダイムとして,感覚運動学習を可能にする内部表現が,1)中枢神経系のどの機能的レベルに存在し,2)どのような方法で表現されているかを行動実験から推定し,実際の中枢神経機構を解明する上で有効な示唆を与えることを目的とした.この目的のために,視覚運動学習の「転移」および「汎化」という,心理学では古くから取り扱われているパラダイムを計算理論の枠組みと結び付け,そこから導き出される理論的な予測を行動実験によって検証するという方法を用いた.

 第1章では,従来の心理学における感覚運動学習研究では,学習が成立するための要因分析が主であり,それを可能にする中枢神経機構がどのようなものであるかを問う研究はなされていないことを指摘した.さらに,計算論的な枠組みに基づく行動実験により,そのような中枢神経機構の「機能的なレベル」と「表現方法」が推定できることを述べた.

 第2章と第3章では,1)の問いに答えるために,中枢神経系における運動学習のレベルを外部座標レベルと身体座標レベルに分けて,視覚環境を変換した条件下での到達運動の学習がどちらのレベルで成立するかを調べた.具体的には学習効果の両手間転移現象を計算論的な枠組みのなかで位置付け,学習レベルを調べる際に有効な手段として用いた.第2章では,従来の視覚運動学習研究で用いられてきた外部座標の線形変換を用い,第3章では,身体座標の線形変換を用いた.その結果,視覚運動学習のレベルはこの2つの変換で異なっていた.すなわち,外部座標において線形で身体座標において非線形な変換を学習した場合には,外部座標レベルで学習が起きていたが,外部座標において非線形で身体座標において線形な変換を学習した場合には,身体座標レベルで学習が起きていた.以上の結果は,視覚運動学習のレベルは外部座標だけ,または身体座標だけではなく,課題の種類によって,どちらのレベルでも学習は成立しうることを示唆している.

 第4章では,2)の問い(内部表現の方法に関する問い)に答えるために,視覚環境を変換した条件下での到達運動の学習の汎化の様子を調べた.視覚運動課題を行うために必要な変換を表現する方法は,計算論的には2つの代表的な方法が提案されている.ひとつの方法は,構造モデル(structured representation)と呼ばれ,外界の物理構造を反映したモデルである.もうひとつの代表的な方法は,表モデル(tabular representation)と呼ばれ,入出力関係の表を構成する方法である.前者の方法は,特定の入出力関係を学習した時でも,広い範囲で一様な学習の汎化が見られるが,後者の方法は入出力関係を局所的に連合させて行くので,狭い範囲でしか汎化は見られない.視覚環境を変換した条件下で,特定の方向の到達運動を繰り返し訓練した後,学習の汎化の様子を調べた.その結果,1)訓練した方向以外の広い範囲で学習の汎化が見られたが,2)その汎化は一様なものではなかった.1)の結果は,表モデルを否定し,2)の結果は構造モデルを否定した.従って,中枢神経系は外界の物理構造を陽(explicit)に表現したり,入出力関係を局所的に連合させたりして,視覚運動学習に対応する内部表現を構成しているのではないということがわかった.これまで提案された計算論的なモデルのなかで,このように構造モデルにも表モデルにも属さない,中間的な表現の代表的な例は多層パーセプトロンである.実際,3層のパーセプトロンを用いて行動実験の結果が再現できるかどうかを計算機シミュレーションにより検討したところ,上記1),2)の点において行動実験の結果を再現できた.

 第5章では全体考察として,第2章から第4章までの知見を総括し,脳における変換のいくつかの基本原理を提案した.すなわち,本論文の実験結果から,次の二点が推測できる.1)生体は複数の座標表現を持ち,課題に応じて異なる座標表現(レベル)で学習すること,2)外界の物理構造を陽に表現したり,入力と出力を局所的に連合したりして変換を表現するのではなく,多くの単純な情報要素を相互に結合させて変換を表現する.

審査要旨

 論文「視覚運動学習を可能にする中枢神経機構への計算論的アプローチ〜人間の到達運動から推定する座標系と表現〜」は、計算論的枠組みに基づき、視覚運動課題を行動学的方法として、いくつかの計算論的仮説を検証している。具体的には、感覚運動学習を可能にする内部表現がどの機能的レベルに存在し、どのような方法で表現されているかという問題の解明を目指している。この目的のために、視覚運動学習の「転移」および「汎化」という心理学では古くから取り扱われているパラダイムを、最新の計算理論の枠組みと結び付け、そこから導き出される理論的な予測を行動実験によって検証するという学際的方法を用いている。

 前半では、まず計算論的な枠組みに基づく行動実験によって、運動制御機構の「機能的なレベル」と「表現方法」が推定できると考える根拠が示される。そして運動学習のレベルを外部座標レベルと身体座標レベルに分け、視覚環境を変換した条件下での腕到達運動の学習がどちらのレベルで成立するかを、学習効果の両手間転移現象を用いて調べている。心理学の古典的現象に、計算論的な観点から新しい意味を与えた点が注目される。さらに、従来の視覚運動学習研究で用いられてきた外部座標の線形変換だけではなく、身体座標の線形変換を用いて、この両者の比較から、変換の種類に応じて学習のレベルも異なり得ることを示した部分は、真に独創的な部分として高く評価できる。

 論文の後半では内部表現に関する問いに答えるため、視覚環境を変換した条件下での到達運動の学習を行い、その汎化の様子を調べている。これは現在の計算理論で未解決の論争に、実証的立場から結論を出そうとする野心的な試みで、その結果は従来提案されてきたふたつの代表的なモデル、すなわち構造モデルと表モデルのどちらとも十分には一致せず、むしろ多層パーセプトロンのような中間的な表現ともっともよく一致することが明らかにされた。さらに三層パーセプトロンによるシミュレーションによって、これを支持する結果を得ている。この部分は、この分野における計算理論の今後の方向に影響を与える重要な成果と考えられる。

 データの集積が十分とはいえない部分がある点、日常場面やスポーツの場面での実際的運動と比較して実験事態と理論モデルが単純すぎる点など、いくつかの欠点を指摘することはできるか、上記に述べたように、実験心理学と計算理論に対するその貢献度は大きい。そこで本委員会は、本論文が博士(心理学)論文として、学位に十分値するものと判断する。

UTokyo Repositoryリンク