(要約) 本論で試みられることは、「自由の社会理論」を展開することである。したがって、議論の焦点は、「自由」の概念にあてられている。しかし、本論で意味されている「自由の社会理論」は、「自由に関する社会理論」ではない。したがって、本論では、自由について何か包括的な議論をおこうなうわけではない。本論は、いわば、「自由の概念を基礎にして展開される社会理論」なのである。
では、なぜ主題としてあえて[自由」が選択されなければならないのだろうか。その理由は、論者が自由と社会の関係が我々の生を規定するもっとも基本的な関係として捉えているからだ。そして、自由と社会か密接に結びついた概念であるからこそ、自由を社会と無関係に論じることができないし、またその逆もできない。つまり、本論は、自由を語ることによって社会を語ろうとし、社会を理解することで「自由である」ことの意味を理解しようとする。
本論は、このような自由と社会の本源的な関係を明らかにするために、1章から4章において社会理論上の重要な問題を批判的に検討し、「自由の社会理論」が説明しなければならない課題として4つを定式化した。第1は、直接に「自由と社会はどのように関係しているのか」として定式化した。第2に、「社会秩序はどのようにして成立しているのか」として定式化した。第3に、「権力はどのように存在しているのか」として定式化した。第4に、「ルールがなぜ通用しているのか」として定式化した。社会秩序の問題も、権力の問題も、ルールの問題も、これまでは別々の問題として扱われてきた。しかし、これらの問題は、共通に行為者が「自由である」ことの否定を含意すると考えられてきている。言い換えれば、これらの問題は、確かに質の異なる問題であるけれども、同時に共通に自由にかかわる問題でもある。したがって、もしこれらの課題に「自由の社会理論」が論理的な一貫性を崩すことなく答えることができるなら、社会を捉えるための統一化された理解枠組みを提示したことになる。
本論は、「自由の社会理論」を実際に展開する前段階として、5章と6章においてカントの道徳哲学とマルクスの社会哲学とを検討した。しかし、なぜカントとマルクスの哲学を本論で検討しなければならないのだろうか。
これまで、自由論は哲学的には常に決定論の挑戦を受けてきた。そして、この決定論は、論理的に反駁することの困難な議論なのである。また、この決定論的な思考は、社会理論においても長らく大きな影響力を行使してきた。例えば、構造機能主義、社会システム論、構造主義などはいずれも社会決定論に近い立場が立っている。こうした事実を考えるならば、「自由の社会理論」が決定論の懐疑に対してどのように答えていくかを明らかにすることは不可欠であろう。本論では、本論で問題にされる「自由」が決定論の挑戦を克服していくための手がかりをカント及びマルクスの理説を追尾することで確保しようとしている。カントとマルクスは、自由論と決定論との関係を真摯に考察した偉大な哲学者たちの代表なのである。
カントは、批判哲学を展開する途上において、自由を自然法則(あるいは道徳法則)と相関的に論じた。カントの議論にしたがえば、自由が何であるのかを照らし出すものは、(自由と対極におかれると考えられてきた)法則なのである。また、マルクスは、資本主義の成立を問題にする最中において、「社会がある」ことと行為者が「自由である」こととが相互に規定しあっていることを議論した。マルクスにとって、「自由」は社会に産み出されるものであると同時に社会を産み出すものなのである。このように、カントにしてもマルクスにしても自由を行為者の能力として実体視することをやめている。むしろ、自由の概念を他の概念との相互関係で現出する関係的な概念として取り扱っている。そして、自由の概念を関係論的な視点から扱うことにより、決定論による深刻な挑戦に対しても適切に応じている。したがって、「自由の社会理論」は、自由の概念を扱うこの基本的な姿勢をカントやマルクスから受け継ぐ必云があるだろう。
自由の概念を関係論的な視点から展開する必要性を確認した上で、7章からは実際に「自由の社会理論」を展開することが試みられる。したがって、7章以降が本論の核となる。
まず、7章では決定論の懐疑を回避するために、自由の概念が他者との関係によって定められることを明らかにした。(ただし、この場合の他者は、哲学で問題にされる<私>の存在を超越するような他者ではなく、我々が日常において接しているような「私」と相互的に存在する他者である。)その上で、この他者との関係によって明らかにされる自由の概念が、必然的に「社会がある」という事実と結びつかざるを得ないことを示した。すなわち、行為者が「自由である」ことと「社会がある」こととは、他者という共通の前提に導かれる等根源的な事態なのである。それ故、自由の概念は、他の社会学的概念と区別されて、社会理論の基礎に据えられる必要がある。
8章と9章では、「自由である」ような行為者間の関係からいかにして社会秩序が導出されるのかを問題にした。この2つの章で特に問題にされたことは、「社会秩序は行為者の自由を制約することで成立する」という常識的な見解の妥当性である。そして、議論によって明らかにされたことは、社会秩序は行為者の自由を制約することで導出され維持されるのではなく、逆に行為者が「自由である」からこそ導出され維持されるという事実である。したがって、社会秩序の生成・維持に関する常識的な見解は妥当なものとはいえない。
だが、なぜ「自由である」行為者間の関係が社会秩序を生成し維持するのであろうか。分析それ自体は本論に譲り、ここでは結論だけを述べよう。その理由は、「自由である」行為者は自身が他者と相互的に生きる存在であることを意識できる可能性を有した存在だからである。しかも、他者と相互的に生きる存在であることを前提にすることは、行為者が「自由である」ためのもっとも基本的な条件であった。
10章と11章では、「自由である」行為者間の社会関係において権力がどのようにして現れるかを検討した。また、12章では、「自由である」行為者間の社会関係においてルールがどのように用いられているかを検討した。これらの章で特に問題にされたことは、「権力やルールは行為者の自由を制約することで成立する」という常識的な見解である。そして、ここでも、権力やルールが成立するのは行為者が「自由である」ことが否定されるからではなく、逆に行為者が「自由である」からこそそれらが成立することが明らかにされた。したがって、社会秩序に関する常識的な見解がそうであったように、権力やルールに関する常識的な見解はいずれも妥当なものとはいえない。
ここで前段の主張の根拠を簡単に示すことはできない。したがって、詳細な分析は本論に委ねるしかないだろう。ここでは、前段の主張に関係させて次のことを述べておこう。
権力にしてもルールにしても問題にされることは、他者との関係である。互いに「自由である」ような他者との相互行為では、「私」は他者という媒介を経由して自身を「自由でない」存在として反省的に規定する可能性が潜在してしまう。これに対して、動植物や赤ん坊は自身を「自由でない」と意識することはないはずだ。なぜなら、彼らはそもそも「自由でない」からである。
7章から12章の作業は、「自由の社会理論」が説明しなければならない4つの課題に対応して展開された。そして、結論では、作業全体の意義を検討し、真に<自由である>ためのおおよそ道筋が示された。
現存の社会関係を否定する意志としての<自由>(すなわち、解放を志向する自由)とは、「自由である」行為者によって築かれた社会関係を「自由である」行為者の意志によって乗り超えようとする<自由>である。そして、この乗り超えを行うためには、行為者が「私は他者と共に生きることで「自由である」ような存在なのだ」ということを自覚する必要がある。この自覚によって、「自由でない」と記述される社会関係の乗り超えが(支配者としての)他者の存在を抹消することではなく、そのような他者を受け入れるための新しい関係の構築なのだと理解されるからだ。行為者は他者と関係せずには生きていけない。ただ、他者との望ましい関係と望ましくない関係とがあり、そして望ましい関係の構築を目指すことが解放を志向することなのである。