世紀転換期のヨーロッパの芸術においては、特にウィーン・モデルネの芸術家たちの作品に即して、知覚、認識上の態度転換が顕著に認められる。 創作上の大なる画期点は、ホフマンスタールのチャンドス書簡に見出すことができる。作品の形姿チャンドス卿によって体験される詩人的営為の不可能性、日常の生活における虚無は、作者の志向においては、集中的な言語批判、認識批判的契機である。認識における言葉の介在が徹底して見極められるところに、根源的な生の瞬間が開示される。 モデルネにおいて、創作態度への自覚を深めた芸術家のもとでは、事物を実体化する主体ではなく、形象へと変容する主体が作動していると思われる。 モデルネの芸術家たちは、形象の主題性よりも、形象への変容にともなう生命感にアクセントを置くことに由来して、瞬間の生に与しているといえる。しかし、かれらは、そこに人為的制度の持続とは別の秩序を見出すことを志向する。ホフマンスタールにおいては、<身体的>な秩序に照応した、高次の秩序を意識の明晰な表面へともたらすことが、創作の課題となる。そこにおいては、主体が端的に壊乱されるのではなく、或る連続性の契機が確保されなければならない。 このような問題意識から生み出される作品は、ウィーンという地域的限定を超えて、或る意味での普遍性の領域に達している。文化的不偏妥当性は、言語批判的視座から相対化される。ここで考察の主眼とするのは、ウィーン・モデルネにおける根源的な意識の相での、普遍性への志向である。それに付随して、その精神風土に特徴的な成分も現れるであろう。また、周縁域との活発な交流に根差して、普遍性への問いかけが生じるということも、ウィーン・モデルネの特質である以上、隣接するモデルネにも言及する必要がある。 『ナクソス島のアリアドネ』においてホフマンスタールは、モリエールの『町人貴族』を改作して、前舞台とする。その序幕においては、モリエール劇の静態的な階層秩序の基準線を離脱して、性格喜劇の混乱と緊張の度合いが高められている。そのことは、劇中劇として演じられるアリアドネの神話的悲劇との対照をなす以上に、近代的な個我としての<性格>と、象徴的、理念的な形姿とを、作品に接する者の意識上で交流させることを可能にする。神話的形姿であるアリアドネもバッコスも、個としての存在に照応するような心理の襞を浮かび上がらせる。 即興喜劇の芸人として劇中劇に参加するツェルビネッタも、単に悲劇の形姿と対立するのではなく、神話的世界の意味を、彼女の世俗的地平へと移調させる存在として現れる。また、意識における<全体>と<部分>との観点でとらえるとき、感覚的なものを自らの全体とするツェルビネッタは、むしろ、自然の神話的な形姿となる。逆にアリアドネは、理知的意識への固執という点では、個我の次元へと降下しているといえる。 ホフマンスタールは、バッコスを、自らも変容し、他者をも変容させる形姿として位置付けている。そのことによって、アリアドネの<心理>をより高次な意識へと超えさせる。しかし、そこでも、措定された彼岸へと連れ去るのではない。この劇中劇のオペラの作曲者として設定された青年の当初の企図とは裏腹に、アリアドネの変容は、今、ここで成就することになるからである。 アリアドネの象徴的な死、ツェルビネッタのふたつの場面での沈黙は、主体が端的に解消したのではなく、新たな生が告知される様態を示している。 ムージルの喜劇では、根源的な生はヴィンツェンツの思い出の中に保たれている。彼は、現時点では、それに対してイローニッシュな態度で臨んでいるが、虚構を構成する彼の想像力は、「非地上的なもの」の経験に淵源するようである。<現実感覚>的人物たちにおける確固たる現実を、ヴィンツェンツは可動的な映像の相のもとに見る。彼の<可能性感覚>が虚実を目まぐるしく転換させ、周囲の人物たちを翻弄する。 この劇においてムージルは、喜劇的平面を確保するために、また、おそらくは、無限定に想定されがちなユートピア的なものへの批判的契機を保持するために、<別の状態>に親和性をもつアルファを、ヴィンツェンツの仕組む虚構の現実によって日々の生活空間の中へと逸らしている。 ムージルは、『夢想家たち』では、<可能性感覚>的人物を日常の情事を超えた平面でかかわらせる。折々の感情の揺らぎを見せながらも、<可能性感覚>の所有者たちは、自他の現実観一般を主題化して語る。彼らの心理を動機づけているそれぞれの心的態度に着目するとき、人物間に或る程度安定した位置価が見出せる。さらには、それぞれに経験された陶酔状態、或いはそれへの予感に準拠するならば、<可能性感覚>の性状が、溶解した媒質的状態からの距離、結晶化の度合いによって、より基礎的に位置付けられる。 生活の現実が破局を迎えるとともに、トーマスは、より透明になった媒質の感触の中に立つ。 「創造の状態」を自覚するその形姿は、ムージルの内部空間へと導かれたのであろう。作品の形姿の自覚の在り方は、創作態度を主題化するモデルネの芸術家の作品にあっては、作者の<想像>の空間への認識上の距離として問題にすることができよう。 その視点のもとに、更に、ピランデッロとヘルツマノフスキーの作品が考察される。 |