学位論文要旨



No 110874
著者(漢字) 伊東,正夫
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,マサオ
標題(和) ウィーン・モデルネにおける主体と形象の変容
標題(洋)
報告番号 110874
報告番号 甲10874
学位授与日 1995.03.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人文第105号
研究科 人文科学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 池内,紀
 東京大学 教授 柴田,翔
 東京大学 教授 浅井,健二郎
 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 助教授 中地,義和
内容要旨

 世紀転換期のヨーロッパの芸術においては、特にウィーン・モデルネの芸術家たちの作品に即して、知覚、認識上の態度転換が顕著に認められる。

 創作上の大なる画期点は、ホフマンスタールのチャンドス書簡に見出すことができる。作品の形姿チャンドス卿によって体験される詩人的営為の不可能性、日常の生活における虚無は、作者の志向においては、集中的な言語批判、認識批判的契機である。認識における言葉の介在が徹底して見極められるところに、根源的な生の瞬間が開示される。

 モデルネにおいて、創作態度への自覚を深めた芸術家のもとでは、事物を実体化する主体ではなく、形象へと変容する主体が作動していると思われる。

 モデルネの芸術家たちは、形象の主題性よりも、形象への変容にともなう生命感にアクセントを置くことに由来して、瞬間の生に与しているといえる。しかし、かれらは、そこに人為的制度の持続とは別の秩序を見出すことを志向する。ホフマンスタールにおいては、<身体的>な秩序に照応した、高次の秩序を意識の明晰な表面へともたらすことが、創作の課題となる。そこにおいては、主体が端的に壊乱されるのではなく、或る連続性の契機が確保されなければならない。

 このような問題意識から生み出される作品は、ウィーンという地域的限定を超えて、或る意味での普遍性の領域に達している。文化的不偏妥当性は、言語批判的視座から相対化される。ここで考察の主眼とするのは、ウィーン・モデルネにおける根源的な意識の相での、普遍性への志向である。それに付随して、その精神風土に特徴的な成分も現れるであろう。また、周縁域との活発な交流に根差して、普遍性への問いかけが生じるということも、ウィーン・モデルネの特質である以上、隣接するモデルネにも言及する必要がある。

 『ナクソス島のアリアドネ』においてホフマンスタールは、モリエールの『町人貴族』を改作して、前舞台とする。その序幕においては、モリエール劇の静態的な階層秩序の基準線を離脱して、性格喜劇の混乱と緊張の度合いが高められている。そのことは、劇中劇として演じられるアリアドネの神話的悲劇との対照をなす以上に、近代的な個我としての<性格>と、象徴的、理念的な形姿とを、作品に接する者の意識上で交流させることを可能にする。神話的形姿であるアリアドネもバッコスも、個としての存在に照応するような心理の襞を浮かび上がらせる。

 即興喜劇の芸人として劇中劇に参加するツェルビネッタも、単に悲劇の形姿と対立するのではなく、神話的世界の意味を、彼女の世俗的地平へと移調させる存在として現れる。また、意識における<全体>と<部分>との観点でとらえるとき、感覚的なものを自らの全体とするツェルビネッタは、むしろ、自然の神話的な形姿となる。逆にアリアドネは、理知的意識への固執という点では、個我の次元へと降下しているといえる。

 ホフマンスタールは、バッコスを、自らも変容し、他者をも変容させる形姿として位置付けている。そのことによって、アリアドネの<心理>をより高次な意識へと超えさせる。しかし、そこでも、措定された彼岸へと連れ去るのではない。この劇中劇のオペラの作曲者として設定された青年の当初の企図とは裏腹に、アリアドネの変容は、今、ここで成就することになるからである。

 アリアドネの象徴的な死、ツェルビネッタのふたつの場面での沈黙は、主体が端的に解消したのではなく、新たな生が告知される様態を示している。

 ムージルの喜劇では、根源的な生はヴィンツェンツの思い出の中に保たれている。彼は、現時点では、それに対してイローニッシュな態度で臨んでいるが、虚構を構成する彼の想像力は、「非地上的なもの」の経験に淵源するようである。<現実感覚>的人物たちにおける確固たる現実を、ヴィンツェンツは可動的な映像の相のもとに見る。彼の<可能性感覚>が虚実を目まぐるしく転換させ、周囲の人物たちを翻弄する。

 この劇においてムージルは、喜劇的平面を確保するために、また、おそらくは、無限定に想定されがちなユートピア的なものへの批判的契機を保持するために、<別の状態>に親和性をもつアルファを、ヴィンツェンツの仕組む虚構の現実によって日々の生活空間の中へと逸らしている。

 ムージルは、『夢想家たち』では、<可能性感覚>的人物を日常の情事を超えた平面でかかわらせる。折々の感情の揺らぎを見せながらも、<可能性感覚>の所有者たちは、自他の現実観一般を主題化して語る。彼らの心理を動機づけているそれぞれの心的態度に着目するとき、人物間に或る程度安定した位置価が見出せる。さらには、それぞれに経験された陶酔状態、或いはそれへの予感に準拠するならば、<可能性感覚>の性状が、溶解した媒質的状態からの距離、結晶化の度合いによって、より基礎的に位置付けられる。

 生活の現実が破局を迎えるとともに、トーマスは、より透明になった媒質の感触の中に立つ。

 「創造の状態」を自覚するその形姿は、ムージルの内部空間へと導かれたのであろう。作品の形姿の自覚の在り方は、創作態度を主題化するモデルネの芸術家の作品にあっては、作者の<想像>の空間への認識上の距離として問題にすることができよう。

 その視点のもとに、更に、ピランデッロとヘルツマノフスキーの作品が考察される。

審査要旨

 ヨーロッパ近代の大きな曲がり角であった前世紀転換期において、芸術家の内面の視野にも多くの新しいものが現れてくる。特にウィーンの芸術家たちにとって、それは、見る対象の新しさというよりも、むしろ見え方の新しさであり、見方の新しさだったといえる。本論文は、このウィーン・モデルネ(Die Wiener Moderne)が生み出した諸作品、およびこれと親縁関係のある作品の分析をとおして、前世紀転換期のヨーロッパにおいて新たな芸術的結晶化を可能にした、知覚上、認識上の自覚的な態度転換の諸相を描き出すとともに、この時代の芸術表現と現実認識との屈折した関係を解明しようとするものである。

 論文の全体は、論者の問題意識を立論する序論、4つの章と1つの余論から成る。各章おいては、ホフマンスタールの『ナクソス島のアリアドネ』(第一章)、ムージルの『ヴィンツェンツとお偉方連の女友達』および『夢想家たち』(第二、第三章)、ピランデッロの『作家を探す六人の登場人物』、ヘルツマノフスキーの『逐電するカヴァリエーレ』ほか(第四章)が、作品論のかたちで厳密に論じられる。また余論は、アルバン・ベルクの音楽作品を生き生きと論じつつ、あわせてアドルノの『ベルク論』に窺える立場に対して鋭い批判を展開している。

 研究史上の位置づけや構成などの点で手続上の問題がないわけではない。しかし、本論文は、詳細な作品論をとおして、モデルネの芸術作品の繊細な表現の襞に分け入り、それぞれの作品の個別的特質を精密に読み分けながら、しかも同時に、それらの芸術家たちにおいては、もはや事象を実体化する固定した主体ではなく、事象を変容させつつみずからも形象へと変容する主体が作動している、その様相を明るみに出すことに見事に成功している。

 以上により、当審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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