本論は15世紀後半プスコフ地方で成立した一写本文集に採用されたテキスト『聖グリゴーリイ講話』プスコフ・ヴァリアントを中心に、四つの異なる視点から展開された学術的論考の試みである。テキストを主題とすれば各部において行なわれる論考は主題の変奏と展開に当たる性格を持つ。各々の部あるいは個々の記述は、『聖グリゴーリイ講話』プスコフ・ヴァリアントというテキストがもつ様々な側面と何らかの結び付きを持っており、一見連関性が希薄と見える箇所も、テキスト自体の性格あるいはそれと向き合う学問の諸領域を介して互いの結び付きを確保していることをまずは付記しておきたい。 本論において主題にあたるテキスト『聖グリゴーリイ講話』プスコフ・ヴァリアントに関して集中的な記述が行なわれるのは第2部である。 『聖グリゴーリイ講話』プスコフ・ヴァリアントは現在5つの写本においてそのテキストの存在が確認されている。私達の行なった最初の研究作業は5つの写本(1)バイーシイ文集(14c)2)ノヴゴロド・ソフィア写本(15c)3)キリル・ペロゼルスキー写本(16c)4)チュードフ写本(15c)5)文集『ズラタヤ・マチッツァ』(15c)写本に存在する個々のテキスト間の異同を調べ、タイポロジー的な分析を行なうことであった。その結果、次のようなことが分かった。 5つのテキストのうち内容的な著しい接近を見せるのは4)・5)のみであり、この二つのほとんど内容的な偏差のないテキストがプスコフ・ヴァリアントである。残りのテキストは何らかの内容的な異同を含んでいる。テキスト4)と5)に見られるテキストの偏差は写字生の書き癖に由来する。 一方、残りのテキスト群と内容的に明らかな相違をもつテキストが1)てある。その最たる点は、他のテキストが多かれ少なかれ異教起源のロシアの民衆儀礼を糾弾する挿入箇所をもっていたのに対し、このテキストだけがそれを持っていない。ほかにも、言語約特徴が指し示す写本の成立年代から、この写本に収容されたテキストが年代的に最も古く、ギリシア語原典に近いことが明らかである。 しかしながら、このバイーシイ写本のテキストでさえギリシア語原典に含まれぬ文言を多く含むのである。その典型的な例は異教としてイスラムの風習を糾弾する内容の文言である。4世紀のキリスト教教父聖グリゴーリイがイスラム教について知っていたはずはないからである。しかし、このバイーシイ・ヴァリアントにもギリシア語原典と比較すればほかにも多くの挿入箇所が認められ、一方、アニチコフが11世紀の羊皮紙写本の中にすでに古代ブルガリア語訳の聖グリゴーリ講話を見いだしていることから、南スラヴ語の翻訳あるいは注釈がロシア・ヴァリアント成立に関与したことは間連いがないと結論づけることが出来る。そして、テキスト2)末尾に見られる文言からこの南スラヴ系テキストからの翻訳・筆写・創作の諸作業がアトス山への巡礼途上で行なわれたことが分かる。 さらにガリコフスキーは、プスコフ起源の別のテキスト『聖金ロイオアン講話』がテキスト2)・4)・5)の成立に果たした大きな役割を指摘している。ロシア固有の民衆的な風習についての多くの記述はこのテキストから引用されている。さらに、このテキストを収容した写本ノヴゴロド・ソフィアl262番の来歴を記したカリンスキーの考察から『聖グリゴーリイ講話』プスコフ・ヴァリアントの成立年代が15世紀前半と同定された。 このようにギリシア起源のテキストは南スラヴを経由して北東ルーシに達し、ここで異教起源の民衆的な風習の挙げつらいとそれに対する厳しい論難が挿入された。このテキスト『聖グリゴーリイ講話』プスコフ・ヴァリアントはどのような歴史的背景を背負って形成されるに至ったのかという問題を北東ルーシあるいはロシアの政治的・教会史的な側面から検討したのが第3部である。 14世紀の北東ルーシの政治史を特徴づけるのはモスクワとトヴェーリの抗争てある。この抗争の結果、トヴェーリはの没落史、モスクワは着実に・実力を伸ばした。このモスクワの伸張という現象を私達はさらに具体的に、ラドネジのセルゲイら集住式修道院の設立に伴う辺地の開拓と、さらにこれと平行して、しかし、ほぼ独立して行なわれたモスクワ府主教独自の努力による開拓運動に求め、これらロシア正教会が主宰した開拓運動がモスクワ公国の潜在的な支配領域の拡大に大きな役割を果たしたことを指摘した。 また、こうした正教会主導の辺地の開拓事業は住民の実質的なキリスト教化をもたらした。『聖グリゴーリイ講話』プスコフ・ヴァリアントの成立もこうした流れの中に位置づけることができる。修道院が辺地にむかうにつれて、キリスト教修道士たちは異教的風習を色濃く残す民衆とはじめて遭遇したのであり、彼らの生活を実見し、異教起源の根深さの理由を考察の対象に取り込んだのである。キリスト教修道士たちのこの活動は異教糾弾を旨とする説教という伝統的なジャンルに拠って展開された。『聖グリゴーリイ講話』プスコフ・ヴァリアントも上記のジャンル意識に則って創作された。従って、ここで私達は表向きの非難という執筆者の立場に引きづられることなく、むしろ文学史的な知識に鑑みながら、執筆者が異教的な風習を見つめる冷静な姿の本質的な新しさに注目しなくてはならないのである。こうした着眼に必要な中世文字に固有の文字的な環境に対する概観は第4部で行なった。 神話間の競合の中で最終的にキリスト教が残っていった理由として本論で特に着眼した(第1部)のは神話の体系性の堅固さであった。キリスト教は一神教でありなから要素としてならば他の宗教起源の諸要素を排除することなく逆にそれを自らの体系に組み込む間口の広さを持ち、それがキリスト教という宗教の独自の強みになっていた。復活というイメージにより伝統社会のもつ循環論的な感覚を取り入れたこともそのひとつの現われである。キリスト教会のこうした努力の結果、キリスト教は多くの人々の支持を得るに至ったと考えた。以上のような吸引のプロセスによりパレスチナでうまれた宗教はヨーロッパ固有のものとして再生したのである。 |