本論文の目的は、日本の工業化の時期における機械工業の展開過程を明らかにすることにある。 行論において力点を置く点は、第1に、従来の研究のような画期的な機械の製造事例や現在規模の大きい企業の発展過程としてではなく、同時代の諸産業の求めに応じて展開した機械類の製造・修理体制の全体像として機械工業を把握することである。第2に、特に中小工場の担い手として特に重要な熟練工の由来とその移動習慣の意味、さらに変容をとらえることである。第3に、機械工業が技術的、経営的に発展して行く過程と原動力である。第一次大戦までに、日本機械工業は多くの機械類の輸入代替を開始し、一部は互換性生産を行なうという、同じ時期に欧米の機械体系に触れた多くの国や地域のなかで異例な展開を示す。これに至る機械工業の発展の原動力を明らかにしなくてはならない。 具体的な対象は次の通りである。幕末から企業勃興期までの機械工業の初発段階を扱う第一編では、幕末の軍事工業の小銃製造部門での熟練工形成、造船業における外国人経営の役割、工部省が需要と供給の双方を担う相互補完的市場構造。明治初年から日清戦後期までの機械類の供給・修理体制を扱う第二編では、移植産業関連部門の生産展開、筑豊とその周辺で地元の炭砿の需要に応えて展開した機械工業、そして、在来の金属器具製造業者を中心に開発、生産され発展していった器械製糸用汽罐。日露戦後の機械工業の展開を追う第三編では、中小工場や農業・漁業への動力導入の手段として急速に普及した内燃機関、大正初期に、体質を改善し、一定の分業体制をとって、保護が薄く、国際競争が激しかった貨物船建造に進出した造船業、需要の高度化と電気機械と鋼の導入とにより機械類の供給体制が大きく変わった炭砿用機械、さらに需要者の要請に応え、在来技術との折衷で需要地近傍での開発生産が進む一方、豊田式織機株式会社の互換性生産により、移植産業で用いられていた鉄製広幅力織機の輸入代替が開始された力織機製造業である。 この間の日本機械工業の展開の特色を先の三つの留意点にそってまとめよう。第1の機械工業の全体像は、頂点に軍事工場を初めとする官営工場、払い下げられた旧官営工場を、底辺に多数の在来金属器具、木製器械製造業者を置く厚みのある構造であり、この間に さまざまな程度に洋式技術を導入した多数の中小機械工場を擁していた。そして、綿紡績、大型汽船海運、鉄道、洋式製紙などの移植産業を除く多くの産業で用いられた機械類はこれらの中小工場で国内生産された。 第2の熟練工の問題では、幕末の軍事工業による技能と移動習慣等の形成が機械工業展開の起点となった。そして彼らの移動の範囲は機械工業の頂点から底辺部まで幅広く、中小工場の技術とその向上は、彼らの身についた技能と、移動によるその交流に依存していた。日露戦争時の軍需生産による熟練工の量的増加と技能の向上は、戦後の機械工業の製品の多様化、生産活発化、そして地方展開の原動力となった。一方、日露戦後の技術者の主導による新設工場では新たな生産方式の導入のため、職工の移動を抑制し、また未熟練者の社内での養成に力を入れる傾向が見られた。 第3の機械工業の発展の論理では、初発の段階ではナショナリズムが官業の展開をもたらした。企業勃興期以降、移植産業関連部門は技術者の主導のもと、常に最新鋭の機械の情報を入手し、その修理を行いつつ国産化を志向した。移植産業を維持するためにこのような活動が必要であり、需要者がこれを直接経営し、あるいは支援した。またその国産化は輸入代替に直結して国際収支の好転に貢献したため、特に軍事的要請がありまた国産化の展望があった交通関係の分野で国家的な保護を得た。 一方、容易に国産可能な機械を生産していた類型の技術的発展をうながしたのは、需要者の援助と機械工場間の競争である。需要者は、機械工業の展開如何が産業発展の動向を左右したから、業者を援助した。一方、多数の中小業者と熟練工が存在したため、経済的条件に適合した機械はただちに模倣、改良された。そこで、条件が比較的恵まれた業者はより大型の、あるいは質の高い製品の製造を志向した。 注文生産の大型機械の輸入代替は前者の類型によってなしとげられたが、一定の市場を見込まずには着手できない、互換性生産方式による機械の輸入代替は後者の類型の発展によって可能となった。このような機械工業の展開過程は基本的には、1820年代に至るイギリス産業革命期の機械工業のそれと類似している。 |