この論文は、縄紋時代中期後半の一つの土器型式・曽利式を取り上げて、東西の隣接土器型式である加曽利E式、唐草紋系土器との関連性の脈絡の中で、その土器型式としての歴史全体を見通したものである。 曽利式(曽利I式〜V式)は、1965年の『井戸尻』(藤森栄一編)にて型式設定の経緯ならびに内容が詳しく述べられた。標式遺跡は八ヶ岳西南麓、長野県富士見町曽利遺跡である。井戸尻編年の曽利式の枠組は、現在までよく踏襲されているが、もともと一小地域に根差した編年であったため、別型式との関係という広域的視点が欠如している。また、井戸尻編年の方法論を受け継いだ住居址一括資料優先主義は、現在でも曽利式に関する型式学的な吟味をおろそかにさせている。私は、型式学的に厳密な議論を行った上で、加曽利E式、唐草紋系土器との関係という枠組の中で,曽利式編年の再構成を行なう必要があることを述べた。私が考察の出発点としたのは、曽利式分布の中心と目される山梨県甲府盆地にて調査された釈迦堂遺跡群の資料である。実際にそれらを観察・分析する過程で、従来の研究に欠けていた幾つかの新たな視点と方法を得て、曽利式編年を再考する端緒とした。 私の編年体系は、曽利式を曽利古式と曽利新式に大きく分け、前者を曽利古1式〜古3式、後者を曽利新1式〜新3式に細分するものである。私は、曽利式の成立以来の伝統を担っている土器群として,主紋様としての懸垂紋と地紋としての縦の条線を胴部に備えた土器群を「中核的な」曽利式土器として重視し、その伝統が変容しながら伝えられたのが曽利古式と考えた。一方、加曽利E式と同じI.口頚部紋様帯+II.体部紋様帯という重畳を備えた土器群の確立を画期として、曽利新式を設定したのである。 曽利式の編年を体系づけた上で、西の唐草紋系土器、東の加曽利E式(E1〜E4式)との編年対比を軸に、それらとの関連が具体的にどのようなものであったかを検討した。その結果、加曽利E式との関係が、曽利式の型式変化の本質に関わるような重要な部分に及んだのに対し、西の唐草紋系土器と曽利式との関係は、それに比べれば余程表面的なものであることが明らかになった。 曽利式は、常に東の加曽利E式の要素を型式内部に取り入れることによって、曽利式の独自性を薄める方向に型式変化が起こっていた。型式成立時には全く相容れない構造を持っていた曽利式と加曽利E式であるが、既に曽利古2式で加曽利E式との折衷が試みられ、曽利古3式では曽利縄紋系土器群として定着した。曽利古3式-加曽利E2式、曽利新1式-加曽利E2-3式期には、両土器型式は最も特徴的な交渉を示し、曽利式の斜行沈線紋土器、曽利縄紋系土器、連弧紋土器、加曽利E式、そしてそれらの要素を組み合わせて出現している「胴部分帯型土器」など、曽利式と加曽利E式の間で様々な類型の土器が出現し、それらがまた互いに影響を及ぼしあうという、複雑な状況が看取される。このような土器型式の再編成の動きの一環として、曽利新1式の成立を理解するべきである。加曽利E式と同じ構造を持った曽利新式は、画一的な、変化の乏しいものとなっていく。そして中期最終末には、加曽利E4式より早く型式の終焉を迎えたようである。 曽利古3式の斜行沈線紋土器について、それが加曽利E式の中に様々な変異形を派生させながら受け入れられ、東関東の加曽利E3式の中に新たに「寒風類型」土器群を創出するに至ったプロセスを論じた。「寒風類型」が加曽利E3式の組成の一部として福島県の大木9式の分布圏へ進入した結果、曽利式系と認定される土器が遠隔地に分布することとなったのである。一方、東の加曽利E式には様々な方法で受け入れられていった斜行沈線紋土器であるが、西の唐草紋系土器の中には殆んど入らず、型式学的に変容を起こすこともなかった。 このように、時間と空間の両方面から、曽利式とその隣接型式との関連性を捉えて、その中で曽利式という土器型式を構造的に理解しようと試みているのである。その結果、曽利式土器の時間的変遷と、その形態や紋様装飾におけるヴァラエティの出現にかかわった要因として、曽利式自体の内的な展開にもまして、外的交渉が大きな役割を果たしたことが知られたのである。曽利式土器の歴史の本質とは、東の加曽利E式との関連性の中で際立ってくるものであり、究極的には、中期の文化的高揚が中期終末の急激な凋落へと向かう、その時代性の中で解釈されるべき問題であると考えている。 |