学位論文要旨



No 110879
著者(漢字) 黒川,知文
著者(英字)
著者(カナ) クロカワ,トモフミ
標題(和) ロシア社会とユダヤ教 : 19世紀ユダヤ教徒迫害を中心に
標題(洋)
報告番号 110879
報告番号 甲10879
学位授与日 1995.03.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人文第110号
研究科 人文科学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金井,新二
 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 教授 関根,清三
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 助教授 市川,裕
内容要旨

 19世紀のロシアは、帝政末期にあたり、財政危機が深刻化し、国内においては、民族主義運動と革命運動がしだいに進展する状況にあった。南ロシア(ウクライナ)においては、古き農業経済の中に西欧の資本が導入され始めていた。

 1881年、アレクサンドル2世が暗殺された後、「ユダヤ人が皇帝を殺したからユダヤ人を襲撃してもよいとする皇帝命令がおりた」という噂が、南ロシアに広がった。南ロシアには、ユダヤ人が都市を中心に居住しており、農村部にもシュテットルと呼ばれる共同体を形成していた。同年4月、復活祭の週にエリサヴェート市に端を発するユダヤ人に対する暴動(ボグロム)が、ほぼ南ロシア全域にわたって発生した。

 従来、1881年ボグロムは、政府もしくは政府に属する秘密組織が主導したとする政府主導説もしくは画策説が支配的であった。しかし、近年になって、この説と対立する自然発生説が唱え始められている。このような学界の動向を踏まえてポダロムの実態を分析し、その背景を検討し、その性格を考察したのが本論文である。

 著者は第1に、1881年ボグロムは、政府等の画策によるものではなく、自然発生的なものであったと結論する。この結論は、(1)ボグロムの発生日、発生地、加害者、被害状況、趨勢の統計的分析と具体的な個々のボグロムにおける発生直前の状況、発生状況、民衆の行動と指導者の有無、警察の対応などの分析、(2)具体的な個々のボグロムにおける発生直前の状況、発生状況、民衆の行動と警察の対応の分析、(3)画策説に立つ研究者の論点の再検討と研究者としてのあり方の分析の結果、(4)軍隊により組織的に計画されて生じた内戦期ボグロムとの比較分析、の結果を根拠としている。

 著者は第2に、1881年ボグロムは、宗教的側面を多分に有していたと結論する。このボグロムの宗教性は、従来の研究にはない新しい視点に基づくボグロムの理解である。この結論は、(1)ボグロム以前に広がっていた噂の内容が宗教的反ユダヤ感情の内容であり、それは内戦期ボグロムの際には見いだせず、自然発生的に生じたオデッサ・ボグロムの際の噂と類似していること、(2)噂の内容が皇帝崇拝の強いロシア正教徒の宗教的感情に訴えるものであること、(3)オデッサ・ボグロムと同じく1881年ボグロムは、復活祭の週に発生していること、(4)ボグロムの発端となった都市の地理的分析、(5)急進的セクトがボグロムに参加したこと,などを根拠としている。

 著者はまた、ボグロムの自然発生的性格と宗教的性格に至る背景についても考察する。すなわち、前者に関しては出稼ぎ労働者の実態、下層民の争い等の経済的利害状況を考察し、後者に関しては、伝統的反ユダヤ感情の背景を、ユダヤ教の宗教運動や、ロシア正教とユダヤ教との相違から考察する。特に伝統的反ユダヤ感情に関しては、ロシア文学作品にあらわれたユダヤ人像に着目し、「搾取者的ユダヤ人像」と「異人種的ユダヤ人像」とを挙げ、このうち後者がロシアと東欧だけに見られたものとするそして、このユダヤ人像の背景をユダヤ人の排他的共同体、言語と服装、さらにユダヤ教の宗教運動と教理にその原因をさぐる。

 1881年ボグロムは、単なる社会的現象としての民衆による暴動ではなくて、ロシア正教とユダヤ教という2つの歴史的民族的宗教遺産を有する民族の間における衝突であったという新たな像を著者はこの論文において提起する。

審査要旨

 黒川論文「ロシア社会とユダヤ教-19世紀ユダヤ教徒迫害を中心に-」は、帝政末期のロシアにおける1881年ボグロム(ユダヤ教徒迫害)についての研究である。

 本論文の特色は、まず、ロシアにおけるユダヤ人の生活や状況を詳細に紹介し記述した点に求められる。そのために、著者は歴史を遡り、ロシアにおけるユダヤ人の立場や共同体形成のあり様を詳細に再構成した。また歴代ロシア皇帝のユダヤ人政策についても要をえた概観が述べられている。これらの土台の上に、1881年ボグロムの分析が行われるのである。

 同ボグロムについては、著者は、従来支配的であった「画策説」を批判し「自然発生説」を改めて主張した。すなわち、同ボグロムは、その発生日、発生地、被害状況、指導者の有無、警察の対応、画策されたものであった内戦期ボグロムとの比較、などの検討からあきらかに自然発生的なものであったと結論したのである。また、同ボグロムの宗教性の問題がやはり本論文の中心テーマである。それはロシア民衆のうちに根強い反ユダヤ感情の問題であり、また、ロシア正教における皇帝崇拝や宗教的選民意識の問題である。特に前者について本論文はロシア文学史に素材を求め、ゴーゴリ、チェーホフ、ドストエフスキーらの作品の中に典型的な「搾取的ユダヤ人」像、「異人種的ユダヤ人」像等があるという極めて興味ぶかい指摘を行っている。著者はこれらロシア民衆の宗教性と、ユダヤ教ハシディズムの秘教的性格やユダヤ人共同体の特有な閉鎖性が、ある種の必然性をもって相剋軋轢の関係に陥らざるを得なかったことを、十分な説得力をもって描き出すことに成功している。そして、論文の最後では、ロシアにおけるユダヤ人の「民族自決」を主張したC.M.ドゥブノーフの生涯と思想を紹介しつつ、ボグロム問題が単にユダヤ人の問題をこえた人間の問題であることに注意を促している。

 以上のような内容をもつ本論文は、なお部分的には叙述の生硬さを残し、また、著者の「自然発生説」そのものにもなお検討の余地があるとはいえ、その学術的価値は極めて高いものといえる。したがって、本審査委員会は本論文が博士(文学)論文として十分評価に値するとの結論に達した。

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