19世紀のロシアは、帝政末期にあたり、財政危機が深刻化し、国内においては、民族主義運動と革命運動がしだいに進展する状況にあった。南ロシア(ウクライナ)においては、古き農業経済の中に西欧の資本が導入され始めていた。 1881年、アレクサンドル2世が暗殺された後、「ユダヤ人が皇帝を殺したからユダヤ人を襲撃してもよいとする皇帝命令がおりた」という噂が、南ロシアに広がった。南ロシアには、ユダヤ人が都市を中心に居住しており、農村部にもシュテットルと呼ばれる共同体を形成していた。同年4月、復活祭の週にエリサヴェート市に端を発するユダヤ人に対する暴動(ボグロム)が、ほぼ南ロシア全域にわたって発生した。 従来、1881年ボグロムは、政府もしくは政府に属する秘密組織が主導したとする政府主導説もしくは画策説が支配的であった。しかし、近年になって、この説と対立する自然発生説が唱え始められている。このような学界の動向を踏まえてポダロムの実態を分析し、その背景を検討し、その性格を考察したのが本論文である。 著者は第1に、1881年ボグロムは、政府等の画策によるものではなく、自然発生的なものであったと結論する。この結論は、(1)ボグロムの発生日、発生地、加害者、被害状況、趨勢の統計的分析と具体的な個々のボグロムにおける発生直前の状況、発生状況、民衆の行動と指導者の有無、警察の対応などの分析、(2)具体的な個々のボグロムにおける発生直前の状況、発生状況、民衆の行動と警察の対応の分析、(3)画策説に立つ研究者の論点の再検討と研究者としてのあり方の分析の結果、(4)軍隊により組織的に計画されて生じた内戦期ボグロムとの比較分析、の結果を根拠としている。 著者は第2に、1881年ボグロムは、宗教的側面を多分に有していたと結論する。このボグロムの宗教性は、従来の研究にはない新しい視点に基づくボグロムの理解である。この結論は、(1)ボグロム以前に広がっていた噂の内容が宗教的反ユダヤ感情の内容であり、それは内戦期ボグロムの際には見いだせず、自然発生的に生じたオデッサ・ボグロムの際の噂と類似していること、(2)噂の内容が皇帝崇拝の強いロシア正教徒の宗教的感情に訴えるものであること、(3)オデッサ・ボグロムと同じく1881年ボグロムは、復活祭の週に発生していること、(4)ボグロムの発端となった都市の地理的分析、(5)急進的セクトがボグロムに参加したこと,などを根拠としている。 著者はまた、ボグロムの自然発生的性格と宗教的性格に至る背景についても考察する。すなわち、前者に関しては出稼ぎ労働者の実態、下層民の争い等の経済的利害状況を考察し、後者に関しては、伝統的反ユダヤ感情の背景を、ユダヤ教の宗教運動や、ロシア正教とユダヤ教との相違から考察する。特に伝統的反ユダヤ感情に関しては、ロシア文学作品にあらわれたユダヤ人像に着目し、「搾取者的ユダヤ人像」と「異人種的ユダヤ人像」とを挙げ、このうち後者がロシアと東欧だけに見られたものとするそして、このユダヤ人像の背景をユダヤ人の排他的共同体、言語と服装、さらにユダヤ教の宗教運動と教理にその原因をさぐる。 1881年ボグロムは、単なる社会的現象としての民衆による暴動ではなくて、ロシア正教とユダヤ教という2つの歴史的民族的宗教遺産を有する民族の間における衝突であったという新たな像を著者はこの論文において提起する。 |