学位論文要旨



No 110883
著者(漢字) 林,承彬
著者(英字)
著者(カナ) イム,スンビン
標題(和) 「包括奉仕」型の政策執行 : 日本の行政委嘱委員制度の研究
標題(洋)
報告番号 110883
報告番号 甲10883
学位授与日 1995.03.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第49号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大森,彌
 東京大学 助教授 山本,泰
 東京大学 助教授 加藤,淳子
 日本社会事業大学 教授 京極,高宣
 埼玉大学 助教授 辻,琢也
内容要旨

 政策対象集団の中である問題が発生して、その解決策を立てるのが政策形成過程である。そして、政策の実施過程で発生した問題、あるいはこれから問題が発生する可能性があることに対応するのが政策執行である。日本の行政では政策を執行する主体に、行政機構だけではなく社会の民間人及び民間組織に行政の活動を委託して、仕事をこなしている。

 その現象として、本論文では事例研究として行政委嘱委員制度を取りあげている。行政の執行構造の仕組みとして行政委嘱委員が行政機関から仕事を委託されて政策を執行しているのである。

 行政委嘱というのは、対象者をもれなく、しかも全国すみずみまで活動させる手法である。このことで、行政施策が広く浸透することができる。手法の特徴としては、公務員が直接に政策対象者に行政サービスを行わずに間に民間人をおくことにある。このことによって、行政が直接に統治するよりは、民間人の介入によって緩やかな統治構造がもたれるのである。また、現場の苦情を吸収して、政策に反映できる仕組みにもなっているため、社会の安定にもつながる。民間人が同じ民間人に対し、うまく政策執行が可能な構造になるためには、次の前提条件が必要となる。すなわち、住民感情の吸収ができる手法をとらなければならないことである。

 行政側が行政委嘱委員に期待することは、住民に冷たくなりやすい行政サービス体質を柔らかにするための期待がある。つまり、住民の感情を吸収できるような行政サービスをする活動に期待すると同時に、住民現状把握の情報源としての行政委嘱委員活動を期待しているのである。

 しかし、日本行政の特性である合意性の重視、政策過程の中での一部の民間人の介入による緩衝役割などが、順機能的に働けばよいであるが、逆機能的に働いたら政・官・財の談合体質、政治行政の構造改革の難しさなどが露呈してしまうのである。政策循環を円滑にするため、両者を代弁する政策執行が行われているが、その結果、行政の効率性を重視する行政と行政が認めた一部の民間人によって政策執行が行われば、個々人の特殊な例は無視されやすい恐れがある。このような政策執行のタイプは、日本の行政の特性であり、政策過程においての国家と社会の相互浸透現象を拡散させている。

 この現象を本論文では「包括奉仕」型の政策執行であるというのである。政策執行における「包括奉仕」型の特徴としては、次の三点があげられる。

 第1に、「包括奉仕」型は、政策執行過程において行政と社会の関係に観点を据えた特色である。つまり、「包括奉仕」型の政策執行は町内会・自治会など地域の伝統組織の構成員が地域社会の代表として参加している。これが、政策執行過程において、政策フィードバック機能が行政委嘱委員によって活発に行われていることが、行政主導型においての行政管理の機能とは異なる点である。

 第2に、政策執行機能だけではなく、政策フィードバック機能も果たしている。執行に対して政策執行対象集団からの苦情異議を受け入れた場合、持っている裁量権の範囲の中で、問題解決を行うのである。

 第3に、「包括奉仕」型の政策執行は、社会福祉協議会及び心配ごと相談所のような組織に参加して活動することもあるが、行政委嘱委員の個人が政策執行の主体として、政策循環の過程の中に活動していることも含まれている。

 「包括奉仕」型の政策執行の特色として、行政と社会との連携機能・政策フィードバック機能・官民の「包括的な活動領域」への参加機能などがあげられる。

 「包括奉仕」型での行政は、行政側が行政委嘱委員を地域社会の住民の代表であると認識することである。この場合、大切なのは、住民側には行政に対して自律性を持って対応することが要求されることである。しかし事例調査した三つの行政委嘱委員には、国あるいは自治体から委嘱状が出されて、国から任命されるのである。人事の経路は、地域の推薦などが重要な参考事項ではあるが、実費であるが予算配分、人事の点で行政側が行政委嘱委員の活動を行政活動として包括しようとする動きが強い。このように、両者の包括依存関係を作る歴史・文化的要素として、住民側にボランタリズムへの歴史な経験と蓄積がほとんどないことが指摘できる。この場合、行政委嘱委員制度が持つ特性は、制度として継続性を持っていることである。すなわち、市民運動組織のような一時性ではなく法律で定められた継続性ある制度として働いている。また、機能論的な見解から言うと、行政委嘱委員制度の役割は、包括的な行政救済活動でありながら、限られた地域で幅広い活動をしていることが特徴としてあげられる。行政委嘱委員が持つ役割の一つとして、行政サービスにおける目標と現実との間の矛盾を解決することで、その存在価値があるのである。官民の政策執行においての矛盾あるいは葛藤を解決する方案は、官民の「包括的な活動領域」での相互作用によって図られる。場合によっては、政策決定者としての行政委嘱委員が働く場合もある。政策執行者と政策決定者をはっきりと区分できないように、政策過程で相互浸透されているのが、現実である。しかし行政委嘱委員が持つ権力と権威などは、国あるいは自治体から賦与されたものである。したがって、授与機関の権威からの自律性は期待できない。政策執行の効率性の基準であるコスト・ベネフィト的な観点からみると行政委嘱委員が地域社会において、やすあがりの情報源と政策執行者として利用されていることを否定できない。

 日本における国や自治体の政策を執行する段階で、民間人を利用した背景と経緯は、第2章で記述しているので、これ以上論じないことにするが、行政委嘱委員制度が最初のはじまりから70年以上も続けるような制度になったことは、これらをうみ出す属性が日本の行政にも存在していると考えてよいであろう。日本が官僚社会であるとよく指摘されているが、実際には、日本は欧米諸国に比べたら全国民に対する公務員の比率はむしろ少ない。官僚社会であるという場合は、公務員の比率ではなく物事を決めるのが官僚に多くの権限があると言うが、社会のすみずみまで官僚の決める事がよく伝達されているからこそ、官僚社会であると言えるであろう。

 つまり、欧米の諸国よりすくない公務員でどこの国よりも社会の安定を維持していることは日本行政の特質である。本論文で明らかになったように、政策執行過程に民間人を内包して政策を浸透させることで、統計上では見られない多くの準公務員を持っていることに日本行政の本質が隠されている。また、町内会・自治会などが行政の外郭団体あるいは準行政機関として活躍してきたことも官僚社会と社会の安定に寄与したのである。行政側は少ない財源と人数(公務員)を補充するため、政策執行の過程に民間人が民間人を教導するような政策執行過程をつくったのである。したがって、行政活動の伝達機構として民間人及び民間組織が運用されたことが指摘できる。

 政策執行過程と同じく政策形成過程にも多くの民間人を取り組んでいる。政策形成にも使っている委嘱という形態を政策執行過程にも使っている。

 行政委嘱委員制度が日本の行政にもたらしたことは、大きく三つに分けられる。

 第1は、日本の行政において行政委嘱委員制度の運用は、政策対象集団ないし地域社会の組織化を図ったといえる。地域社会の組織化と共に、その構成員を行政機構に編入させたのである。このようなことは日本行政の特色であって、日本行政の本質を把握するのに多くのことを、本論文の事例研究によって示唆している。

 第2は、行政委嘱というのは、対象者をもれなく、しかも全国すみずみまで活動させる手法である。このことで、行政施策が広く浸透することができる。手法の特徴としては、公務員が直接に政策対象者に行政サービスを行わずに間に民間人をおくことにある。このことによって、行政が直接に統治するよりは、民間人の介入によって緩やかな統治構造がもたれるのである。また、現場の苦情を吸収して、政策に反映できる仕組みにもなっているため、社会の安定にもつながる。行政側が行政委嘱委員に期待することは、効率中心の行政理念を貫いて仕事を行うよりは、住民に冷たくなりやすい行政サービス体質を温らかにするための期待があり、住民の感情を吸収できるような行政サービスをする活動に期待すると同時に、住民現状把握の情報源としての、行政委嘱委員活動を期待しているのである。

 第3は、三つの制度の委員は、特定の仕事だけではなく輻広い分野の行政活動を、包括共有的に役所と一緒に仕事をすることによって、政策循環において執行、フィードバック、形成できるのである。このことが彼らには、やりがいになって、ほとんどの地域住民への簡単な世話の仕事が自費で行われいるのである。行政委嘱委員の活動は、行政委嘱ボランティア制度・有償ボランティア制度などにも多くの示唆を与えているし、これらの制度の方向性の設定にも影響を及ぼしている。

審査要旨

 林承彬氏の論文「『包括奉仕』型の政策執行-日本の行政委嘱委員制度の研究」は、本文230頁、注56頁、参考文献17頁、計303頁の労作である。

 本論文は、官民が関与する「包括領域」における協調主義的な政策執行という広い概念を設定した上で、「包括奉仕」ともいうべき政策執行の型の折出とその分折を試みたものである。分折の対象となっているのは、これまでほとんど開拓されてこなかった日本の行政委嘱委員制度である。行政委嘱委員制度とは委嘱という形式を通じて個々の民間人に行政活動の一部を担わせる制度である。韓国からの留学生である林氏は、日本では国地方を通じてこうした委嘱委員制度が多用されているにもかかわらず、なぜ日本人研究者によるみるべき研究がないのか、この制度は、どのようにして発足し維持され、現にどのように運営されているのか、そして、この制度の存在と機能によって、日本の国家と社会との関係にどのような特色があるのか、こうした一連の問題の解明に意欲的に取り組み、この未開拓の研究分野を切り開いたのである。

 本論文は、問題意識を簡潔に述べた序に続き、政策執行分析の視角を論じた第1章、日本行政において行政委嘱委員が多用されている実態を説明した第2章、民生児童委員・行政相談委員・人権擁護委員という3つの行政委嘱委員制度の背景・経緯・現状を分析した第3章、これらの行政委嘱委員の特色・機能の解明を試みた第4章、そして変化の兆しと展望を論じた結びから成っている。

 著者は、まず、現代国家の政策過程において占める行政の比重を前提にした上で、従来の研究関心が、政策形成過程に集中し政策執行過程が軽視されてきたこと、それも官僚制幹部の意識や行動に対象が偏ってきたこと、政策執行過程において国家と社会を切り離して捉えてきたこと、日常レベルに関心が向けられている少数の研究の場合でも政策執行の主体を職員に限定してきたこと、「民意」の吸収とその政策への環流が政策執行過程で起こっていることへの解明が不足していることなどを批判的に検討し、政策執行の本質を行政と社会の相互関与現象として把握する必要性を強調している。著者は、現代国家において政策対象の拡散・多様化に対処しつつ、限られた行政資源による政策執行の効率をあげるために、行政による一方的な政策浸透や社会動員ではなく、官と民が相互に認知し関与し合う「包括領域」と呼ぶべき政策執行主体が存在し機能している事実に目を向けるべきであるとする。これは、国家と社会の関係論で言えば対立モデルに対する連携モデルであり、政策執行論で言えば社会管理モデルに対する協調主義モデルであるということができる。著者によれば、「包括領域」という概念は、行政による社会の包摂志向と社会による政策過程への参加要求という相互利益の一致するところで成り立つという。そして、この「包括領域」を形成し、またそれから影響を受ける「社会」と言うとき、著者は政策が実際に効果を発揮する場である「地域社会」を念頭に置いている。

 著者が「包括領域」の立証のため分折の対象として取り上げたのは、日本の行政委嘱委員制度であるが、第2章では、広く、日本の政策過程に「委嘱」という手続きを通じて民間人が関与している実態が明らかにされている。「委嘱」とは、法律ないし条例などに基づき「委嘱状」を交付することによって特定の任務を個々の民間人に依頼することである。政策形成過程では有識者の審議会委員の委嘱がその典型例であるが、政策執行過程においては、国では例えば公害苦情相談員、国勢調査員、消費生活相談員、保護司、母子保健推進員、ホームヘルパー、社会保険委員、婦人少年室協助員、職業相談員など実に様々な委嘱委員が多くの省庁にわたって存在し、またすべての自治体で各種の委嘱委員が活動している。これは、交通費程度の実費及びわずかな費用弁償を行政機関から受け取り、委嘱された一定の仕事を行っている民間人である。著者は、こうした委嘱委員のうち、(1)行政活動を補助するもので、(2)個人として委嘱を受け、(3)住民の苦情等の相談に応じ且つ指導を行うことを主たる職務とし、(4)それを単独で遂行するタイプに着目し、その代表例として厚生大臣委嘱の民生児童委員(1994年現在189,960人)、総務庁長官委嘱の行政相談委員(5,046人)、法務大臣委嘱の人権擁護委員(13,072人)を詳細な分析対象としている。これらの委嘱委員は全国統一の制度(法律委員として)の下で、持続的な日常活動を担当地域で行っているからである。

 「行政委嘱委員制度の個別事例」と題する第3章では、上記の3つの委嘱委員制度が、まずどのような歴史的な背景の中で登場し発展してきたかが記述されている。日本で行政委嘱委員制度が初めて広範囲に行われるきっかけとなったのは1910年代の米騒動である。社会不安を減少させるため、まず岡山県で、続いて大阪府で実施された方面委員制度が嚆矢となった。地区ごとに名誉職の方面委員を置き、管内の社会の調査、貧民の保護指導、社会施設との連絡に当たらせるというものであった。この方面委員制度は、昭和12年の政府の「方面委員令」によって全国化するが、著者によれば、方面委員は「救護法」の実施によって法制上も具体的な目標を与えられ、市町村長が社会行政の執行責任者になり、救護委員になった方面委員は市町村長の末端補助機関として活動した。行政による「動員」と行政の末端機関化という性格が強かったのである。この方面委員が戦後、昭和21年の「民生委員令」の制定によって民生委員へ変転するのである。民生委員令では、委嘱権者が知事から厚生大臣へ、また仕事の指示権が知事から市町村長へ変わったが、委嘱される人が町内会など地域の住民組織に基盤をおいていることは変わらなかった。この民生委員が、児童委員を兼ねることになるのは昭和23年の児童福祉法の実施によってである。こうして、無給職の民間人を行政活動に取り込み、政策対象者に密着した業務を委嘱する方式は継承されることになった。戦後民主改革のなかで新たに導入された行政相談委員や人権擁護委員も、基本的な仕組みは民生児童委員と軌を一にしている。すなわち、行政相談委員制度は、国の行政相談体制を補うものとして民間の有識者を委員に委嘱し、地域住民の身近なところに相談窓口を開設し苦情処理を依頼しているものであり、人権擁護委員制度は、官民一体となって人権を守るという姿勢から人権侵犯につきその救済のため情報収集・報告、人権擁護のための適切な救済方法の措置を弁護士などの有識者に委嘱しているものである。

 著者は、これらの行政委嘱委員の選出方式、役割、運用組織に関し、第一次資料に当たるとともに、現地でのヒアリングを通して、詳細に調査し、そこから、町内会などからの推薦過程、研修、公平な業務処理、教化指導の姿勢、委員数の増加、同心円的に組織されている委嘱委員協議会などについての知見を整理している。さらに著者は、特に民生児童委員が参加している自治体レベルの「心配ごと相談所」と「社会福祉協議会」を取り上げ、地域の公私の機関及び各種の行政機関が関与し「包括領域」を形成し政策を執行している実態を詳しく描いている。

 こうした調査分析に基づき、著者は、第4章で行政委嘱委員制度の特色と機能を論じている。三つの制度の委員たちは、共通に政策執行を分担しているが、それぞれ異なった特性を持っている。民生児童委員は国から委嘱されてはいるが、実際の仕事は自治体の民生部門との連携で行っているし、執行に際し、ある程度の裁量権を持って仕事を処理している。これに対して、行政相談委員は現在で言えば総務庁の行政監察活動を、また人権擁護委員は法務省の人権擁護活動の一端を担っている。したがって、同じ政策執行活動でも、民生児童委員は直接的に対象者に影響を及ぼすような政策執行を中心に活動し、後者の二つの委員は対象者からの苦情を聴いてから動く政策執行を担っている。後者の委員においてより政策フィードバック活動が目立つといえる。

 三つの行政委嘱委員制度の共通点は、その活動が政治的に利用されることのないよう行政活動に局限されているという意味での非政治性にある。すなわち、関係行政機関の指揮監督を受けること、民間人でありながら政策を執行していること(業務の公平な処理、守秘義務など)、住民からの苦情処理を行っていること、単独でも政策執行機能を、また場合によっては政策フィードバック機能を果たしていることである。そして、著者は、改めて、「包括奉仕」型という場合の「包括」と「奉仕」の概念化を試みている。「包括」というのは「委嘱という手法を用い、個人としての民間人を政策執行過程に組み入れ、一定の役割を遂行させること」をいうが、行政委嘱委員が果たしている役割は、国家と社会の関係という文脈から見れば、把握・吸収・代弁という三つの機能に集約できるという。把握機能とは、対象者の実情を日常生活レベルで情報源として収集・認知する役割である。国の行政機関は政策を完遂するため社会の底辺まで政策を浸透させようとするが、そのために必要な対象者情報と政策実施に伴う効果情報を提供する機能である。吸収機能とは、対象者とのフェイス・トウ・フェイスの関係を持つことにより、その生の声に(1)親身に耳を傾け分かってあげることを通じ対象者の心持ちをやわらげること、(2)説明し説得することを通じ、対象者の不明・苦情・要望などを解消してしまうことを意味している。場合によっては対象者の不満が表面化し争点化するのを抑制する働きもする。代弁機能とは、対象者との日常的な対話を通じ、彼らの利益を図るため行政機関に向かって適切な措置(対象者への選定・政策立案に組み入れることなど)をとるよう意見を表明することである。ここでは対象者が言いにくいことや言いよどんでいることを代弁するのである。

 「奉仕」とは、行政委嘱委員が政策執行活動を担うことに伴って生じる二重の役割イメージで、一つは自分が「国」のために役立っているという意識であり、もう一つは地域社会の中でめぐまれない人、苦しんでいる人のために役立っているという意識である。しかも、これは社会通念から言えば無償の活動であると考えられている。行政委嘱委員には福祉・苦情処理・人権など国の仕事を担うことによって国に身を捧げているという心情が強い。この場合、彼らは民間人というよりも公人的な感覚が強く、行政側と一体感を持っている。国から政策執行を仰せつかっていることは名誉であり、それは個人的な利害の観点に立てば損失になるような時間と労力を使っても価値のある活動と考えられている。世話活動は、自分たちが担当の地域社会で経済的、社会的に弱い住民のために親身になって働いているという心情によって支えられている。そこでは、単なる政策執行というよりも対象者を精神的に自立させるため説得・仕事の斡旋・励ましなども行われているのである。「奉仕」性をもつ行政委嘱委員の活動では、問題が解決したことで終わるのでなく対象者としての住民を見守るということでもある。このように特色づけた上で、著者は、注意深く次のようにも指摘する。行政委嘱委員が持つ仕事上の力は、国から付与されたものであるから、委嘱機関の権威からの自律性は期待できないし、政策執行の効率性の観点から見ると行政委嘱委員が地域社会において安上がりの情報源・政策執行者として利用されている面を否定できないと。そして、「奉仕」性と関連して、著者は、行政委嘱委員の動機の調査から、委嘱という仕組みからして自発性の契機は弱く、実際の政策執行に関わることを通じプライドや奉仕の精神が育っていくことを見抜き、彼らのボランティア性の曖昧さを指摘している。

 著者は、このような行政委嘱委員制度を日本国の行政と関連づけて、次のようないくつかの興味深い指摘を行っている。すなわち、行政機関側が、戦後もこの制度を廃止することなく、むしろ政策過程で増やし多用しているのは、行政活動の多様化・専門化・財政上の考慮などから民間人への委嘱を通じ行政と社会との連携を図ろうとする意図を持っていること、行政委嘱委員は、推薦と委嘱という仕組みで選ばれるため、教導的な機能を持ち、対象住民との間に微妙な身分差が生まれており、時には高圧的な態度で教導しようとすることがあること、無報酬の「奉仕」性が強調されるため実際には仕事の範囲が曖昧になっていること、日本国の行政機関は欧米諸国よりも少ない人数の正規職員で行政活動を展開しているといわれるが、政策執行過程に多くの民間人を内包して政策を浸透させていることで統計上はカウントされない多くの準公務員を持っているのが日本行政の特色の一つであること、日本の行政機関は正規の行政組織という活動体系だけではなく地域社会の組織化も図り、逆にそれによって町内会・自治会などの伝統的な住民組織を温存させてきたこと、行政委嘱というのは世話好きな民間人を行政活動に組み込むことであり、それによって冷たいという行政イメージが緩和されてきたこと、総じて行政委嘱委員制度は行政と社会を媒介するメカニズムとして作用し、全体として社会の安定に関連する政策の循環に寄与していることなどである。

 本論文には次のような長所が認められる。第一に、本論文は、(1)行政が社会を取り込もうとする現象を一般化する試みであり、(2)行政委嘱委員制度の独自な運用方式を調査研究することによって日本の行政の特色を浮かび上がらせるという意義を持っているが、(1)については従来の官僚制理論を豊冨化することに、(2)についてはその立証に、ほぼ成功し、この分野のパイオニアとしての研究成果をあげたものといってよい。特に、これまで民生児童委員に関連した社会福祉研究の水準からみて群を抜いた優れた政策過程論的・行政学的な成果を収めた力作といえる。第二に、本論文は、従来、行政委嘱委員制度が単純に官製の制度的な動員装置とみなされがちであったのに対し、これを、その歴史的経緯にさかのぼって捉えるともに、現状を分析し、この制度が行政と社会を媒介するメカニズムとして日本の行政構造の一部として定着していることをはじめて根拠づけた点で、この制度に新しい光を当てるとともに日本行政の研究に大きな貢献をなすものといえる。第三に、本論文は、政策執行の研究の上で、これまでの理論枠組みが規制・助成・指導といった行政機関による社会管理の分析に偏重してきたのに対し、「包括領域」という斬新な視角を提示することによって、政策執行主体の多様性の認識に新たな可能性を開いたものといえる。

 しかし、本論文にも問題点がないわけではない。第一に、行政委嘱委員と対象住民との関係が現実にどのように切り結ばれているのかにまで踏み込んだ分析がなされていないため、せっかく提示した「包括領域」の実態に迫り得ていない印象をまぬがれない。対象住民の実態調査を手がけることは困難であったとしても、さまざまな資料から、ある程度までその実体を描く工夫があってもよかったのではないかと思われる。第二に、これとも関係して、委嘱委員の「素顔」の描写が出てこないため、委嘱の権力構造や地域での活動のリアルなイメージが浮かび上がってこないという弱さがある。この二つの問題点は、留学生の日本研究に対して望嘱の感がないではないが、本論文の刊行に際し、少しでも改善されることを期待したい。第三に、著者も結びで「残された研究課題」の一つとして指摘しているが、政策執行の「包括奉仕」型という概念が国家と社会の連携モデルとして、どれほどの普遍性をもちうるかについては十分な検討がなされていない。したがって、これが日本の行政委嘱委員制度を捉えるのには有効であっても、行政が社会を取り込もうとする現代国家の現象を一般化するモデルになりうるかどうか必ずしも明確ではない。

 しかし、これらの疑問点も、本論文の基本的価値を損なうものではない。行政委嘱委員制度の本格的なアカデミックな研究は本論文をもって嚆矢とすると明言することができ、本論文の学界に対する貢献はきわめて大きいことは疑いえない。以上の理由により、本論文は、博士(学術)の学位を授与するに値するものと結論する。

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