学位論文要旨



No 110886
著者(漢字) 吉村,浩司
著者(英字)
著者(カナ) ヨシムラ,コウジ
標題(和) 宇宙線反陽子流束の低エネルギー領域における測定
標題(洋) A Measurement of Cosmic Antiproton Flux at Low Energies
報告番号 110886
報告番号 甲10886
学位授与日 1995.03.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2839号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 奥野,英城
 東京大学 教授 佐藤,勝彦
 東京大学 教授 荒船,次郎
 東京大学 助教授 牧島,一夫
 東京大学 助教授 蓑輪,眞
内容要旨 1.はじめに

 宇宙線反陽子は1次宇宙線と星間物質との衝突により2次的に生成されることが宇宙線伝播モデルにより示唆されており[1]、Goldenらは5GeV〜12GeVの領域で観測を行って28の反陽子を報告した[2]。彼らの示した反陽子と陽子の比率は標準的な宇宙線伝播モデルが予測する値よりも約3過剰であった。また低エネルギーでは1次宇宙線の衝突による2次的な反陽子の生成は運動学上抑制されるにもかかわらず、Buffingtonらも130MeV〜320MeVで宇宙線の標準的なモデルの予測より遥に大きな流束比を報告した[3]。これらの結果を説明するためにさまざまな宇宙線伝播モデルが考えられたが、その他の宇宙線(e+、e-、重イオン)を含む全ての観測結果を満足するモデルはない。その後、Buffingtonらの観測結果を否定する上限が報告された[4][5]が、測定器の感度が足りないため低エネルギーの反陽子の信号るまでには至っていない。

 低エネルギー領域での宇宙線反粒子はその流束が小さく測定が困難であると同時に2次的な要因のバックグランドが低いために、精密に測定すれば新たな物理現象を探索することができる。例えば宇宙の大半の質量を担っているとされる「暗黒物質」が対消減してでてきた反陽子や原始ブラックホールの蒸発の際に発生する反陽子は低エネルギー領域で特異なスペクトルを示すため、その流束の精密な測定により検証することができる。

 BESS検出器は宇宙起源の反物質(反陽子および反ヘリウム)の観測をその主な目的として開発された、超伝導コイルを搭載したスペクトロメータで、これまでの検出器の約20倍の面積立体角と高速なデータ収集能力を持ち、低エネルギーの反陽子の流束を精密に測定しこれらの問題に対して決着をつけることが可能である。

 本論文では93年度の飛翔実験で得られたデータをもとに175〜500MeVのエネルギー領域での反陽子の陽子に対する流束比の測定結果を報告する。

2.実験装置

 BESS検出器の全体図を図1に示す。外側から上下に4、6に分割して置かれたシンチレータホドスコープ(TOF)、2層のトリガー用ドリフトチェンバー(IDC、ODC)、超伝導ソレノイド、JET型ドリフトチェンバーが円筒型に配置されている。これら検出器に加えて読みだしエレクトロニクスが圧力容器の中に、データ記録用のEXABYTEテープドライブ、地上と無線で交信を行うCIP box、および電池等が圧力容器の外に置かれている。検出器重量は2.1トンである。

 BESS検出器は次のような特長をもち陽子、ヘリウムの1次宇宙線の中から極めて微量な反ヘリウムの事象を観測するのに適している。1)検出器のの物質量は片側7.5g/cm2と小さく低エネルギーの粒子の測定が可能。2)円筒型に配置したことにより約0.5m2srと大きな面積立体角をもつ。3)高速なデータ収集システムにより事象を最大1KHzで取り込み、そのうち200Hzをテープに記録することが可能。4)また各トラックにたいして最大32点の位置を測定することができRigidityを精度良く決めることができ(〜200GV)、検出器内部で散乱を起こした場合等も容易に検出可能。

図1 BESS全体図

 BESS検出器の基本パラメータを表1に示す。

表1 BESS基本パラメータ
3.93飛翔実験

 BESSによる始めての宇宙線観測は主として反陽子反ヘリウムの観測を目的として93年夏に実施された。BESSはカナダ・マニトバ州で成功裡に打ち上がり、残留大気5g/cm2の高空36.5kmを17時間飛翔して、約13.5時間の観測を行った。飛翔中約108の荷電粒子が測定器を通過しそのうち約3.7×106が2本の磁気テープに記録された。データは12のrunに分けられ、各run毎に検出器の較正を飛翔中のデータを用いて行い、較正パラメータを決定した。その結果、各検出器の温度および圧力依存性はなくなり各チェンバーで200mの位置精度、TOFホドスコープの時間分解能が最小電離粒子に対して300psecが得られていることを確認した。

4.反陽子/陽子流束比の決定

 反陽子はトラックの運動量、飛行時間、TOFでの電離損失(dE/dX)の情報をもとに、テープに記録された3,635,139事象から探索される。

 まずこれらの情報が正しいことを要請するため、次にあげる3段階の選別を行い、きれいなトラックを1つだけ含む事象を選び出した(Preselection)。

 1)飛翔中のデータの約半分は、上空または検出器内部でおこったシャワーによる多数のトラックを含む事象か、または中央部を通らず飛跡検出器にトラックを残さない事象である。これらの事象を除くため、ヒット数16以上のトラックを1つだけ含み、上下のシンチレータがそれぞれ1つだけヒットしている事象のみを選び出す(Seletion of Good single track)。

 2)JETとIDCにより決定されるトラックの情報が正しいことを保証するため、トラックのfittingに使ったヒット数、x2に制限を付ける(Track Quality Cut)。

 3)最後にTOFホドスコープの時間情報が正しいことを要求するために時間情報が他の情報(電荷、トラックとのマッチング)と矛盾がないことを要求する(Selection on qualty of TOF measurement)。

 以上のカットを通過した事象について速度の逆数-1とトラックのRigidityの関係を図2に示す。上半分は上から降ってくる正、負電荷の粒子、下半分は下から検出器を通過した正、負の粒子(albedo)を表している。図中の線は陽子、ヘリウム4、粒子、電子について計算される曲線を描いたものである。1GV以下の領域で粒子と陽子のピークは粒子における時間分解能の6以上離れており,この領域ではあいまいさなく//電子と陽子が判別可能なことがわかる。

図2

 上下のシンチレータでのdE/dXをRigidityに対してプロットすると図3のような分布になる陽子、//電子、d、ヘリウム3、ヘリウム4の5つのバンド構造が認められる。低Rigidity領域では検出器内部でのエネルギー損失の影響により、上下のdE/dX分布が異なる分布を示している。0.45GV以下になると陽子は下のシンチレータ内でエネルギーを失ってストップするため、下のシンチレータのdE/dXは急激に減少している。

 これらの検出器の性能を利用して反陽子の探索を次のような手順で行う。

 まず、が負のalbedo粒子を除く。

 次にdE/dXを用いて陽子の部分を抜き出すために図4の破線で囲まれる「陽子dE/dXバンド」を上下のシンチレータにたいして別々に定義する。上下のdE/dXがバンド内にあることを要求することにより、90%の陽子事象を通過させながら、1GV以下の//電子の大部分が取り除くことができる。また同時に、電荷2以上の粒子や2個以上の粒子が同じカウンタにヒットした事象などもこのカットにより除去される。

図表図3 / 図4

 陽子のバンドカットを通過した事象に対する-1と運動量の分布を図5に示す。図2に比べ低エネルギーの負電荷粒子が激減しているのが認められる。実線はそれぞれ陽子、粒子、電子を仮定して求めたもので、破線、点線はそれぞれ-1の分解能の1、2離れた領域をあらわす。1.05GV以上では//電子の分布が陽子の2の領域内に重なり始めるのがわかる。ここでは0.45〜1.05GVの領域に限って反陽子の探索を行うことにする。

図5

 この領域での質量の2乗を次の式により求める。

 

 m2mfの分布をRegidity領域を0.15GVに分割して図6に示す。2つの領域(0.75≦-Rigidity<0.9、0.9≦-Rigidity<1.05)で合計4事象の反陽子候補が得られた。これらの候補を次にあげる理由により、反陽子と見なして流束比を求めた。1)m2tofがすべて陽子の質量の2乗付近に位置し、m2tof〜0にある//電子からはよく離れている。2)dE/dX分布(上下の平均値)はすべて陽子のピーク付近にある。3)イベントディスプレイの例を図7にしめす。他の3事象も含めてトラックfittingに異常はみとめられない。4)Regidityの測定誤差は絶対値の130分の1以下であり、正のRegidityからの傾れ込みは無視できる。5)-1の測定値はalbedoの粒子から45離れている。

図表図6 / 図7

 最終的に得られた反陽子の候補は大気層の上での運動エネルギーに変換して、175〜300MeVで0事象、300〜500MeVに対して4事象となった。同じエネルギー領域で同じ選別を受けたを陽子の数を数えて、反陽子の大気中および検出器の内部での対消滅による検出効率の違いを補正することにより反陽子の陽子に対する流束比が求められる。結果は175〜300MeVに対して 90%の信頼度での上限2.9×10-5、300〜500MeVに対して1.2±0.7±0.2×10-5の値を得た。

5.おわりに

 本論文で得られた新しい結果を従来のデータとともに図8に示す。300〜500MeVの領域において今までに観測された反陽子の中でも最もエネルギーの低い4事象の反陽子を観測し、これにもとづき陽子に対する流束比の有限値を低エネルギー領域で初めて報告した。また、175〜300MeVの領域においても従来と同等の上限値を設定し、Buffingtonらの結果を完全に否定した。以上の結果は低エネルギー領域において反陽子の生成を予測する様々な物理的なモデルに強い制限を与える。今後、長時間飛行、粒子識別装置の増強により統計精度を上げるとともに観測領域を広げて、低エネルギー反陽子の起源を探る予定である。

図8
参考文献[1]T.K.Gaisser,and R.H.Maurer,Phys.Rev.Lett.30(1979)1264.[2]R.L.Golden et al.,Phys.Rev.Lett.43(1979)1196.[3]A.Buffington,S.M.Schindler,and C.R.Pennypacker,Ap.J.248(1981)1179.[4]M.H.Salamon,et al.,Ap.J.349(1990)78.[5]S.J.Stochaj,Ph.D.thesis,(1990).
審査要旨

 本論文は、宇宙を起源とする反陽子のフラックス(流束)を、気球で大気上層に持ち上げた超伝導電磁石を装備する検出器で測定し、その結果を宇宙での反陽子生成モデルと比較して論じたものである。

 宇宙を起源とする反陽子は、標準的な宇宙線伝播モデルによると、一次宇宙線と星間物質との衝突により二次的に生成されると考えられている。現在までに、さまざまな検出器で反陽子のフラックスが測定されてきた。測定結果は一般に反陽子と陽子のフラックスの比で与えられるが、その結果は標準モデルが予測する値よりも大きかった。特に、500MeV以下の低いエネルギー領域では、一次宇宙線により二次的に生成される反陽子は運動学的に抑制されるにも関わらず、標準モデルの予測よりもはるかに大きなフラックスを与える測定結果もあった。これらの過剰な反陽子フラックスを説明するためには新しい物理現象を仮定する必要があり、たとえば宇宙の暗黒物質が対消滅して出来る反陽子や、原始ブラックホールの蒸発の際に発生する反陽子、超対称性粒子からの反陽子生成などを仮定する多くのモデルが提唱されている。これらのモデルでは、反陽子はいずれも低いエネルギー領域で特有のスペクトルを示すので、モデルの検証には、500MeV以下のエネルギー領域の反陽子フラックスのデータが決定的に重要である。これまでにもいくつかの実験が行われたが、検出器の感度不足や信頼性の欠如などではっきりした結論が得られていなかった。

 本実験は、これらの問題に決着をつけるため、反物質の観測を主な目的として建設されたBESS検出器を気球に搭載して行われたものである。BESS検出器は従来の検出器に比較して約20倍の検出感度を持ち、反陽子の同定が誤りなく行えるように細心の注意を払って設計されている。

 BESS検出器は、超伝導電磁石、荷電粒子の飛跡測定用円筒型ドリフトチェンバー、荷電粒子の飛行時間測定用シンチレーションホドスコープから構成される。この測定器は高エネルギー加速器での素粒子実験用に開発されてきた測定装置を発展させ、気球搭載のための諸開発を行って完成させたものである。検出器に加えて、付随するエレクトロニクスやデータ収集装置も取り付けられ、飛翔中の検出器を監視するための、地上との無線交信装置も装備されている。その重量は2.1トンである。

 本論文で解析された測定データは、1993年にカナダで行われた、高度36.5kmで約17時間の飛翔実験の結果に基づくものである。この飛翔中に約1億個の荷電粒子が測定器を通過した。この荷電粒子の中から反陽子の可能性のある事象を、高速のトリガー回路で選びだし、磁気テープに記録した。

 本研究では、記録された約360万個の荷電粒子に関する情報から、反陽子の探索が行われた。各事象に対しては、荷電粒子の運動量、速度、シンチレーションホドスコープ中での電離損質量が求められた。非常に多数の事象の中から極めてまれな反陽子の事象を探すためには、各検出器の詳細な性能や他の粒子を反陽子と見誤る可能性の検討が必要である。本論文提出者はこれらの検討を、実測されたデータに基づいて慎重に行い、また誤認の可能性についてはモンテカルロ法によるシミュレーションを行って調べた。その結果、本論文の目的とする175MeV-500MeVの低エネルギー領域では、反陽子を他の荷電粒子と見間違える可能性は無視できることを検証した。そして、最終的に、このエネルギー領域で観測できた反陽子の個数は、175MeV-300MeVで0個、300MeV-500MeVで4個であった。同じデータから陽子の個数も測定できるので、反陽子フラックスを陽子フラッグスとの比で与えることができる。ただし、宇宙を起源とする反陽子と陽子のフラックス比を求める場合、大気中および検出器内部での反陽子と陽子の相互作用の違いによる検出効率の違いの補正を行う必要がある。これらの補正の後、最終的に、反陽子と陽子のフラックス比として、反陽子の運動エネルギーが175MeV-300MeVの領域で上限値(90%コンフィデンスレベル)が2.9×10-5、300MeV-500MeVの領域で(1.2±0.7±0.2)×10-5の結果を得た。この結果は、175MeV-500MeVの低エネルギー領域で初めて反陽子を不確定性なしに測定したものであり、従来の結果に比べて信頼性の高い測定結果を与えるものである。その結果は、従来の測定値と矛盾しないが、標準的な宇宙線伝播モデルの予測とずれる傾向を示している。

 以上、本論文は、宇宙を起源とする反陽子のフラックスを、従来にない最も高い感度で測定したもので、その結果は新しい物理現象を仮定する多くの反陽子生成モデルに新たな制限を加える結果を得たという点で、宇宙物理学および素粒子物理学に大きく貢献するものである。したがって、審査員一同は、本論文が博士(理学)の博士論文としてふさわしく、合格であると判定した。

 なお、本論文の研究は本人をふくむ25名の研究者との共同で行われたものである。論文提出者は、ドリフトチェンバーやトリガー回路、データ収集システムの建設、気球飛翔実験に貢献すると共に、反陽子事象の解析に中心的な役割を果たして、本実験の成果に大きく寄与した。その結果、論文提出者が本実験の内容を学位論文として使用することについては、研究代表者の承諾が得られていることを確認した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53837