階級差の著しい近世以前の社会に於て、住居は常に主の地位を反映し、様々な住居タイプが存在した。それらのタイプをエリート住宅(支配層住宅)とバナキュラー住居(庶民住居)という二つの主な範疇に区別し、住居建築の発展過程とその過程の歴史的意味をより深く理解するため、上層住宅と庶民住居が発展しながら、どの様な関係にあって、どう互いに影響し合ったのかということを把握する必要がある。本研究では前史時代から近世末までの日本の居住史を対象にし、上記の問題に関して論考する。日本居住史に於て、支配層住宅と庶民住居はそれぞれ異なった系統に属し、前者は屋外調理場を持つ南方系の高床式住居から、後者は屋内調理場を持つ北方系の竪穴から出現し、基本的に別々に発展したという見方が戦後の定説である。本論では、日本の庶民住居と支配層住宅の異質を南方系と北方系の文化的違いとするよりも、主に階級制度そのものが生み出した現象という角度から見直したい。 庶民住居と支配層住宅の関係を分析するため、主にサービス部分に焦点を当てる。近世以前の社会では、身分が高く成るにつれ、日常雑用を使用人に任せ、サービス部分から離れる傾向が強くなるため、サービス部分の建築的性格とそれが居住体にいかに含まれていたかを解釈の鍵と見なす(ここでは、調理場・配膳所・屋内作業場・使用人の詰所、事務所と宿泊施設を研究の対象と為し、倉、等、保管の施設を省く)。論文の作成に至って、残存古建造物、文化財修理工事報告書、緊急民家調査、近世社寺建築、発掘調査報告書、古図・指図・絵巻物・屏風等の絵画資料、文献資料、及び多くの先行研究を参考にした。 第一章では、主屋内サービス部分を備えた庶民住居の歴史的発展を辿る。未発達な平地住居が江戸時代後半まで貧しい庶民住居として残存した一方で、江戸時代を通して次第に各地方に広がった比較的大規模の、主屋内に調理場を備え、職人の手による、発達した例(農家、町家及び中・下級武士住宅、小型の子院)を第一章の後半のテーマとする。これらの発達したバーナキュラ・タイプは少なくとも12-15世紀の中流の前身とも言える家司、地侍、商人、等の住居にその起源を持つと思われる。 第2章では、資料が豊富な近世(特に近世初期)の支配層住宅サービス部分の中心である別棟台所の建築的性格・役割及びその含蓄について論じる。江戸初期の最大級の邸宅の大台所は、邸内の接客用殿舎と対照的な存在であると同時に、規模と細部に相違点はあるものの、空間構成・意匠に於て、広間型農家などの庶民住居と強く類似する。その使い方は、大台所は下台所として、主に下級人の入口・調理場・配膳所・食堂室の役割を果たし、殆ど宿泊のために利用されなかったが、より小型邸宅における台所は小姓や執事等の家人の宿泊施設を含み、住居の役割を果たす場合もあった。一方、江戸時代の接客用書院を持った最上級の庶民住居では、上客を向かえるに当り、主屋は接客棟に対して大台所としての役割を果たし、藩主を向かえる本陣や巡検史を向かえる豪農の家等が実例として挙げられる。寺院建築に於ける居住施設についても同様の現象が見られる。支配層の台所、寺院の庫裏、庶民住居は全部同建築類型に属すると考えられる。庶民住居が支配層の住宅建築において不可欠な要素である台所との共通性が認められることから、上層住宅は独立した系譜ではなく、常に庶民住居と結び付いて発展してきたと見るべきであろう。支配層台所の発展過程を探るのが次の問題である。 第3章では、上層階級が出現した前史時代から古代にかけての支配層住宅サービス部分の復原を試みて、それが別棟として独立して行った過程を探る。著しい階級差と共に生み出された特徴であったと思われ、それは別棟にするに留まらず、別囲いを設けるにまで及んでいる。前史時代の豪族居館に於いて、建物の身分と役割により建築形式が異なり、附属屋として竪穴と平地建物が利用され、支配層の附属屋は既に庶民住居と同じであったと言える。次に、内裏を始めとする支配層住宅、寺院、神社等の分析により、古代を通して、サービス部分の独立後の拡大・発展・変化の過程を追跡する。 平安中期まで、多数の機能を備えた複雑な平面構成を持つ建物を作る技術がまだなかったため、比較的単純な平面の建物の数を増やし、一棟に一機能を与える傾向が大型複合体に於いては重要であった。少なくとも、調理施設を釜殿(米焚き)と廚や贄殿(他の調理・配膳)に分け、家人の宿泊施設も別に設けるのが普通であった。平安中期以降、廊が発達すると配膳室を始め、調理設備の一部が奉仕される建物郡に戻ったが、釜殿はまだ独立した存在であった。多分、釜殿がもたらした神秘性が関係したのであろう。サービス機能の全てを一棟の附属屋に備える住宅は当時下級支配層にしか存在しなかったと思われる。 第4章では、近世支配層台所の前身に当たる、釜屋、調理、配膳施設と詰所・使用人宿泊施設等を一棟に備えた、より複雑な平面を持つ付属屋がいつ、どのように発展してきたかと言う問題について論ずる。このような建物の存在が始めて認められるのは、御廚子所対の屋として、13世紀半ばのことである。新しいタイプが出現する背景には、建築技術の進歩の結果、複雑な平面を持つ建物の建造が可能に成ったことは無論前提条件であった。社会面では、天皇・貴族政治の衰退の中で、大型住宅の縮小に伴い、付属屋の省略と接合が行なわれた一方、下からの新層の出現で、基本的に附属屋が少なかった小規模の住宅が棟数を増やす古代的な拡大方法よりも、先進技術を利用して、多数の機能を備えた、より複雑な建物を造ることで発展した。もう一つ、釜屋と他の施設の合併が繁茂に成った背景には13世紀、末代の中国から禅宗の伽藍と共に、複数の機能を備える庫院が日本に伝わり、はっきりしたモデルとして、台所の発展に大きな影響を与えたと考られる。 この新形式の支配層台所の出現は、主屋内サービス部分を持つ発達した庶民住居の出現とほぼ同時代の出来事であったことも偶然ではなく、両方ともが平行に発展し、互いに交換できるほど強い関係にあったと思われる。しかし、16世紀後半になると、宿泊施設を兼ねた支配層台所は、屋敷がさらに拡大されると、住居の平面構成を残しながら宿泊の機能を殆ど失って行った。 第5章では、庶民住居に戻り、サービス部分、特に釜屋と作業場の部分を居室部とは別の建物に入れる分棟型民家の起源・発展・意味・多義性等について論考する。江戸時代の分棟の例から、前史時代まで遡ってみた結果、分棟が南方の居住伝統の系譜を引くと視るよりは、古代文化の中で生まれた、基本的に社会的地位を反映する現象として捕らえる。古代では、未発達な建築技術のため、庶民住居も、地位が少し上がると、一棟よりも数棟の単純な建物から成り立つ場合が多かったことは考古学の資料から推定できる。複雑な建造物が造られるようになった中世に於いて、庶民と支配層の中間当りをしめる地侍層等の間では、より複雑な居室部を持つ、上層住宅の粗末な小型化とも言うべき分棟型住宅の出現を絵巻等から窺える。同時に、支配層附属屋の合併と平行に、中流庶民の間でも、分棟型民家が次第に減って行った。 上記のことから、高度に発達した近世民家の中で、居室部棟とサービス棟の接合が生み出したものを原型として発達したものが多かった筈である。本章の後半では、幾つかの実例の構成要素を分析し、接合以前の原型の復原を試みて、中世末の地侍層の住宅に光を当てる。その原型は、居室部は質素ながら、平面的に上層住宅の主殿タイプの小型化、サービス部分はより簡単な庶民住居と同一として捕らえる。その背景には、従者が主人の家を自分なりに真似し、或は、邸宅の再建の折り、主人が建物の古材を従者に回す風習、等があったと思われる(これは、第4童で述べた、古い奉仕された側の建物を邸宅内に、付属屋の居室部として再利用する過程と類似する)。支配層住宅が庶民住居を台所として取り入れていると同時に、庶民住居は支配層住宅を居室部として、取り入れている、一見矛盾した現象が認められるのは、14世紀から近世の4級制度が強化されるまで、日本の庶民住居と支配層住宅は別系譜ではなく、入れ子箱式関係にあったためと見なされる。 最後の第6章では『匠明』の「東山殿図」と「屋敷図」に見る台所の位置の違いとその意味について述べる。後者では、前者に比べて大台所が表側に移り、支配層の台所をこのように表側に配置することは歴史的にみると珍しい。『匠明』の「屋敷図」にみえるような典型的な近世初期の大名屋敷の構成の発展の背景には、「表」と「奥」の厳密な区分が大変重要であった。表の部分のみの原型を探ると、遠侍と大台所を本来の居住・サービス部分の中核にした、家臣の住宅を発展させて、大広間を客殿として上手に加えたものに等しくなる。それは、エリートとバナキュラ建築の中間に属する住居形態が最上層の住宅に直接に結び付く例となる。支配層住宅と庶民住居という二つの範疇の境界線の透過性をよく例証している。 以上各章により、居住建築のサービス部分を探ることで、近世以前の日本に於ける庶民住居と支配層住宅の関係に関して一考察を試みた。二つの範疇は色々なレベルで互いに絡み合って発展したことが明らかになった。庶民住居と支配層住宅は無論同じものではなかったが、生物学的な概念を借りて、庶民住居と支配層住宅を別の系譜や系統に例えるとき、各々の系譜を閉鎖されたものとして、他方の系譜との関係に注目しないなら、日本の伝統的居住建築の発展過程を把握することは困難であり、それは建築史・社会史を学ぶ者にとって、残念なことである。なぜなら、人間により住むために造られた器である「家」について知ることは、創造者の文化の本質に光を当てる上で、大きな意義があると信じるからである。 |