日本住宅史の研究は、平安時代を中心とする寝殿造りと、室町時代以降の書院造りを中心に行われてきた。そうしたなかで、寝殿造りがしだいに変化して書院造りを生じせしめた点は通説となっている。しかし、両者の中間に位置する鎌倉時代の研究が比較的遅れているため、その関係に不明な点があった。 本研究は、接客用の部屋を中心に、鎌倉時代の前半期の住宅を検討し、この問題の解明を目指している。当該期は、貴族社会と武家社会、上層と中下層において、住宅の様相がかなり異なる。したがって、その各々を検討し、それぞれの特質と前後の住宅様式との関係を見出すことで、両様式の関係を検討することにした。 また、これまでの寝殿造りの接客部分に関する研究は、寝殿や対屋などに集中し、接客行為全体を体系的に把握することが困難であった。本研究では、日常執務も含めた接客行為全体が、出居から侍所までの複数の場を総合的に利用することから成立していたことに注目し、その使い分けを検討している。 本研究のもう一つの特徴は、当該期の空間意識や行動形式を検討することで、人の意識や行為が、住宅の変化にどのような影響を及ぼしたかを検討している点にある。まだ多くの問題を残しているが、この方法によって、着座形式や空間構成、経路の使い分けなどが、住宅の変化に関与していること、また、当時の空間概念に、空間の変質が現れていることが明らかになった。なお、寝殿造りにおける基本的な場の構成方法は、上下の方向を決め、この軸の両側に人が並ぶという線型の空間である。したがって、室内の場合には、上下からなる長軸に沿って2行に畳を敷き、庭に近い外側の畳列を端座と呼び、内側のものを奥座と呼んでいる。このような性質をもつ空間が変質する点に、住宅様式が変化する要因があると思われるのである。 当該期の上級貴族住宅は、院政期を経て、その空間構成を大きく変化させた寝殿造りである。したがって、従来よく知られている摂関期の頃の寝殿造りとは異なり、後期寝殿造りと呼ぶべきものである。そこで、まず序章において当該期の接客空間の概要を検討し、これが出居・客亭・公卿座・中門廊・障子上・北面・侍所などの各室から構成されていることを示し、以下の各章で、これらを検討することとした。 第1章では、摂関家を中心とする上級貴族住宅を検討した。第1節では、侍廊の一室である障子上の位置と機能を明らかにし、利用者の行動形式を分析している。障子上は、儀式や饗応の際に、出居や公卿座を使う階層よりも1段階下位の人々が使う控え室もしくは会場である。特定の儀式・遊興・対面を除けば、日常執務では、亭主の近臣が用件の取り次ぎ(申次)を行うため、利用者は、中門廊より内側に入らない。 第2節では、侍廊の中の侍所と北面について検討している。侍所は、前代とやや異なり、政所別当である家司を中心に家務を遂行する場となっている。家司は、侍所の端座におり、職事や所司・侍を指揮して、家務や申次を行っている。 第3節では、中門廊について検討している。中門廊は内庭(南庭)と外庭を区切るもので、両者をつなぐ中門と、これに連絡する廊からなる。当該期の上級貴族住宅の場合、寝殿の南階を使うのは亭主とその家族に限られ、客用の玄関は中門であった。しかし、中門に入り、中門廊の内沓脱から昇降する経路は、限定された客しか使えない。そして、これを内方というのに対して、中門廊の南北に設けられた2つの妻戸を使う場合がある。中門廊の壁の外において昇降するので、これを外方という。外方で昇降した場合、南の妻戸つまり車寄戸を入ることが普通で、北の妻戸つまり腋戸は、まだ便宜的なものであった。車寄戸は、主に亭主やその家族が車を付けて出入りすることから付けられた名称で、12世紀中頃から普及したようである。また、客の作法で特徴的なことは、堂上へ昇る場合、外よりの昇降口を使わなければならないことである。当該期は、場の性質と人間が密接に関連するので、一度外に出れば、外の人として捉えられたと思われる。 第4節では、客亭・出居・公卿座について検討した。出居と客亭は、客と亭主が会う場、つまり応接室である。上級貴族の住宅になれば、外出居と内出居があり、亭主以外の家族にも別々の出居が設けられている。摂関家では、12世紀末頃に外出居が公卿座と名称を変えている。当該期の注目すべき現象としては、それまで2行対座に敷かれていた畳席のうち、亭主の座が、横敷(横切座・横座)とされる場合が出現することである。そもそも寝殿造りでは、このような奥端方向に敷かれる座は、原則としてなかった。横敷が発生すれば、座の形式がコの字型になる。この後、着座形式は、中世後期にみえるロの字型の追い回し形式に発展してゆくと思われるが、これは同時に、線形の空間を基本とする寝殿造りから、広がりをもつ空間を基本とする書院造りへの変化を成すものであったと思われる。 第2章では、中級以下の貴族住宅について検討した。第1節では、藤原定家が晩年を過ごした一条京極邸について、敷地の集積過程や建物配置の復原を行い、当該期の中級貴族の住まい方を具体的に明らかにした。また、その周辺に住む人々は、定家の家人を含む4つの階層からなり、それぞれに建物と土地に対する権利が異なっていた。注目すべき点は、中門廊の代りになる車寄廊を寝殿前面に増築する以前は、寝殿自体に車寄を設けていたことである。第2節では、このほかの中級貴族の住宅を、接客空間を中心に検討している。 第3章では、鎌倉幕府の御所を検討した。第1節では、幕府御所の侍所・小侍所・厩侍と上台所・台所・小台所の位置や機能を明らかにし、これらが互いに関連しながら御家人および雑仕を統括していたことを示した。ここで特徴的なことは、侍所に横敷の将軍専用の座があることと、着座形式を把握する際に、奥座・端座という概念をほとんど用いないことなどである。前者は、幕府御所が館の系譜に属することを示し、後者は、中世後期の住宅に繋がる特質であると思われる。 第2節では、幕府御所の中門廊と出居を検討した。しかし、中門廊は、ごく形式的なものに過ぎず、したがって、車寄は寝殿に設けられ、主な出入口は寝殿との接合部にある腋戸であった。以上、幕府御所は、当初の定家邸と共通する点が多く、上級貴族住宅とは別の、中層階級の住文化に属していたことが分かる。 第4章では、執権以下の御家人住宅について検討し、幕府御所と基本的に同じであることが確認された。そのような意味での武士住宅の特徴は、亭主が侍所にも出入りすること、御成などに伴い寝殿の接客空間化が進んでいること、中門廊による内と外の区画分けや、奥端という空間概念が非常に弱いことなどである。 結論において、当該期では、中下級貴族住宅と、将軍および上級御家人からなる上層武士住宅は、正規の中門廊をもたず寝殿に車寄を設けることがあること、寝殿内部に接客空間をもつことなどにおいて共通性をもつことが明らかになった。これらの特徴は、書院造りの祖型が、当該期における上級貴族住宅ではなく、これらの中下級貴族住宅および上層武士住宅からなる中層階級の住宅であったことを示唆している。とくに武士住宅のもつ、亭主の行動範囲にみられる領域観や、奥端という空間概念がないことは、書院造りに直接につながる要素であり、今後中層住宅が、どのように書院造りへと変化していったかを研究するうえでの指標になるものと思われる。 また、住宅様式が変化する要因を考えると、人々の行動形式や空間概念が変化し、これが着座形式や接客空間の構成の変化を生み、これにともなって部屋の平面形や意匠が変化することから生じると思われる。したがって、寝殿造りと書院造りという住宅様式は、単に構造や意匠、あるいは機能構成から規定されるべきではなく、着座形式や接客作法などからなる生活形式にも重点をおいて、区分されるべきであろうと思われるのである。 |