本論が対象にしているのは『源氏物語』の一部と二部である。其の中心になるのは光源氏である。只、光源氏本人をもっぱら考察の対象にするのでなく、周辺人物の考察を通して、より総体的な光源氏の在処を鮮明にした。そのような多局面からの照明にまり、『源氏物語』の世界がよりわかりやすく見えてくると思うからである。 本論は全体で四つに分けて光源氏の在処の考察を進めた。Iでは男女の隔ての表現に注目して、光源氏と女君の関係のありようを明らかにした。その為、第一章では光源氏と五人の女君-源典侍・朧月夜・夕顔・末摘花・朝顔の関係に見られる催馬楽の東屋引用を明らかにした。その時東屋の新しい読みを提示しては、東屋の深層と響き合うことで見えてくる光源氏と女君の関係のありようから物語の進展を説明しようと努めた。第二章では空蝉物語における隔ての「関」、「夢」、「憂き宿世ある身」の表現に注目してみた。特に、隔ての比喩表現としての「関」に見られる人生の観照の姿勢を見据えた上で、『伊勢物語』の斎宮物語の夢の類型を媒介にしながら変奏していく空蝉の物語の様相を鮮明にした。 IIでは男女の恋の関係にしばしば登場してくる神の存在に目を向けてみた。つまり、絶対的存在としての神を媒介にしながら極限の状態へと押し進めていく男女の恋の構造を明らかにしようとした。まず、第三章では神事の景物である「標」に注目して、『万葉集』の標の用例に見られる女をめぐる対立的人間関係を明らかにし、更に『万葉集』以後の女流歌人の歌に見られる「標」の歌の特定の神、賀茂神との緊密な関連に注目し、賀茂祭を媒介とした「葵」と「あふひ」との照応を明らかにした。最終的に『源氏物語』の標の表現の位相を考察し、神の存在を媒介することで可能になる恋の関係の領域の拡張に照明を当ててみた。其の考察の結果を踏まえた上で、『源氏物語』本文の分析に入り、六条御息所を対象にして神の存在を媒介にした神域の恋がどのように光源氏の在処を照らし出していくかを究明した。まず、「神垣を越える」神域の恋の類型における激情と破滅の二重面を指摘し、第四章では激情の女君としての六条御息所の心の在処を探ってみた。そして、第五章では極端な恋の激情故に身の破滅をもたらす六条御息所のありようを鮮明にした。 IIIとIVは『源氏物語』第二部を対象としている。特に、IIIでは六条御息所物語に見られた恋の激情故の身の破滅、そしてその変容としての恋故の自滅に焦点をあわせてみた。特に、恋死の表現に注目し、登場人物の自滅的死のイメージを探ってみた。 第六章では柏木を対象として全く自己完結的で自己中心的な恋の執念に注目して、それ故にもたらされる自滅のありようを探ってみた。其の方法として男女の関係の段階の比喩表現である「垣間み」「物越し」「打ち解け」の言葉の働きと照応を明らかにし、『伊勢物語』の七夕伝説を媒介とした柏木独特の恋のあり方を鮮明にした。そしてさらに、六条御息所の死霊出現とも連動し照らし出す激情の恋の執念のすさまじさがどのように光源氏の晩年の物語に影を落としていくのかを探ってみた。第七章では若葉上での光源氏と朧月夜の再会の場の深層に注目した。それが光源氏にとっての最後の色好みであると同時に朧月夜に漂う死のイメージを鮮明にし、女三宮物語と関連していることが究明できた。 IVでは、光源氏の晩年に注目して、光源氏の在処を総体的に究明しようと努めた。その為、第八章では、若菜巻からの新しい話題としての女三宮の降嫁を眼目として、裳着と四十賀の位相を置き直して若き老人としての光源氏の矛盾を鮮明にし、晩年の光源氏の在処を究明した。其の延長線で、第九章と第十章では、特に冷泉帝の退位の場の深層に注意を払ってみた。物語の表層とは違う物語の深層の世界を明らかにし、光源氏の在処を照らし出そうとしたのである。其の具体的アプローチとして「末の世」「飽かず」「宿世」の表現に注目してみた。それぞれの言葉の内容よりも物語の表現としての位相を鮮明にし、次世代に相対化される退く世代としての光源氏の老いの一面を究明したのである。 これらの考察によって、光源氏の晩年のありようがすべて証されたわけではない。そして救済の問題など第三部との緊密な関連をも究明していくべきであるが今後の課題とし、不十分ながら問題意識の提起として本論を位置できれば幸いだと思う。 ただ、本論の考察を通して光源氏と女君の関係のありようが鮮明になり、それが光源氏の在処の究明に繋がるように心掛けていた。光源氏論が光源氏個人の人物論で止まらず、『源氏物語』の多面的世界を鮮明にするための一つの方法であることを意識していたことは断っておきたい。 |