中国の講史小説の多くは宋代の歴史語りの芸能「講史」に起源を持ち、元明清数百年に亘って中国白話小説の本流であり続けた。試みに孫楷第『中国通俗小説書目』を開いてみれば、いかに大量の長篇講史小説が出版されていたかが分かる。だが、『三国演義』を除く多くの講史小説に関する研究は小説研究が本格化して以降も総じて低調であり、少なくとも数量的には他のジャンルの研究から遠く引き離されている。その原因としては明末清初に講史小説にも大きな変化があり、大半の明代講史小説はそこで絶版となり辛うじて日本にしか残らなかったこと、そして清代に入って新たに創られた講史小説は英雄伝奇小説と呼ばれる荒唐無稽な筋立ての作品で、文学研究の対象とはなりにくかったことなどが挙げられる。しかしながら、明代講史小説-その多くは歴史演義小説に分類される啓蒙的な読本-は、清代前半までには殆ど滅んでしまったものの、少なくとも明代嘉靖期から崇禎年間までは通俗小説界の雄として君臨し幾度も版を重ねてきた。また清代の英雄伝奇小説中の物語は演劇・講唱文学などを媒体として広く中国に伝播しており、これらの作品群が中国伝統社会に与えてきた影響は決して小さくない。例えば、『説唐全伝』の"程咬金"、『楊家将演義』の"穆桂英"を知らない中国人がいかほどいるであろうか。中国人の彼らに対するイメージはあくまで虚構によって形成されたものであり、程咬金は鉞のような斧を振り回す乱暴者、穆桂英は双剣を操る女将であって史実とは遠くかけ離れている。翻って日本では『三国演義』を除く講史小説が殆ど受容されず(翻訳はされたがなぜか広まらなかった)、程・穆両名に対する理解一つをとっても文化的ギャップがあることは明らかである。そこで本稿では中国を長期に亘って魅了し続けた講史小説の魅力を探るべく、講史小説全般について考察をおこなった。第1篇では講史小説の中で最初に創作された『三国演義』について、第2篇では『三国演義』を除く明代の講史小説を中心に論を進め、第3篇では明清の講史小説が作り出された背景について論及している。先にも述べたように、研究の蓄積が他の小説研究と比べると少ないため、いきおい諸版本の変遷とその基づいた歴史書を追求する書誌学的研究が主となったが、英雄物語が形成される場であった講唱文学・戯曲の問題についても少し足を踏み入れて論じてみた。 『三国演義』で現在も読まれているのは清初に毛宗崗という人が改訂したテキストであるが、これは明嘉靖元年序刊本という非常に古いテキストから出たものとこの数十年来考えられてきた。しかし実際はこの嘉靖本は少し他のテキストとは毛並みの異なるものであり、南京か杭州あたりで文人向けに増補改訂されたテキストが、その後蘇州で著名文人の批評本に形をかえ、そしてそれが更に通行本の毛宗崗本へと進化していく。一方、明代の通俗出版を一手に引き受けていた福建建陽でも民間文学を取り入れたりしながら『三国志伝』という通俗的なテキストを刊行しており、明代に於いて『三国演義』の諸版本は地域的分化を見せている。『三国演義』は"七実三虚"と言われるように多くを史実に拠っているが、原『三国演義』の拠り所となった史書は陳壽『三国志』と裴松之注、及び司馬光『資治通鑑』である。従来言われていたように作者に擬せられる羅貫中は決して通俗歴史書を利用していたのではなく、かなり教養レベルの高い文人だったのではないかと考えられる。その後、文人向けテキストの系統は『十七史詳節』、『資治通鑑綱目』に拠ってより史実の部分を強化する一方、民間で広く知れ渡っていた関羽の物語を増補するなどの改変もおこなっている。 『三国演義』の成書後、それに続く講史小説が明嘉靖間に建陽の人熊大木という人物によって作られた。これら歴史演義は当時流行していた『通鑑』のダイジェストや続書に多くを負っており、『唐書志伝』は『通鑑綱目』、『南北宋志伝』・『大宋中興通俗演義』は『通鑑節要続編』系統の史書を用いて編纂されたということが分かっている。またそれより少し遅れて萬暦に刊行された『隋唐兩朝志伝』・『残唐五代史演義』は『通鑑綱目』を基にした『綱鑑』と呼ばれるダイジェストに基づいている。この両書は今までは羅貫中作と考えられてきたが、実は建陽の書賈が『三国志伝』の文章を移植して羅貫中の名を借りて売り込もうとした作品であった。この他『東西兩晋志伝』は『通鑑綱目』・『通鑑』に、そして『列国前編十二朝』は『通鑑節要』を基にした『綱鑑』を拠り所にして作られていた。明代は科挙の受験に対応するため様々な通俗歴史書が作られた時代であるが、講史小説は主にこの通俗歴史書を編纂出版していた書肆から刊行され、娯楽としてよりも科挙の受験の副読本として学習効果が上がることを期待されていたので、通俗歴史書の流行に敏感であり、時代によって拠り所とする史書も異なり、小説の内容にも変化が生じている。明末になると小説理論が熟し、講史小説にも芸術的真実が求められるようになると、既刊の小説の改編が進行し、建陽の没落とも相俟って歴史演義の小説は清乾隆期までには殆ど姿を消す。そしてそれまでは通俗文学の底流にあって文字化される機会の余りなかった詩讃体演劇の英雄物語が子戯・京劇などの流行を契機に陸続と小説化され、本格的な英雄伝奇小説の時代が到来する。(完) |