学位論文要旨



No 110905
著者(漢字) 石川,潔
著者(英字)
著者(カナ) イシカワ,キヨシ
標題(和) 指示についてのネットワーク理論
標題(洋) A Network Theory of Reference
報告番号 110905
報告番号 甲10905
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人文第114号
研究科 人文科学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷川,欣佑
 東京大学 教授 山中,桂一
 お茶の水女子大学 助教授 今西,典子
 お茶の水女子大学 教授 海老根,宏
 お茶の水女子大学 教授 富士川,義之
内容要旨

 自然言語の明示的な意味論を与えるために、形式意味論は言語学の世界で広く採用されてきた。本論文は、厳密な意味での形式意味論が自然言語の意味論として適切でないことおを論じ、それに代わる新たな意味論の方法を具体的に提示するものである。

 形式意味論の1つの特徴は、認知主体による言語の使用と、認知主体にとって外在的である客観世界とを結びつけるものとして意味を捉えることにある。しかし、母国語話者の頭の中にある言語知識を明らかにするという、我々の究極的な目標からすれば、認知主体の認識の外にある客観世界そのものが、言語学的意味論には関係がないことは明らかである。それにも関わらず形式意味論が正当化されてきたのは、我々が言語を用いて外界について語ることが出来るという側面が重視されたためであった。確かに、この側面を軽視することによる形式意味論に対する批判は、単なる研究上の関心の違いをあらわすにすぎない。少なくとも言語学的形式意味論において想定されてきた「モデル」は、外界に関しての認知主体の認識をモデル化することにより、哲学的または言語学的訓練を経ていない話者の言語行動を説明する限りにおいて、その存在意義が認められる。

 本論は、従来の形式意味論のモデル論的アプローチが、上記の側面の説明に役立っていないと主張する。具体的には、従来の形式意味論において中心的な話題の1つであった指示の問題をとりあげ、具体的な例を通して、従来のモデル論的なやり方が、これまで意味論の究極的なデータとされてきた話者の真理値の判断さえも、具体的な文脈のなかの発話に関しては正しく予測出来ないことを示し、さらに、それに代わる新たな枠組みを提示する。この枠組みは、意味論は話者の信念改訂の理論であるという立場、および、「指示」とは外在的な個体に対する関係ではなく、現在の言語経験と過去の様々な経験とを結び付ける認知主体の行為であるという認識とにもとづいて作られている。前者の立場自体は、近年形式意味論において広く支持されるようになったディスコース表示理論などに照らしてみても、必ずしも新しいものではない。この立場に関する我々の主張の新しさは、単調増加的な改訂のみを扱っていた従来の研究と異なり、非単調的な改訂をもその対象とすることにある。一方、後者の認識は、筆者の知る限り、過去にまったく前例のないものである。

 我々の新たな枠組みは、上記の真理値の予測以外の広範な範囲の現象をも明快な形で、しかも統語論の明示的な理論と容易に組み合わせられる形で、説明することにより、さらに支持される。より具体的には、この新たな枠組みにおいては、cleftやpsuedo-cleftといった「前提」が決定的となるような構文の意味論も、さらに別の「語用論」等の道具を追加して想定することなく、明快な形で与えられる。更に、無限の領域に関するmostの分析も、明快な形で与えられる。かつこの枠組みが、統語論でしばしば使われるindexという概念や、また言語変化という事実の説明などのメタ理論としても解釈され得るという可能性や、そして(前者と関連して)いわゆるde reと区別された意味でのde seの信念などの分析としても解釈され得るという可能性をも指摘する。

 このような広範な範囲の現象への応用は、従来の形式意味論においては予想されないことであった。しかし、これらの現象はすべて、我々が自然言語の意味の研究の究極の対象とすべきものである。したがって、これらの現象に説明を与えない従来の理論は、我々の新たな枠組みに照らして、不適切である。

審査要旨

 本研究は、まず、認知主体による言語の使用と、認知主体にとって外在的である客観世界とを結びつけるものとして意味を捉える「形式意味論」が(外界世界についての認識を「モデル」化して捉える言語学的形式意味論を含め)、母国語話者の頭の中にある言語知識を解明しようとする著者の究極的な目標に照らしてみると、自然言語の意味論として妥当・適切でないことを、膨大な先行研究の包括的・具体的な検討に基づいてて明らかにする。

 次いで、従来の形式意味論のモデル論的アプローチに取って代わる、より妥当な意味論の枠組みを提案する。特に従来の形式意味論で中心的な話題のひとつであった「指示」の問題を取り上げ、従来の理論では具体的な文脈の中での、指示に係わる話者の判断を正しく予測できないことを、極めて多様な具体的場面(シナリオ)を経験的に分析することにより示した上で、(1)意味論は(非単調的な改定を含む)話者の信念・認識改定の理論である、(2)「指示」とは「外在的な個体」に対する関係ではなく、過去から現在に至るさまざまな言語体験を結びつける「統一体」を形成する認知主体の行為である、という認識に達し、この考えを具体的に表現する理論的枠組みを建設している。まだ詰めるべき問題は多く残るが独創性に富んだ優れた研究であり、博士(文学)を授与するに値すると考えられる。

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