本研究は、空間知覚と言語の意味構造の関係の諸側面を英語を例にとって考察したものである。 第1章では、本研究のよってたつ理論的な枠組みである認知言語学について、本研究に必要と考えられる範囲で概説する。章の前半においては認知言語学を認知言語学たらしめる「認知」観を論じ、そのような認知観を採用することによる帰結として考えられる言語の意味に対する接近法、言語学と認知科学・心理学の協同関係についての展望などを検討する。章の後半では認知言語学の観点からなされてきた研究の成果のうち、本研究が第2章以下の議論の基盤として採用する部分について概観する。具体的には、認知における隠喩の役割、語の多義的な用法を可能にさせる基礎としての人間のカテゴリー化の営みに触れる。 第2章ではものの存在に関わる言語表現を検討する。取り上げる現象は、英語のthere構文の用法の一つで、出現・消滅を表す動詞とともに用いられる「提示」構文である。この用法は複雑な振舞いを示すことが以前から指摘されてきているが、本研究ではその振舞いが空間の中におけるものの存在を知覚する際に人間が用いている方略を考慮にいれることによって自然に説明されることを示す。その方略とはゲシュタルト心理学以来人間の空間知覚の特性として検討されてきた図地分化である。章末では知覚研究の歴史においてゲシュタルト心理学が果たした役割に触れ、その認知言語学に対する意味合いを論じる。 第3章では空間の構造に関わる言語表現を取り上げる。人間は運動することによって空間の構造についての情報を獲得することができるが、英語の空間表現の意味構造を解明する上でこの事実を考慮にいれることが不可欠であることを示す。また、空間の構造を述べた言語表現の意味構造に認識主体の運動のイメージがあらわれる際、そのあらわれ方に2様があることが先行研究において指摘されているが、本章ではその2つの様式がそれぞれ身体運動と眼球運動(ないし視線の運動)に対応することを論じ、さらにそれが人間の空間認識の発達のありように対応していることを知覚心理学・発達心理学の知見を援用しながら論じる。さらにこの章では、認識主体の運動と他動性との関係、空間表現が比喩的に用いられる例、および形容詞の意味構造と運動のイメージとの関連などを取り上げて検討を加える。 第4章は引き続き言語の意味構造における運動のイメージの役割を論じる。空間関係の表現に関わる語彙には多義的に用いられるものが多いが、その意味の拡張の仕方には一定のパターンがあることが従来より指摘されている。本章では「事物の運動の知覚は認識主体の眼球運動に依存する」という(心理学的には妥当性には欠けるが、我々の直観には合致する)民俗的な認知モデルの存在を指摘する。そのモデルを考慮にいれて前章の議論と有機的に結合させることによって、問題となる語彙の多義性が自然に説明されることを示す。空間表現が比喩的に用いいられた例にも言及する。 第5章は運動表現の意味構造に見られる二重性に対して、運動の相対性・視点・力学現象に関する認知モデル、の3点を考慮しつつ検討を加える。特に視点に関して、従来の言語学的な議論の問題点を指摘し、生態心理学における自己知覚の議論を援用しながら修正を加える。運動表現が比喩的に用いられた例を検討した後、二重性についての本研究の議論が日本語と英語の類型論的な対比の性格を論じる上でも有効であることを示す。更に視点の議論に力学現象に関わる認知モデルを導入することによって、二重の運動表現の間に見られる非対称性、および日本語と英語の対照的な性格がより的確に理解され得ることを示す。 第6章においては、前章で展開した視点論を空間における静的な関係の表現に適用することを試みる。そのためには前章の視点論を拡張することになるが、その際前章同様に生態心理学の知見を援用する。比喩と考えられる例および日英語の対照的な性格に言及する点も前章同様である。 第7章(最終章)は、言語と認知の研究に対して本論考の議論がもつ意味合いを列挙する。 (本研究は日本学術振興会特別研究員制度および平成6年度文部省科学研究費補助金特別研究員奨励費(「英語文法の認知言語学的研究」06-3937)の補助を受けてなされたものである。) |