論者は、〈私〉という主体の持つ基本構造を解明するために、メルロ=ポンティ哲学を素材に選び、同哲学において根本的に身体的なものとして提示されている主体の在り方を、この主体を取り巻く世界の全体的構造をも込みにして描き出すことを試みた。同哲学が素材に選ばれたのは、まず、主体性の問題が同哲学の根本的一主題であるからであり、また、同哲学は、主体の身体性への着目によって、哲学史上稀な仕方で主体の具体的な在り方を顕わにしてくれているからである。 但し、論者は、メルロ=ポンティ哲学の祖述に留まらずに、同哲学に一定の批判的距離を置き、論者なりの理路に従って事柄を組み立て直すよう努めた。主体の能動的な関与の希薄な「知覚」を主体の活動の頂点に置くところに発して最終的には大文字の「存在」にすべてを仮託していく同哲学の支配的一傾向は、結果的に主体の存在を隠蔽している嫌いがある。論者は、この傾向に抗して主体性の理説としての同哲学の内実を救いだすために、「運動の主体」を軸に据えて諸議論を整理し直していく方針を採った。これは同哲学に対する離反ではない。なぜならメルロ=ポンティその人自身、「知覚の主体」の根底には「運動」が潜んでいることを強調しているからである。 如上の方針に基づき、論者は、運動の主体としての身体的主体の内的な構造を描き出すことで、まず議論全体の基盤を築いた。運動において主体は身体と一つであるが、身体的主体の運動は反省性を持った二重的な運動であり、これは、自己を差異化しつつの自己の構成と解される。その際、運動の主体の主体性は、「自己による自己の触発」という様態を持つ、自然発生性に貫かれた自発性、受動性に浸された能動性である。そして以上の構造を支えるのは「潜勢的運動」である。差異化きれた諸運動は潜勢性の領域で互いに含みあう必要があり、主体の能動性は自然発生的運動に潜勢性の次元が具えられることで確保されるものだからである。論者は以上のことを、運動する身体についてのメルロ=ポンティの理説に、表現と時間とに関する彼の理説を噛み合わせつつ論じた。 ところで、潜勢的運動の性格を問うとき、今度は知覚された世界をも込みにした全体構造を問題にする必要が生じる。潜勢的運動を内蔵することで能動的となった主体は、知覚された世界に取り巻かれた体裁で見出され、その際、主体の在り様は知覚の実現形態と深く関わっているからである。そこで論者は、引き続いて、主体の運動を軸に、主体と知覚された世界との存立の全体的構造を描出することに取り組んだ。 メルロ=ポンティに従えば、個々の諸知覚や諸運動は、「世界に在ることの運動」という全体的運動に包摂されており、それらはこの全体的運動の分化として理解されるものである。この「世界に在ることの運動」は、世界に癒着した運動であり、その原初的形態においては主体と世界とは互いの別なく一つになっている。論者はこうしたメルロ=ポンティの思考に論者なりの解釈を加え、知覚された世界存立の基本構造を以下のように整理した。即ち、「世界に在ることの運動」の諸運動への分岐において、諸運動の含みあいが同時に生じ、これによって運動の主体が能動的主体として浮上するのと相関的に、諸々の可能的知覚相を潜在させた世界が出現すると。さらに論者は、「身体の反省性」についてのメルロ=ポンティの理説に従って、以下のことを導きだした。即ち知覚さわる世界は、具体的には、知覚される運動体である触覚的身体を範型として形態化され、それ故自ずと、知覚対象は主体自身と同様の身体的主体として現われると。 主体自身と同様の身体的主体の代表は他の主体、「他人」である。そこで論者は引き続いて、身体的主体の他人との交流の基本構造の解明に向かった。メルロ=ポンティに従えば、他人との根本的関係は、潜勢性の次元で編まれる親密な共存関係である。私にとっての世界と他人にとっての世界、私という主体と他人自身は、相互に他を潜在させる関係にある。この関係に支えられて、主体は自他の行動を自他双方にとって可能的な行動として捉えつつ、他人との遣り取りのなかで自己を社会的個人として成熟させていくことになる。その際、主体にとって殊に重要な意味を持つのは、粗大な事物の世界を傍らにしての「表現」の営みである。 以上から論者は、私という主体の本質を〈共存を編む時間〉として取り纏める。私は、それ自身多様な運動の共存から成る身体的主体として、他者と別個の存在でありながら他者と親密に共存し、またこの共存を自らの運動によって絶えず編み直していくのである。 |