学位論文要旨



No 110911
著者(漢字) 李,鍾徹
著者(英字) LEE,JONG CHEOL
著者(カナ) イ,ジョンチョル
標題(和) 世親思想の研究 : 『釈軌論』を中心として
標題(洋)
報告番号 110911
報告番号 甲10911
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人文第120号
研究科 人文科学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 江島,惠教
 東京大学 教授 木村,清孝
 東京大学 教授 土田,龍太郎
 東京大学 教授 上村,勝彦
 東京大学 教授 池田,知久
内容要旨

 本論文は,『釈軌論』を主な研究対象とする.なかでも,『倶舎論』と『釈軌論』との比較研究,乃至『釈軌論』と後期唯識論書との思想的なっながりを解明すること.それを第一の課題とする.このような作業によって『倶舎論』の作者世親が如何に大乗唯識思想家に転じるのかという世親の思想的な変貌過程が明らかになると思う.この課題のために第一,第二,第三章が当てられる.

 まず第一章では,世親研究の出発点とも言うべき世親著作の検討を行ない.世親に関する中國やチベットの伝承説のほうがFrauwallnerやSchmithausenの提唱する「世親二人説」より歴史的な事実に近いことを論証していく.その結果,『釈軌論』,『成業論』,『縁起経釈』,『五蘊論』,『中辺分別論釈』,『大乗荘厳経論釈』,『唯識二十論』,『唯識三十頌』という,チベットの学僧プトンの伝えるいわゆる"八部のPrakarana"を『倶舎論』の作者世親の著作リストに入れた.『倶舎論』の作者世親の年代について,筆者はA.D.32-400を世親の年代と提案する宇井説の有効性を認め,それを世親の年代として採択した.

 また,それに加えて世親の解釈学的な地平をなす諸概念群,即ち"仏説(buddhavacana)"密意(abhipraya)","nirukta流の語義解釈(nirvacana/nirukti"に対する考察を行なった.

 第二章で,我々は"縁起(pratityasamutpada)"に関する世親の考え方を明らかにし,世親の縁起観の特色と内容について論じた.

 『倶舎論』以来一貫して,世親は「これ有るとき,あれ有る.これ生起するが故にあれ生起する(asinin satidam bhavati.asyotpadad idam utpadyate)」という「縁起の二句」に基づいて縁起の意味を理解し,"縁起(pratityasamutpada)"という合成語の前句"pratitya"の"ktva/lyap-pratyaya"は時間的に先行する作用の意味ではなく原因(hetu)の意味であるとずろ.そして,後句"samutpada"に関しては,「現在有体,過未無体」という経量部的な立場に基づいて"出現すること(samutbhava/pradurbhava)"と解釈する.従って,「Aに縁りてBが生起する」というように簡略に表現できる"縁起"の意味内容は.世親に言わせると,「時間的に先行する生起の本質的原因(A)を獲得し.それと同時に生起に向かいつつある未来の非存在(B)が出現すること」であると確定できた.

 縁起は世親に言わせると,いわゆる縁起の十二支にのみ適用できる概念ではなく,一切の縁生法に適用すべき生起の法則を意味しなければならない.縁起の二句はそれ自体「同義の二句(paryayadvaya)」に他ならないが,その二句は相互に意味を補足する関係にある.第一句「これ有るとき,あれ有る(asmin satidambhavati)」は生起の原因を限定するもので,「これ有るときにのみ,あれ有る(asminn eva sati idam bhavati)」と理解される.第二句「これ生起するが故にあれ生起する(asyotpadad idam utpadyate)」は生起の原因それ自体が生起するということ,即ち常住因を否定するもので,「これ生起するが故にあれ生起する.他[の常住因]から生起するのではない.(asyaivotpadad idam utpadyate nanyasmad)」と理解される.

 第三章では,認識の生起と縁起説との関係を探ることによって世親における認識の仕組みを様々な哲学的問題を設定しながら解明した.

 まず"upalabdhi(了得)"の概念を通して認識と存在の関係を考察し,"我"或いは"プドガラ"は了得によりその存在性が立証できないので,実は五蘊の相続を指す施設有(prajnaptisat)に過ぎず,実有(dravyasat)として成り立つわけにはいかない,という世親の存在論の特色を明らかにした.同じ立場に立って,世親は「識は境を識る」という経典所説は識という認識主体を前提にしているようにみえるけれども,それは日常的な言語用法に準じる表現に過ぎず,実は「ある認識対象に関して認識が生起する」という認識の生起の状況を言い表すのであるという.

 次に,有部の三世実有説に対する世親の批判と対案を窺ってみた.世親の経典解釈に基づいて理解するとき,「三世実有(adhvatrayam dravyato ’sti)」は成り立たず,「三世有(adhvatrayam asti)」が妥当であるというのが世親の代案になる.さらにまた,世現にとって無表色は有部のいうような実有ではなく施設有であることを明らかにした.

 次に,仏教の世界観の一体系である「十二処」について,その構成原理を追跡してみた.世親は限定辞"eva"を用いることによって,十二処が二つずつ境・有境という関係(visayavisayitva)のもとで,実有として成り立つことを根拠づけているという点を明らかにした.同じく認識を含む人間世界の典型的な体系である「十八界」について,その構成原理を追跡することにより認識の生起の過程を究明した.世親によると,十八界は「所依・能依・所縁(asraya-asrita-alambana)」の関係に基づく六組として,実有として成立しており,それらの表現は認識の生起の構造を説明するための概念である.このことより「縁により生起する縁生法」としての認識の性格が明らかになる.

 最後に『釈軌論』のチベット語訳の諸版本を校合し,チベット語訳のテキストの校訂本を附す.以上の研究はこのような作業によって資料的に補強されることになる.

審査要旨

 世親は部派仏教と大乗仏教の両側面において活躍した,インド仏教史において極めて重要な位置を占める仏教者である.彼についての従来の研究は.説一切有部の学説を経量部的な立場から体系化した『阿毘達磨倶舎論頌・釈』,あるいは大乗瑜伽行唯識派の学説を体系化した『唯識三十頌]等の著作を中心として遂行され,国内外においてかなりの蓄積をもつ.1951年Frauwallnerは「世親二人説」を学界に提示し,世親研究に大きな波紋を投げ掛けたが,反対する学者も少なくなく,未だ明確な回答は得られていない.

 このような研究の現状において,本論文は,従来取り上げられることの少なかった『釈軌論』(Vyakhyayukta,経典解釈方法論)の研究を通して,世親を一人と認定し,そのうえで,部派仏教から大乗仏教への世親自身の思想的展開を追跡した点に,その特色がある.

 <第1章 世親研究のための予備的考察>は,『倶舎論頌』の著者としての世親を出発点として,関連する各文献における世親自身と,同時代の衆賢,後代の安慧・称友による言及・記述の詳細な分析によって,『倶舎論頌』『倶舎論釈』『釈軌論』『成業論』『縁起経釈』(以上5部著作順)『中辺分別論釈』『大乗荘厳経論釈』(以上2部著作順),『五蘊論』『唯識二十頌・釈』『唯識三十頌』,さらには『三性論』を,世親の著作と結論づける.また彼の年代については,宇井に従いA.D.320-400とする考えを提示する.

 これらの考察によって,『釈軌論』が世親の思想的展開において転換点として位置付けられること,彼の「仏説」論,経典解釈方法が「仏の真の意図」に主点を置くことを明らかにし,その本質的特徴を「法性」すなわち「縁起」との整合性に求めていたとする.

 <第2章 縁起>においては,世親によって「法性」と同一視される「縁起」の語義解釈,あるいは「縁起」の別表現「これ有るとき,あれ有る.これ生起するが故にあれ生起する」という語句の意味解釈について,綿密な分析が行なわれ,『倶舎論釈』『釈軌論』『縁起経釈』におけるそれらの緊密な関係が確認される.

 <第3章 縁起と識の生起>は,世親が「縁起」を単に存在論的に解釈したのみならず,認識論的な次元でも重要視していたことを指摘する.認識対象としての過去・未来・現在についての認識の在り方,認識対象・認識手段・認識作用の関係づけ,等に関する世親の解釈が整理され,『倶舎論頌・釈』の著作から『釈軌論』の著作への過程において,世親自身の思索が認識論的な次元に重点を移して行ったことが詳細に辿られる.

 さらに,本論文には,論項を明確にした『釈軌論』のチベット語訳テキストの校訂が付されている.これは本論文の資料とされたものであり,それ自体が学問的価値をもつ.

 上記のように,本論文は世親研究における『釈軌論』の重要性に注意を喚起し,新しい視点を獲得した点,高く評価される.今後は,見過されている『摂大乗論釈』等の研究,『釈軌論』の翻訳等を通じて,彼の思想の全体像をより明確にしていくことが期待される.

 以上を総合して,本論文は博士(文学)の学位が授与されるに値いする研究成果であると判断する.

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