学位論文要旨



No 110917
著者(漢字) 中西,聡
著者(英字)
著者(カナ) ナカニシ,サトル
標題(和) 近世・近代期鯡魚肥市場の構造と展開 : 特産物・特権・分業
標題(洋)
報告番号 110917
報告番号 甲10917
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第87号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 石井,寛治
 東京大学 教授 原,朗
 東京大学 助教授 橘川,武郎
 東京大学 助教授 馬場,哲
内容要旨

 市場経済の内実がかなり変化し、将来の方向性が不透明な現在、市場経済の歴史的位相を再検討することは重要である。その場合、市場経済が流動化と安定化の不断のせめぎあいの中で展開してきたことを念頭におく必要があり、そのいずれが強く現れるかは、社会システムのあり方に規定され、安定期→市場流動化→安定化のための組み替え→安定期という循環過程が生じていたかにみえる。この流動化と組み賛えは歴史的必然性をもっており、組み替えにより安定した取引布場とはいえ、市場の担い手同士の結び付きの弱体化あるいは新たな担い手の市場参入により次第に流動化し、その中で力を持った担い手により安定化のための組み替えが再び図られ、新たな市場構造が形成される。それゆえ、その循環過程と流動化の前後の安定期の市場構造の質的変化の両者を把握することが重要である。そこで本稿では、18世紀に生産が開始され、19世紀末に全国的に消費されるようになった北海道産鯡魚肥を素材として、構造論をふまえた商品市場の動態的分析を試みた。

 その場合、生産地市場から消費地市場までの流れを総合的に検討するために、生産者・商人・輸送業者の結び付きのあり方を重視し、結び付きのあり方に特質をもたらす要素として、「特産物」・「特権」・「分業」の3つの視点を考慮した。すなわち日本では、生産地域そのものが持つ固有の条件に支えられつつ、中央市場向けでなおかつ中央市場でブランド品として認知されていた特産吻生産が、18世紀から各地で展開されており、鯡魚肥も特産物として考えることができ、また鯡魚肥生産・流通には「特権」商人が深く関わっており、鯡魚肥生産・流通では、生産者と商人と輸送業者の未分化がみられたからである。

 分析の結果以下のような結論を得た。鯡魚肥市場では、18世紀後半と明治初年の2回の流動化を通して、18世紀前半の安定した取引構造が、19世紀中葉および明治20年代の市場構造へと質的転換をとげた。18世紀前半は、両浜組商人-荷所船-敦賀問屋-大津納屋により、排他的・独占的に鯡魚肥流通は行われ、市場取引関係は安定していたが、18世紀後半には松前地の鯡の薄漁により両浜組商人・荷所船の定雇関係は崩壊し、両浜組商人以外の場所請負人(「特権」的生産者兼商人)の担い手が登場したことで、市場は流動化した。

 そして手船未所有の場所請負人、福山・箱館湊の株仲間問屋、先発の北前船商人(船持商人)、大坂・兵庫の荷受問屋、大坂・兵庫の肥料仲買商のそれぞれのグループが結び付いて「連結」が形成され(本稿では生産地商人・生産地問屋・輸送業者・集散地問屋・集散地商人の中で、それぞれ特定の性格を持ったグループ同士が、比較的対等な立場で互いの機能を利用し合いつつ、恒常的・排他的に結び付いた関係を、「連結」という言葉で表現した)、一方手船所有の場所請負人は、鯡魚肥を手船で内地へ運んで(生産者手船輸送)内地本支店が売り捌く独自の流通ルートを形成した。その後19世紀に登場した新たな担い手はその流通ルートへ参入できなかったために、その外側に新たな担い手同士が結び付いて別の流通ルートを作った。こうして18世紀後半から19世紀中葉にかけて、旧来のルートの外側に新しいルートが段階的に形成される形態の市場創造が行われ、新たな市場構造が成立した。それは、19世紀中葉の鯡魚肥生産量の拡大による市場拡大に支えられ、安定性を保ったが、最幕末期には、ルート内の競争そしてルート間の対立の激化に加え、ルート間の排他性を保証していた封建的制度そのものが崩壊し始めたため、再び市場は流動化した。

 この市場流動化は、明治政府の成立とともに封建的制度が廃止されたことでさらに加速され、内地商人の北海道進出は急速に進んだ。この時期北海道市場へ進出した商人の中には、他の商人とは隔絶した資金力や近代的な輸送手段を所有した政商資本(三井物産・三菱)も含まれており、明治10年代には、政商資本の鯡魚肥市場への進出を契機として市場構造の再編が進んだ。そして明治20年代には生産者手船輸送が増大し、また近世来の諸勢力が、近世期の経験・人脈そして資金力を活かして、互いの競争を制限しつつグループとして三井物産に対抗するために、大規模な北前船商人を中核として再び「連結」を形成したことにより、三井物産の活動領域を限定することに成功し、市場構造はある程度安定した。そのため鯡魚肥市場で十分な利益を得られなかった三井物産は、鯡魚肥市場から撤退した。

 ただし19世紀中葉の鯡魚肥市場と明治20年代の鯡魚肥市場は、生産・流通過程で縦に仕切られた競争制限的な市場構造を形成した点では類似していたが、その質はかなり相違していた。すなわち前者では、制度に支えられた「特権」がルート間の排他性を保障しており、商人・輸送業者の結び付きの紐帯として地縁・血縁的要素が大きかった。それに対し後者では、資本力・輸送手段・価絡支配力・在庫処理能力を持っていた商人を中核に、仕込関係や荷為替金融など純経済的関係を紐帯として、ある特定の性格を持った生産者・商人・輸送業者同士の結び付きが図られ、その結び付きは、北陸親議会(船主集団)と北海産荷受問屋組合の団体交渉にみられたように近代的利害集団同士の側面が強かった。したがってその中で近世来の諸勢力が再形成した「連結」のもつ排他性も、制度的枠組みに保障されたものではなく、集団間の契約などを通して自発的に作り上げたものであった。

 さらにそれぞれの市場における鯡魚肥商品の性格を表現した生産力水準と生産関係においても、両者は大きく異なった。差網が生産力を規定していた前者に対し、後者では建網が生産力を規定しており、この生産力水準の上昇とそれにともなう家族経営から資本制的経営への転換は、有力漁民の仕込商人(漁民への前貸を行う商人)からの自立を可能とさせた。そして明治20年代の鯡魚肥市場では、仕込商人と零細漁民の間の支配・従属関係が残ったものの、商人と有力漁民の関係では支配・従属関係は払拭されており、「特権」商人ではない生産者が手船を所有し、内地へ直送して内地の廻船問屋と取引することが可能になっていた。また三井物産の鯡魚肥市場への進出は、近世来の取引方法(仕込による漁獲物集荷・買積船輸送・荷受問屋を介する仲買商への販売)とは異なる新たな取引方法(委託販売契約による漁獲物集荷・汽船遍賃積輸送・荷受問屋を介さない販売)を北海道へ持ち込むことになり、生産者の取引機会の選択肢の幅を量的にも質的にも広げた。それにより従来は取引上のイニシアチブを仕込商人に握られていた生産者が、逆に商人に対して取引上のイニシアチブを部分的に発揮できるようになり、19世紀中葉の鯡魚肥市場の前近代性は、明治20年代の鯡魚肥市場ではかなり薄まり、近代的な性格を保有するようになった。

 とは言え、このような生産力水準の上昇に商人が大きな役割を果たしたことも事実である。建網を大規模に使用し、建網普及の原動力となったのは場所請負人であり、有力漁民がそれに習って建網を導入した際、資金を仕込商人に依存した場合が多かった。また明治10年代の鯡魚肥市場の再編過程の中で、鯡魚肥市場における三井物産の活動領域を制限しつつ近世来の諸勢力のシェアを確保する主導的役割を果たしたのは、旧場所請負人を含めた北海道の仕込商人や北前船商人、そして手船を所有し遠隔地間商品取引に進出した有力漁民であった。こうして鯡魚肥市場全体から生ずる剰余のかなりの部分は、北海這地場商人・北前船商人・遠隔地間商業活動を行った有力漁民に分配されたと考えられ、明治20年代以降進展した北海道における会社設立に、彼らの資本が大きな役割を果たした。

 論文の最後で「特産物」・「特権」・「分業」の概念と生産者・商人・輸送業者の結び付きのあり方との関連を考察した。特産物生産は遠隔地市場向けであるため、生産者が消費市場から切り離され、消費地での布場の情報を持つ商人に従属する可能性が高く、遠隔地間商人を中核とした「連結」の形成が行われやすかった。日本では、近世期の特産物市場における担い手の結び付きを通して何層にも及ぶ中間業者を介する流通網が形成され、封建的支配権力も中間業者の「特権」を認めたため、何層にも及ぶ中間業者を介する流通網が構造として固定化した。一旦固定化した構造は、制度的保証がなくなり市場が流動化すると、一時的には崩れるが、その後の安定化のための組み替えの過程で、過去の経験や人脈や資金蓄積が活かされて類似のものが再編されることが多い。鯡魚肥市場でも19世紀中葉の「連結」の担い手が明治20年代に「連結」を形成し、近世来の取引形態を維持した。

 また生産者・商人・輸送業者の結び付きでは、「特権」勢力と非「特権」勢力が結び付く場合があったり、同一経営体が、「特権」的性格と非「特権」的性格の両方を含む場合があり、「特権」勢力と非「特権」勢力の対抗としてのみ歴史的展開を理解するのは困難である。鯡魚肥市場の場合、支配権力の交替があったり、同一権力でも時期が異なったりすると、支配権力の側で重視する「特権」の内容が変化し、また歴史的な状況に応じて「特権」の中でも経営にとってプラスに働くものとマイナスに働くものが生じたために、「特権」勢力と非「特権」勢力との様々な組み合わせによる複合的な関係が形成された。

 生産者と商人と輸送業者の「分業」については、生産者手船輸送や買積輸送を、生産過程と流通過程あるいは商業と輸送業が未分化であり経済発展段階としては遅れた段階としてとらえるのではなく、輸送コストを越える地域間価格差が生じている市場環境の下で展開した経済合理的な経営形態と捉える視点を示した。

審査要旨

 1.本論文は、18世紀初めから19世紀末までの日本において、商品市場構造がどのような歴史的展開を示したかを、遠隔地間取引における生産者・商人・輸送業者の結びつきのあり方を中心に検討することを課題としている。具体的に対象とされるのは蝦夷地・北海道で生産された鯡魚肥の生産と流通であり、その担い手たちのあり方であるが、あらかじめ論文の構成を示すと以下の通りである。

 序章 課題と方法

 第1章 北海道産鯡魚肥流通の数量的考察

 第2章 商場請負の開始と沖の口支配体制の成立

 第3章 場所請負制の確立と自分荷物積輸送の発展

 第4章 場所請負制の動揺と内地商人の蝦夷地進出

 第5章 近世後期鯡魚肥市場構造の展開

 第6章 場所請負制の廃止と内地政商の北海道進出

 第7章 内地巨大資本の鯡魚肥市場進出と近世来の諸勢力の対応

 第8章 近代期鯡魚肥市場構造の展開

 終章 総括

 2.本論文は、第1章で鯡魚肥流通の推移を概観したのち、明治維新を画期として2期に分け、第2〜5章で近世期、第6〜8章で近代期の分析を行っている。その内容を簡略に要約すると以下の通りである。

 18世紀の初め近江に移入されはじめた鯡魚肥の市場は、18世紀前半の安定した取引構造が、18世紀後半と明治初年の2回の流動化を通して、段階的に転換をとげた。まず、18世紀前半には両浜組商人-荷所船-敦賀問屋-大津納屋により排他的・独占的に担われ安定的であった鯡魚肥市場は、18世紀後半には松前地の鯡の薄漁により両浜組商人・荷所船の定雇関係が崩壊し、両浜組商人以外の場所請負人(「特権」的生産者兼商人)が登場したことによって流動化した。

 このような流動状態は、複数の流通ルートが形成されることを通して安定に向かうことになる。本論文では、「生産地商人・生産地問屋・輸送業者・集散地問屋・集散地商人のなかで、それぞれ特定の性格を持ったグループどうしが、比較的対等な立場で互いの機能を利用しつつ、恒常的・排他的に結び付いた関係」を、「連結」という言葉で表現しているが、この用語を使って再編過程を表現すると次のようになる。すなわち、一方で、手船未所有の場所請負人、福山・箱館湊株仲間問屋、先発の北前船商人(船持商人)、大阪・兵庫の荷受問屋、大阪・兵庫の肥料仲買商のそれぞれのグループが結び付いて「連結」が形成された。他方、手船所有の場所請負人は、鯡魚肥を手船で内地へ運んで(生産者手船輸送)内地本支店が売り捌く独自の流通ルートを形成したのである。その後、19世紀中葉にかけて、旧来のルートの外側にさらに新しいルートが段階的に形成されることで新たな取引構造が成立した。それは、19世紀中葉の鯡魚肥生産量の拡大に支えられて安定することになるが、最幕末期には、ルート内の競争とルート間の対立の激化に加え、ルート間の排他性を保証していた封建的制度そのものが崩壊し始めたため、再び市場は流動化した。

 この市場流動化は、明治政府の成立とともに封建的制度が廃止されたことでさらに加速され、内地商人の北海道進出が急速に進んだ。この時期に北海道市場へ進出した商人の中には、他の商人とは隔絶した資金力や近代的な輸送手段を所有した政商資本(三井物産・三菱)も含まれており、明治10年代には、政商資本の鯡魚肥市場への進出を契機として市場構造の再編が進んだ。そして明治20年代には生産者手船輸送が増大し、また近世来の諸勢力が、近世期の経験・人脈そして資金力を活かしつつ大規模な北前船間人を中核として再び[連結」を形成した。彼らは、互いの競争を制限しつつ三井物産に対抗し、その活動領域を限定することに成功したため、市場構造は再び安定にむかった。その結果、鯡魚肥市場で十分な利益を得られなかった三井物産は、鯡魚肥市場から撤退した。

 3.以上のようむ内容をもつ本論文について、まず第1に評価しなければならない特徴は、広範囲な資料の収集を行い、その丹念な整理分析を通して達成された実証性の高い研究となっていることであろう。鯡魚肥生産に関連する資料だけでなく、各地に点在する海運関連の資料を広く集めたことによって明らかにされた事実は、それだけで十分に本論文の学術的価値を高めている。例えば、鯡魚肥生産の担い手であった場所請負人が輸送業者としても大きなウェイトを占めるようになったことは、北前船についての通説的理解の見直しを迫るものである。また、明治10年代に当該市場に進出した三井物産などの政商資本が、魚肥の生産・流通構造を変えるインパクトを与えたとはいえ、従前からの商人・輸送業者から市場を奪うことはできず撤退を余儀なくされたことを明らかにしたことも重要な成果の1つであろう。

 第2に、こうした実証分析が18〜19世紀の200年間という長期間を対象とし、鯡魚肥を直接生産する漁民から、集荷の商人や輸送業者を経て、消費地に近い港の商人まで、流通のルートをおおう形で視野に収められていることも本論文の特徴である。時間的にも空間的にも広い視野をもっことによって本論文は、これまでの地域史的な既存研究の枠を抜け出して鯡魚肥の生産・流通に関する全体像を描き出す可能性をもつことになった。

 第3に、上のような広い分析視野は、この論文を通して流通史的視点から近世・近代期の市場のあり方の変化を描き出そうという、著者の強い意欲に支えられたものである。そうした意欲は、副題に「特産物、特権、分業」を列挙し、これらの概念を基礎に時代時代の生産・流通構造を整理しようとしたこと、あるいは、そうして析出される担い手間の取引関係を「連結」という概念で整理しようと試みたところに表れている。著者は、「日本では、近世期の特産物市場における担い手の結び付きを通して何層にも及ぶ中間業者を介する流通網が構造として固定化した。一旦固定化した構造は、制度的保証がなくなり市場が流動化すると、一時的には崩れるが、その後の安定化のための組み替えの過程で、過去の経験や人脈や資金蓄積が活かされて類似のものが再編されることが多い」と、その主張を要約しているが、それは鯡魚肥の取引に限定されたものではないのである。後述のように、その試みは必ずしも成功したとはいえないが、本論文を手掛りに理論的な面でも一層の展開を期待できるものと思われる。

 4.他方、本論文にも多くの問題点がある。

 第1に、全国的な市場の構造を分析することを課題にしながら、肥料の消費について分析を欠いていることが指摘できる。魚肥市場の展開が明治30年代まで追求されているが、同じころに金肥として普及しはじめる大豆粕との関係などを含めて、消費サイドの分析が進められることによってはじめて、全国的とか近代的とか著者が形容する市場構造が明らかになるはずであろう。

 第2に、論文の構成からみると、冒頭の研究史の回顧と課題の設定との関係が必ずしも明確ではなく、そのため、具体的に取り出された論点と、終章の総括との関係があいまいになっている。例えば、著者はこれまでの鯡魚肥に関する研究の欠点として、全体像の欠如、政策の視点や資本主義との関連の分析の不十分さを指摘するが、終章で論じられるのは、主として第1の点にかかわるものだけになっている。性急に「連結」と現代の「系列」との関連にふれるのではなく、自ら提示した問題に対応した研究の展望を示すべきだったと思われる。

 第3に、すでにふれた著者の意欲がややからまわりしている点が散見されることである。例えば、序章で示される「特産物」の定義は鯡魚肥を典型的な例としてとりあげることに必ずしも適切なものとは思われないし、「分業」と「職業の分化」との関係もあいまいなままに多用されており、総じて「特権」を含めて副題に示される3つの概念については、その内容とそれらの相互関連が明確ではない。また、「連結」についても、市場の流動化を通して再編・再生される商人間の固有な取引関係を示す用語として適切なものであるかどうかは疑問が残ると思われる。さらに、市場が流動化と安定化を繰り返すことと近世から近代への移行とがどのように関連しているかという点も十分に詰められているとはいえない。

 5.以上のような問題点をもつとはいえ、本論文の丹念な実証研究を通じて、著者が経済史の研究分野で自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を持っていることは明らかだと考える。従って審査委員会は全員一致で、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

UTokyo Repositoryリンク