十六世紀末、大航海時代を背景に西勢東漸の波が極東にも及ぶ中で、東アジア世界を揺るがす世界史的な大事件が起こる。豊臣秀吉の朝鮮侵略がそれである。中国まで巻き込んだこの戦争は東アジア三国、特に韓日両国の歴史・文化の流れを決定的に転換させた一大事件として、その衝撃・影響はまさに未曽有のものであった。この隣国同士の戦争が生み出した武勲談、或いは傷跡は、記録化・伝説化・作品化され、近世を通じて語り継がれ、さらに今日まで深い影響を及ぼし続けながら、両国の間に横たわっている。 この戦争は、一五九二(文禄元、壬辰、宣祖二十五、万暦二十)年からの第一次侵攻と、一五九七(慶長二、丁酉、宣祖三十、万暦二十五)年からの第二次侵攻に区分される。日本では、第一次侵攻を文禄の役、第二次侵攻を慶長の役、合わせて「文祿・慶長の役」とする他に、秀吉の唐入り、高麗陣、朝鮮陣、朝鮮征伐、三韓征伐、征韓、朝鮮役、朝鮮出兵等とも呼ばれてきた。二十種に及ぶこのような様々な呼称は何を意味しているのか。これはこの戦争についての日本での認識や評価が、時代や立場によって変わり、必ずしも一致していないことを表している。一方、中国では「万暦朝鮮役」、北朝鮮では「壬辰祖国戦争」、そして韓国では第一次侵攻を壬辰倭乱、第二次侵攻を丁酉再乱、合わせて「壬辰・丁酉倭乱」、或いは代表的に「壬辰倭乱」と呼んでいる。東アジアにおけるこの呼称の不一致は、この地域の歴史認識の食違いを象徴するかのように現存し続けているのである。 本論文では、秀吉の朝鮮侵略を「壬辰倭乱」とするが、ねらいは呼称を正すことにあるのではない。それより韓国と日本の長い関係史の上で、ひいては世界史の流れの上でこの歴史的な一大事件を改めて見直すことにある。そして、その相異なる把え方が両国にどのような影響を及ぼし、文芸作品、特に江戸文学にどのように描かれているのか、を明らかにすることによって、戦争から生まれた両国文化の特徴を見いだすことが目的である。 戦争とは殺しあいを余儀なくされるものである。その戦いが熾烈であればあるほど、相手を強く意識させ、そのイメージは深く刻まれてしまう。近世の一時期、朝鮮半島を血に染めた壬辰倭乱は、不毛な戦いに終わっただけではなく、そこから新しい対立を生み出すこととなった。一度形成された戦争英雄のイメージや相手国に対する認識は、時が過ぎても色褪せず、文学作品のなかに具現化されているのである。それを明らかにするためには、ある一国、一ジャンルを越えた、開かれた比較文学的・比較文化的研究が要求される。しかしながら現在、壬辰倭乱に関する歴史・文学の両面から、韓日両国、さらには東アジア三国を本格的に比較研究した先行論文は見当たらない。 その歴史としての戦争から、それが潤色され両国の文学に刻まれるまでの経緯や特徴を比較研究するために、本論文は次の四部に構成されている。 第一部 壬辰倭乱の把え方 第二部 史実としての壬辰倭乱 第三部 壬辰倭乱と日本の近世文学 第四部 文学と国家意識 この四部の構成にしたがって、論文の内容の要旨を述べていきたい。 第一部の「壬辰倭乱の把え方」は、その戦乱の位置付けや多岐にわたる両国歴史・文化・文学への影響を論じたもので、第一章世界史の中の大事件、壬辰倭乱、第二章近世韓日両国と壬辰倭乱、第三章壬辰倭乱の文学化となっている。 壬辰倭乱は領土の変化も勝利国も講和もなしに終わったが、明にとっては国力消耗により滅亡に至る重要な要因となる。日本では豊臣政権の滅亡、そして徳川政権の誕生を促すきっかけとなる。朝鮮では、儒教的な国家秩序の再建、国民の再教育のための『東国新続三綱行実図』の網纂など、以前の朱子学の理念による戦乱後の収拾を行った。 不意に被害を蒙った朝鮮では、一貫して秀吉を国の仇としているのに対して、近世日本における評価はすべてが否定的ではなかった。秀吉の功績として称揚する本居宣長と異国侵略として批判する上田秋成が象徴するように、相反する二つの流れが併存してきたのである。 壬辰倭乱が持つもう一つの特徴は、陶磁器戦争・書籍戦争・活字戦争・捕虜戦争などという後世の評価からも読みとることが出来るように、朝鮮の物的人的資源の日本への強制流入が盛んに行われた。それによって朝鮮文化は日本の近世文化に幅広い影響を及ぼした。 一方、その未曾有の戦争は、あらゆる形で記録され、虚構化される。これまで比較研究の対象としてあまり注目されなかったが、韓日両国には壬辰倭乱に関する膨大な記録物、そして近世小説、時調、歌舞伎、浄瑠璃、川柳などにも関連作品が数多く残っている。 第二部の「史実としての壬辰倭乱」では、両国の文献を元にして、第一章で壬辰倭乱の史的展開を、その具体的な例として第二章で晋州城攻防戦を取り上げて、戦いの経過や特徴について述べた。 戦乱は、日本軍の破竹の勢いの北進ともいえる緒戦、そして朝鮮義兵を中心とした反撃、明軍の参戦、それから沈惟敬と小西行長らの和平工作に移る。しかし秀吉は、自らの提示した講和条件が無視されたことを知り、再侵略を命ずる。ついに秀吉の病死で日本軍は撤退し、その後豊臣政権を倒して成立した徳川幕府と朝鮮は友好的な国交関係を結ぶこととなる。 壬辰倭乱の数多い戦いの中で、二度も激しい戦闘を繰り広げた晋州城攻防戦は、戦乱最大の死者、その戦いが生んだ英雄という数々の出来事によって、両国で伝説化・作品化され象徴的に戦乱を物語ってくれる。第一次晋州城攻防戦の英雄である晋州牧使金時敏は、日本側に「もくそ(木曽)」(牧使の朝鮮音から由来)という猛将として知られ、後代の歌舞伎などにも登場する。第二次晋州城攻防戦で加藤清正軍は、亀甲車を用いて城壁を崩し一番乗りなどの武勲を立てる。晋州城は全滅してしまうが、金子鎰などは敗将であるにもかかわらず、朝鮮朝廷では彼らの忠義の死を高く評価し、忠の亀鑑として祭られる。 第三部は「壬辰倭乱と日本の近世文学」である。第一章では晋州牧使、即ちもくそ官に関する両国作品の比較を、第二章では朝鮮妓生論介と日本の豪傑毛谷村六助についての作品や両者の関わりを論じた。 晋州牧使金時敏は朝鮮の『達川夢遊録』には、金晋州という朝鮮の忠臣として描かれる。近松門左衛門の『本朝三国志』には「牧司はんぎやん」という名で、悲惨な最期を遂げた朝鮮の代表的な猛将として登場する。それから『天竺徳兵衛郷鏡』以後のいわゆる「天竺徳兵衛物」に、木曽官は国の仇を報いるために現れ、その遺志を継いだ実子の天竺徳兵衛が謀反人として活躍する。彼にはキリシタン、妖術使いの性格もあり、それに日本の謀反人が結び付いたりする。その他に木曽官は『彦山権現誓助剣』などにも登場するが、それらを纏めて「木曽官物」と想定すると、その特徴は異国情緒が溢れた他の謀反劇に通じるものがある。 晋州城陥落後、日本の武将と南江に飛び込んで死んだという妓生論介は、後代に「義妓」として崇拝される。『壬辰録』には清正・秀吉などとの死として潤色される。実際論介と死んだと思われる清正の家来毛谷村六助(貴田孫兵衛)は、近世日本で孝行者・力士・剣術使として名高い人物であった。 第四部の「文学と国家意識」では、第一章で壬辰倭乱に関する両国文学の特徴を、第二章で壬辰倭乱の記録に現れた「天」の特性を、そして第三章で壬辰倭乱と近代文学への展望について述べた。 勝敗の結果より忠の精神を重んじる朝鮮側は忠の文学と、一番乗りなどの武勲を重視する日本側は武の文学と位置付られる。また日本での朝鮮軍記物や木曽官物のような謀反劇は、ナショナルアイデンティティーの形成を刺激する役割も果たした。 壬辰倭乱の代表的な記録である柳成龍の『懲録』と小瀬甫庵の『太閤記』を中心に、そこに現れた天の特性を比較研究すると、両者は同じ朱子学者でありながら異国との戦争の記述においては、自民族固有の神観念に基づいて把えていたことが分かる。 最後に壬辰倭乱と近代文学への展望を示す一例として、芥川龍之助の『金将軍』を取り上げた。小西行長の朝鮮での死を描いたこの作品は、『壬辰録』を出典としている。そこには関東大震災後の芥川の歴史認識が投影されている。 その他、自らの朝鮮での生活を通して壬辰倭乱に言及した中島敦などもおり、壬辰倭乱は近世のみに止まらず、現代に至っても両国の人々の意識に大きな影を投げかけている。その意味で壬辰倭乱に関する総合的な研究は、今後もいよいよ重要性を増すのであろう。 |