見立ては日本文化において古くから使われた創作技法の一つである。江戸時代に入って見立ては文化全般に広く使われるようになり、その意味も拡大された。本稿では江戸時代の見立ての諸相を把握するため、見世物・見立絵本・浮世絵・歌舞伎・戯作の五つに分けて考察した。 寺院の開帳に奉納したことから発達した造り物が、開帳のパロディとして見世物になった。見世物の造り物開帳でもっとも有名なのは安永六年両国広小路で開かれた「とんだ霊宝」である。一種の展覧会である「とんだ霊宝」は、開帳に出された仏像及び寺院の霊仏をナマグサ物などで造った不敬に近いもので、その解説である口上も仏像の縁起に似せ、滑稽に表現したものであった。 本稿では「とんだ霊宝」の影響を受けた戯作の系譜を辿る一方、実際行われた見世物造り物開帳を描いた種本を通してその構成法を見てきた。それが、三回に及んで刊行された『造物趣向種』によって狂歌師の風流の遊びとしても行われたことが分かった。このような見世物の造り物開帳は見立ての発想をもっと自由にさせ、戯作、見立絵本及び、幕末の浮世絵の見立絵にグロテスク性をもたらしたものである。 見立絵本からは江戸時代に盛んに行われた見立て遊びの一端を窺えることが出来た。俳諧師の絵暦交換大小会をはじめとして、絵俳書などによって行われた見立て遊びが、狂歌の隆盛につれて宝合わせの会・手拭い合わせの会・百鬼夜狂の会に発達し、また生花会の全盛期には花の見立て遊びが行われた。共通の知的財産をもとに大衆が参加するイベントとして、見世物造り物開帳が展示会の形式を取るのに比べ、見立絵本からは合わせの会という多数の参加者による見立て遊びを窺うことができた。 それ以外にも座敷見立て遊びとしては「ちょくらちょっと」・身振り物真似などがある。見立絵本は俳諧・狂歌の滑稽の精神を背景に見立て遊びに徹している姿を伝えている。 浮世絵の見立絵は仮名草紙から見られる古典のちゃかし及び、俳諧から学んだ古典の今様への変換から出発した。本稿では浮世絵において見立絵表現を確立した奥村政信をはじめとして、見立絵に特徴を持つ鈴木春信・歌川歌麿・一勇斎国芳・河鍋暁斎を通して浮世絵における見立絵の歴史を省みた。すなわち、滑稽に溢れている政信の見立絵から、創作の道具として古典のドラマチック性を借りた春信、美人画を描く方便として見立ての技法を使った歌麿、戯作に発達したさまざまな遊びを浮世絵に受け入れた国芳、幕末・明治期の激動の時代を見立絵で表現した暁斎を中心にした。 歌舞伎はその作劇法から見立ての性格があると言われている。世界と趣向との関係がそれである。それ以外にも、歌舞伎が江戸見立てに及ぼした影響は大きい。歌舞伎は絵画的要素を重視し、役者の停止動作である見得は役者と舞台を一枚の絵として描いた演出である。江戸歌舞伎は古典を舞台で演じ、古典的図像を大衆に親しませ、さらに絵師がその姿を役者絵として描いて販売する。このような芝居と浮世絵の相互補完的な関係の中で江戸庶民は、古典的図像とともに役者の瞬間の動作を捉えた姿までも新しい図像として覚えることになった。歌舞伎役者は舞台で動き廻るのでその瞬間を捉えるのは絵師によって違うはずであるが、実際違う絵師が同一場面を描いた場合が多い。それは舞台をもっとも美しく見せる停止画面、見得を描きたがったからであろう。 本稿では絵画資料に描かれた役者の見得の形の変化に伴ってその見立絵が変わっていく過程を荒獅子男之助の床下の場を通して見てみた。その結果、最初「毛抜」の見つめる動作を借りて複数の鼠を凝視している場面を捉えたのが、寛政年間鼠の誇張表現とともに役者の動作も積極的対立と変わり、その変化に従い、見立絵も変わることを見てきた。さらに、その見立てが舞台の上でも演じられたことが見られる。ここでは、役者の身体によって新しい図像の形成とその見立てが行われる過程が窺える。 戯作における見立てはもっとも多様な姿を見せている。本稿では特に絵と文章が一体になっている黄表紙を中心にした。戯作における見立ての用例を『百化帖準擬本草』・『作意妖恐懼感心』・『果物見立御世話咄』からみてみた。『百化帖準擬本草』では「準擬」を「みたて」と読ませ、なぞらえて似せるという形の類似を意味しており、『作意妖恐懼感心』では「作意」を「みたて」と読ませ、趣向に作意を加えるという意で用いられた。『果物見立御世話咄』は世話咄を果物に置き換えた話である。この準擬・作意・置換三つの見立ては戯作でよく使われた。 江戸時代は視覚文化が発達し、記号が多く使われた。その記号は武者の家紋から、役者・遊女・商人の紋及び、生活に必要な看板・六曜星などさまざまなものであった。見立絵においても記号がよく使われた。さらに、『呑込多霊宝縁起』を通して見立ての方法を霊宝の形を中心に分類して、「こじつけ」、「物づくし」、「吹き寄せ」、「二重映し」、「言葉の霊宝」などに分けることができた。 日本文化において見立ての用法を分類してみると次のごとくである。 (1)連想・形の類似によって比喩する。(和歌・俳諧・見立絵本など) (2)自然物のミニチュア・形の横倣。(庭園・信仰物・祭の造り物・見世物など) (3)古典の卑俗化・イメージの変換。(仮名草紙・浮世絵・歌舞伎・戯作など) (4)枠組みを借りる。(見立訓蒙図彙・見立評判記・見立細見など) (5)意味を託す。(東海道五十三次など) (6)文化受容にあける見立て。(八景・本地垂迹説など) 六つに分けてみたが、括弧の中のジャンルは固定不変ではなく、もっとも特徴あるものによって分類した。たとえば、戯作には(3)の古典の卑俗化・イメージの変換というのが多いが、(1)の見立ても存在する。この六つをさらに機能によって二つに分けることが出来る。それを表にすると次のようである。 図表 これで見ると、見立ては片一方がオリジナルであり、片一方はそれに従属するパロディ及び、アナロジーである。このパロディ、アナロジーはオリジナルに比べ、一般的に価値の低いものとされている。 そのように価値の低いものとされる見立てが江戸時代に流行った理由はなんであろうか。結局見立てという変換の後に得られる効果は風流(風雅)であり、滑稽であり、たまには現実諷刺にもなる。それに、見立ての持つダイナミックな創作の原動力により、集団的な見立て遊びとして発展したケースも多い。すなわち、大衆的イマジネーションの中での共通の遊びである見立てを通して、錦絵、黄表紙、狂歌絵本など洗練された文化媒体が量産されたのであった。 中野三敏「見立絵本の系譜」によって、江戸座の俳人たちによる見立絵本成文が明らかになった。また、江戸座の絵入俳書『世諺拾遺』(宝暦八年<1758>刊)、『暗夜訓蒙図彙』(宝暦九年刊)によって俳人たちが集団的に見立て遊びに参加したことが窺える。そして江戸座俳人たちの見立て遊びであった絵暦交換会によって錦絵が誕生するように、見立てによって洗練された美的感覚が築き上がるのであった。 つづいて俳諧に代わって文壇の主導権を握った狂歌からも江戸での安永二年・天明三年の二回にわたる宝合わせの会、、天明四年の手拭い合わせの会及び、見立て生花の会と、大坂で三回にわたって刊行された『造物趣向種』から分かる造り物の会から洗練された見立て遊びが窺える。この宝合わせの会は幕末興画合わせとして復活し、明治初期まで続けられた。また、狂歌師は浮世絵と提携して華やかな狂歌絵本を残していてその中にも見立て遊びが窺える。 一方、見世物では細工造り物に見立てが施された。その中でも安永六年の見世物「とんだ霊宝」は見立て遊びの新しい領域を開いたものである。とんだ霊宝は寺院の開帳をちゃかし、生臭い乾し魚などで仏像・霊宝を造り、あるいは仏像・霊宝と見させたものである。そのためにはいかにもそれらしい略縁起風の口上を述べているが、それがさらに仏像の縁起および古典をちゃかしたものであった。この見世物は直ちに大当たり、類似した見世物が乱立し、戯作にも多く影響を及ぼした。とんだ霊宝は細工より口上を重要視したおどけ開帳として幕末まで興行された。しかし、それで終わることではなく、明治以降では開帳と取って代わられ、博覧会版のとんだ霊宝が見られる。 見立ては既にそれが所属している社会の共通の財産になっている知識に着想を得、そこに斬新な感覚をとり入れて再創造する技法である。すなわち社会の共通財産である古典・型などが揃わなければ、見立ては生まれない。その意味で江戸は古典をはじめとした共通の知識が豊富であった時代である。その共通の知識をもとにさまざまな見立てが江戸文芸の中で行われた。本稿では江戸時代の見立ての全体相を把握するため、もっとも見立てが活発に使われた見世物・絵本・浮世絵・歌舞伎・戯作を通して見立ての諸相を考察しようとした。 見立てを通観してみると時代によってその扱う題材が増えていくことが分かる。たとえば、政信・春信があまり描かなかった画題忠臣蔵が、浮世絵では歌麿が好んで見立絵で描いており、文化期からは戯作の造り物開帳物には忠臣蔵一色になる。また、馬琴の『八犬伝』が大当たりを取ると、その見立てが流行るようになる。このように見立ては自らの固定不変の枠組みを持つのではなく、時勢の変化を機敏に捉え、文化に創造的活力を提供する働きをする要素である。見立ては大衆の共通の知から生まれ、さらにその共通の知を支える役割をするものである。 |