学位論文要旨



No 110922
著者(漢字) 崔,京国
著者(英字)
著者(カナ) チェ,キョンクック
標題(和) 江戸時代における「見立て」文化の総合的研究
標題(洋)
報告番号 110922
報告番号 甲10922
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第53号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,康夫
 東京大学 教授 高辻,知義
 東京大学 教授 杉橋,陽一
 東京大学 教授 延廣,真治
 放送大学 教授 渡辺,守章
内容要旨

 見立ては日本文化において古くから使われた創作技法の一つである。江戸時代に入って見立ては文化全般に広く使われるようになり、その意味も拡大された。本稿では江戸時代の見立ての諸相を把握するため、見世物・見立絵本・浮世絵・歌舞伎・戯作の五つに分けて考察した。

 寺院の開帳に奉納したことから発達した造り物が、開帳のパロディとして見世物になった。見世物の造り物開帳でもっとも有名なのは安永六年両国広小路で開かれた「とんだ霊宝」である。一種の展覧会である「とんだ霊宝」は、開帳に出された仏像及び寺院の霊仏をナマグサ物などで造った不敬に近いもので、その解説である口上も仏像の縁起に似せ、滑稽に表現したものであった。

 本稿では「とんだ霊宝」の影響を受けた戯作の系譜を辿る一方、実際行われた見世物造り物開帳を描いた種本を通してその構成法を見てきた。それが、三回に及んで刊行された『造物趣向種』によって狂歌師の風流の遊びとしても行われたことが分かった。このような見世物の造り物開帳は見立ての発想をもっと自由にさせ、戯作、見立絵本及び、幕末の浮世絵の見立絵にグロテスク性をもたらしたものである。

 見立絵本からは江戸時代に盛んに行われた見立て遊びの一端を窺えることが出来た。俳諧師の絵暦交換大小会をはじめとして、絵俳書などによって行われた見立て遊びが、狂歌の隆盛につれて宝合わせの会・手拭い合わせの会・百鬼夜狂の会に発達し、また生花会の全盛期には花の見立て遊びが行われた。共通の知的財産をもとに大衆が参加するイベントとして、見世物造り物開帳が展示会の形式を取るのに比べ、見立絵本からは合わせの会という多数の参加者による見立て遊びを窺うことができた。

 それ以外にも座敷見立て遊びとしては「ちょくらちょっと」・身振り物真似などがある。見立絵本は俳諧・狂歌の滑稽の精神を背景に見立て遊びに徹している姿を伝えている。

 浮世絵の見立絵は仮名草紙から見られる古典のちゃかし及び、俳諧から学んだ古典の今様への変換から出発した。本稿では浮世絵において見立絵表現を確立した奥村政信をはじめとして、見立絵に特徴を持つ鈴木春信・歌川歌麿・一勇斎国芳・河鍋暁斎を通して浮世絵における見立絵の歴史を省みた。すなわち、滑稽に溢れている政信の見立絵から、創作の道具として古典のドラマチック性を借りた春信、美人画を描く方便として見立ての技法を使った歌麿、戯作に発達したさまざまな遊びを浮世絵に受け入れた国芳、幕末・明治期の激動の時代を見立絵で表現した暁斎を中心にした。

 歌舞伎はその作劇法から見立ての性格があると言われている。世界と趣向との関係がそれである。それ以外にも、歌舞伎が江戸見立てに及ぼした影響は大きい。歌舞伎は絵画的要素を重視し、役者の停止動作である見得は役者と舞台を一枚の絵として描いた演出である。江戸歌舞伎は古典を舞台で演じ、古典的図像を大衆に親しませ、さらに絵師がその姿を役者絵として描いて販売する。このような芝居と浮世絵の相互補完的な関係の中で江戸庶民は、古典的図像とともに役者の瞬間の動作を捉えた姿までも新しい図像として覚えることになった。歌舞伎役者は舞台で動き廻るのでその瞬間を捉えるのは絵師によって違うはずであるが、実際違う絵師が同一場面を描いた場合が多い。それは舞台をもっとも美しく見せる停止画面、見得を描きたがったからであろう。

 本稿では絵画資料に描かれた役者の見得の形の変化に伴ってその見立絵が変わっていく過程を荒獅子男之助の床下の場を通して見てみた。その結果、最初「毛抜」の見つめる動作を借りて複数の鼠を凝視している場面を捉えたのが、寛政年間鼠の誇張表現とともに役者の動作も積極的対立と変わり、その変化に従い、見立絵も変わることを見てきた。さらに、その見立てが舞台の上でも演じられたことが見られる。ここでは、役者の身体によって新しい図像の形成とその見立てが行われる過程が窺える。

 戯作における見立てはもっとも多様な姿を見せている。本稿では特に絵と文章が一体になっている黄表紙を中心にした。戯作における見立ての用例を『百化帖準擬本草』・『作意妖恐懼感心』・『果物見立御世話咄』からみてみた。『百化帖準擬本草』では「準擬」を「みたて」と読ませ、なぞらえて似せるという形の類似を意味しており、『作意妖恐懼感心』では「作意」を「みたて」と読ませ、趣向に作意を加えるという意で用いられた。『果物見立御世話咄』は世話咄を果物に置き換えた話である。この準擬・作意・置換三つの見立ては戯作でよく使われた。

 江戸時代は視覚文化が発達し、記号が多く使われた。その記号は武者の家紋から、役者・遊女・商人の紋及び、生活に必要な看板・六曜星などさまざまなものであった。見立絵においても記号がよく使われた。さらに、『呑込多霊宝縁起』を通して見立ての方法を霊宝の形を中心に分類して、「こじつけ」、「物づくし」、「吹き寄せ」、「二重映し」、「言葉の霊宝」などに分けることができた。

 日本文化において見立ての用法を分類してみると次のごとくである。

 (1)連想・形の類似によって比喩する。(和歌・俳諧・見立絵本など)

 (2)自然物のミニチュア・形の横倣。(庭園・信仰物・祭の造り物・見世物など)

 (3)古典の卑俗化・イメージの変換。(仮名草紙・浮世絵・歌舞伎・戯作など)

 (4)枠組みを借りる。(見立訓蒙図彙・見立評判記・見立細見など)

 (5)意味を託す。(東海道五十三次など)

 (6)文化受容にあける見立て。(八景・本地垂迹説など)

 六つに分けてみたが、括弧の中のジャンルは固定不変ではなく、もっとも特徴あるものによって分類した。たとえば、戯作には(3)の古典の卑俗化・イメージの変換というのが多いが、(1)の見立ても存在する。この六つをさらに機能によって二つに分けることが出来る。それを表にすると次のようである。

図表

 これで見ると、見立ては片一方がオリジナルであり、片一方はそれに従属するパロディ及び、アナロジーである。このパロディ、アナロジーはオリジナルに比べ、一般的に価値の低いものとされている。

 そのように価値の低いものとされる見立てが江戸時代に流行った理由はなんであろうか。結局見立てという変換の後に得られる効果は風流(風雅)であり、滑稽であり、たまには現実諷刺にもなる。それに、見立ての持つダイナミックな創作の原動力により、集団的な見立て遊びとして発展したケースも多い。すなわち、大衆的イマジネーションの中での共通の遊びである見立てを通して、錦絵、黄表紙、狂歌絵本など洗練された文化媒体が量産されたのであった。

 中野三敏「見立絵本の系譜」によって、江戸座の俳人たちによる見立絵本成文が明らかになった。また、江戸座の絵入俳書『世諺拾遺』(宝暦八年<1758>刊)、『暗夜訓蒙図彙』(宝暦九年刊)によって俳人たちが集団的に見立て遊びに参加したことが窺える。そして江戸座俳人たちの見立て遊びであった絵暦交換会によって錦絵が誕生するように、見立てによって洗練された美的感覚が築き上がるのであった。

 つづいて俳諧に代わって文壇の主導権を握った狂歌からも江戸での安永二年・天明三年の二回にわたる宝合わせの会、、天明四年の手拭い合わせの会及び、見立て生花の会と、大坂で三回にわたって刊行された『造物趣向種』から分かる造り物の会から洗練された見立て遊びが窺える。この宝合わせの会は幕末興画合わせとして復活し、明治初期まで続けられた。また、狂歌師は浮世絵と提携して華やかな狂歌絵本を残していてその中にも見立て遊びが窺える。

 一方、見世物では細工造り物に見立てが施された。その中でも安永六年の見世物「とんだ霊宝」は見立て遊びの新しい領域を開いたものである。とんだ霊宝は寺院の開帳をちゃかし、生臭い乾し魚などで仏像・霊宝を造り、あるいは仏像・霊宝と見させたものである。そのためにはいかにもそれらしい略縁起風の口上を述べているが、それがさらに仏像の縁起および古典をちゃかしたものであった。この見世物は直ちに大当たり、類似した見世物が乱立し、戯作にも多く影響を及ぼした。とんだ霊宝は細工より口上を重要視したおどけ開帳として幕末まで興行された。しかし、それで終わることではなく、明治以降では開帳と取って代わられ、博覧会版のとんだ霊宝が見られる。

 見立ては既にそれが所属している社会の共通の財産になっている知識に着想を得、そこに斬新な感覚をとり入れて再創造する技法である。すなわち社会の共通財産である古典・型などが揃わなければ、見立ては生まれない。その意味で江戸は古典をはじめとした共通の知識が豊富であった時代である。その共通の知識をもとにさまざまな見立てが江戸文芸の中で行われた。本稿では江戸時代の見立ての全体相を把握するため、もっとも見立てが活発に使われた見世物・絵本・浮世絵・歌舞伎・戯作を通して見立ての諸相を考察しようとした。

 見立てを通観してみると時代によってその扱う題材が増えていくことが分かる。たとえば、政信・春信があまり描かなかった画題忠臣蔵が、浮世絵では歌麿が好んで見立絵で描いており、文化期からは戯作の造り物開帳物には忠臣蔵一色になる。また、馬琴の『八犬伝』が大当たりを取ると、その見立てが流行るようになる。このように見立ては自らの固定不変の枠組みを持つのではなく、時勢の変化を機敏に捉え、文化に創造的活力を提供する働きをする要素である。見立ては大衆の共通の知から生まれ、さらにその共通の知を支える役割をするものである。

審査要旨

 本論文は、日本における文化的な創作技法として古くから知られている「見立て」を中心にして、江戸時代の文化の諸相を総合的に把握することを試みた独創的な研究である。江戸時代のとりわけ後半における民衆文化の華やかな、多様な展開を、「見立て」文化の開花としてとらえ、その「見立て」の機能や表現形態をさまざまな視覚的資料を駆使しながら具体的な作品に即して跡付けつつ、最終的には江戸時代の文化における民衆の「見る」欲望がどのような表象、どのような表象装置として現実化されたかを総合的に論じるものである。

 論文は、序論、本論、結論の三部から構成されている。

 序論では、日本文化の歴史を振り返りながら、「見立て」の技法が古来、信仰や詩歌あるいは文化受容の実践的な方法として用いられてきた過程を検証し、同時に、それを通して「見立て」の一般的な論理を抽出し定式化することが企てられている。すなわち、そこで見立てられているもの-自然物、古典的イメージ、文化的枠組み、外国文化の風物など-による分類とともに、その機能-比喩的機能、パロディ的機能など-による分類がそれぞれ具体的な文化現象の分析を通して行われている。言わば本論を展開するための基礎研究と言ってよいが、この基礎研究を通して筆者は、「見立て」が、社会や文化共同体にとっての「共通の財産になっている知識」に立脚し、そうした古典的な型を利用しながら、そこに斬新な感覚(風流)を取り入れてそれを再・活性化し、また再・創造する技法であることを明らかにしている。

 以上の予備的な研究を踏まえて、筆者は、本論において、江戸時代における「見立て」の諸相を、具体的に見世物、絵本、浮世絵、歌舞伎、戯作という江戸文化に特徴的なジャンルを通して究明していく。その際、それぞれのジャンルの「見立て」の実際を分析するにあたって、筆者は、-それはこの論文の独創性のひとつだが-まずその根幹に見世物、つまり寺院の開帳に寄せた開帳見世物の研究を置いている。すなわち、安永六年両国広小路の回向院において鯰橋源三郎考案によって行われたのを嚆矢とする「とんだ霊宝」の見世物を江戸「見立て」文化の原型として分析し、そこから出発してその影響を受けた『三宝利生初竹』や『開帳富多霊宝縁起』などの戯作の系譜を辿る一方で、実際に行われた見世物造り物開帳を描いた『造物噺の種』や『造物趣向種』などの種本を丹念に調査し、そうした開帳を模擬した構成法がどのように滑稽さらにはグロテスクの効果を生んでいるかを考察している。また、そのなかで、文化時代の開帳の見立て物が忠臣蔵を題材とする一大流行となったことを綿密に跡付けている。

 こうした開帳見立て物は、その後の時代には、見立て絵本や戯作そして浮世絵などの絵本的な媒体に受け継がれることになる。すなわち、宝暦八年の江戸座の絵入り俳書『世諺拾遺』や翌年の『暗夜訓蒙図彙』などにうかがわれるように、俳人を中心として集団的な見立て遊びの会が組織されるようになるが、それは俳諧に代わって文壇の主導権を握った狂歌にも受け継がれ、宝合わせの会、手拭い合わせの会、見立て生け花の会などの見立ての会が開かれる。また、それに伴って、多くの見立て図絵や図彙が出版されるのである。ここで見られるのは、一方では、開帳という展示形式のもとで受動的に「見立て」を享受していた民衆の想像力がより積極的で主体的な表現の場を見い出したことであり、他方では、そうした俳諧や狂歌との結合を受けて「見立て」の視覚的な効果が洗練の度を高めていくことである。

 とすれば、江戸時代の「見立て」文化の研究は必然的に浮世絵の研究に及ばなければならない。筆者は、本論の第3章の浮世絵における「見立て」の研究にあて、そこで俳諧見立ての影響のもとで独自の見立て絵を創始した奥村政信の各種の作品を詳細に分析しているが、その分析からは、江戸時代の見立て絵が「聖と俗の混合」という特徴を備えていること、さらにはその派生態として、遊里を中心とした男女の愛情を伝統的な古典的物語の枠組みのなかで描く方法などが発達したことが示される。この奥村政信の見立て絵は、その後には、鈴木春信、喜多川歌麿、一勇斎国芳、河鍋暁斎などに受け継がれ発達しながら幕末から明治期にまで及んでいる。そうした展開も本論文では具体的な資料に基づいて実証的に追跡されている。

 さらに、筆者は、第4章において、歌舞伎を取り上げる。歌舞伎はすでにその作劇法からして「見立て」の要素をふんだんに取り入れており、また、逆に、すでに忠臣蔵で示唆されたように、歌舞伎の作品も江戸のさまざまな「見立て」文化に大きな影響を与えている。歌舞伎の演出は、「見得」に特徴的に見られるように、舞台を一枚の絵画と見立てるような図像的な視覚表現を重視するが、それは役者絵という新しいジャンルを生み出しもするのである。つまり、芝居と浮世絵は相互補完的な関係にあり、歌舞伎は言わば江戸の「見立て」文化のダイナミックな中心として機能しているのである。この相互的な関係を明らかにするために、筆者は、ここでは、荒獅子男之助の「床下の段」を取り上げ、そこで役者の見得と見立て絵が相互に影響し合いながらどのように変化していくかを詳細に追っている。すなわち、ここでは、「見立て」という図像の文化がどのように現実の舞台や役者の身体までを巻き込んで発展していくかというダイナミズムが分析されているのである。

 本論の最後は、戯作、とりわけ絵と文章が一体となっている『百化帖準擬本草』や『見立御世話咄』などの黄表紙を対象にする研究である。筆者は、ここでは特にテクストのなかの図と文との中間形態である無数の記号、さらには街の看板などにも氾濫しはじめた記号の出現に注目し、「見立て」を一種の記号の装置として考える表象文化論的な視点を提出している。さらに、戯作の開帳物としてもっとも完成度が高い山東京伝の『呑込多霊宝縁起』における「見立て」を分析することを通じて、本論全体をその冒頭の開帳見世物における「見立て」に送り返すと同時に、その分析から、そこで問題になっている「霊宝」の性格に従って「見立て」という文化技法を「こじつけ」、「物づくし」、「吹き寄せ」、「二重映し」、「言葉の霊宝」の五つに分類することを提起している。

 結論では、筆者は、これまでに得られた研究成果をまとめつつ、「見立て」が江戸時代の民衆にとって、共通の文化財産としての「知」の成立とともに、それをみずからの想像力のもとで活性化させ、再創造する文化プロセスであることを結論している。そして、そうした民衆の知の想像力が、江戸を経て明治期に入ると、文明開化に対応するひとつの手段となると同時に、しかしまたあらゆる意味で文化のスケールが変化することによって「見立て」の機能も大きく変わっていくことを展望している。

 以上のように、本論文は、江戸時代の民衆文化にかかわる膨大な基礎資料に対する周到な調査研究をもとにして、「見立て」という独特な視点から江戸文化を総合的に理解しようとした労作である。本論文には、別冊として66頁250点余りに及ぶ図版が添付されているが、その多くは筆者がみずからの問題意識に従って収集・調査したものであり、その図版の調査ならびに変体かなのテクスト原本の解読だけでも多くの学問的な貢献をなし遂げていると判断される。伝統的な国文学の研究方法と表象文化論的な方法論とを総合しようとする論文ではあるが、その両者のあいだに若干の齟齬があることも審査委員からは指摘された。また、細部の表記法や解読法などにまだ訂正すべきところがあることも指摘された。しかし、それらの欠点は、「見立て」という新しい広大な次元において江戸文化を総合的に理解する可能性を立証したこの論文が果たした大きな学問的な貢献を少しも減ずるものではないことを審査委員会全員が一致して認めた。ここに審査員一同は、論文提出者崔京国氏には、本研究の成果によって博士(学術)の学位を受ける資格があるものと判定する。

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