哺乳動物の糖代謝については多くの研究が行われており、その大筋は1960年代までにまとめられている。しかしこの研究の大部分はグルコースやリポース等体内に豊富に存在している物質が中心で、ポリオールの代謝や生理的役割は十分には解明されていない。その理由の一つとして、ポリオールの検出が困難であることが挙げられる。ポリオールは水酸基以外の宮能基を持たないために化学的に安定であり、また検出の容易な化学的性質を持たない。近年HPLCの進化やGC-MSの応用によって、糖分析の感度が飛躍的に向上した。ポリオール代謝の解明にはこの高感度糖分析法を利用したトレーサー法が不可欠である。本論文のpart Iでは、培養細胞による1,5-アンヒドログルシトール(AG)生合成を確認する実験を通して、新たなトレーサー法を確立した。このトレーサー法では安定同位元素標識した物質を細胞に与え、その代謝産物をGC-MSで分析する。従来から用いられている放射性同位元素トレーサー法との相違点は以下の通りである。放射性同位元素トレーサー法はすべての代謝産物が分析できる点で優れているが、代謝産物の同定は不可能であるという欠点を持つ。安定同位元素トレーサー法ではGC-MSで分析可能な物質、すなわち揮発性物質または揮発性物質に誘導可能な物質のみが分析対象となるが、マスフラグメントグラムから代謝産物の同定が可能である。さらに試料が夾雑物を多く含んでいても対象物質を選択的に分析することができる。なぜならばHPLCよりもはるかに理論段数の高いキャピラリーガスクロマトグラフィーを最終的な試料分離に使用し、また対象物質に特徴的なフラグメントイオンのクロマトグラムが得られるからである。本研究では、この2種類のトレーサー法をそれぞれの特徴を活かしながら駆使し、2種類のポリオール、AGとグルシトール(Glol)の代謝とその生理的役割の解明を試みた。 part IIではAGのリン酸化とリン酸化AGの細胞質内カルシウム濃度に与える効果を分析した。著者はAGが何らかの生理的役割を担っていると考えている。その根拠は以下の4点である。1)AGは生物中に普遍的に存在する。2)血中AG濃度は一般に高く(ヒトの場合約0.15mM)、且つ一定の値に保たれている。3)形質膜上のAG特異的な受動輸送担体によって、細胞内外の濃度平衡が保たれている。4)動物体内で合成される。また高血糖状態において血中AG濃度が特異的且つ顕著に減少することが知られており、もしAGが生理機能を担っているならば、血中AG濃度の減少が糖尿病合併症の一因となる可能性も考えられる。しかし現在までにAGの生理的役割は報告されていない。そこで著者はAGが何らかの可逆的な修飾を受けた後に、このAG誘導体が生理的役割を持つのではないかと考え、AG誘導体の検索を行った。ヒト骨髄腫由来のK-562細胞を[U-14C]AG存在下で1時間培養したところ、細胞内の放射活性は細胞外の2.6倍の濃度に濃縮された。また細胞抽出物を陰イオン交換HPLCで分析したところ、放射活性の一部は酵素的に合成したAG6-リン酸(AG6P)と同じ位置から回収された。この物質がAGPであることを確認するために以下の実験を行った。[U-13C]AG存在下でK-562細胞を培養し、前述のHPLC画分を回収した後にアルカリホスファターゼで処理し、[U-13C]AG遊離の有無をGC-MSで分析した。この処理によって[U-13C]AGが遊離されたことから、細胞内でAGがリン酸化されることが示された。細胞抽出物中の[U-13C]AGPを、内部標準物質としてAG6Pを添加した後に順相HPLCで分析したところ、AG6Pの溶出位置から回収された[U-13C]AGPの回収率はAG6Pの回収率の約2/3であり、K-562細胞内によってリン酸化されたAGの少なくとも1/3はAG6P以外のリン酸化物であることが示された。次に安定同位元素トレーサー法を用いてK-562細胞によるAGリン酸化の時間依存性、AG濃度依存性及びグルコースによるAGリン酸化の阻害を分析した。AGPの蓄積量は培養時間の増加と共に上昇し、20分程度で飽和レベルに達した。また測定したAG濃度範囲(0.1-4.0mM)ではAG濃度依存的にリン酸化速度が上昇したが、その上昇率はAG濃度0.5mMの地点で減少した。AGリン酸化はグルコースによって強く阻害を受け、その見かけのKiは0.5mM以下であった。しかし1mM以上のグルコース濃度では常にAGリン酸化速度はグルコース非存在下の場合の約20%であった。この結果よりAGリン酸化酵素にはグルコースの影響を受けるものと受けないものがあることが予想される。次にAGPの臓器分布をラットを用いて分析した。多くの臓器にAGPが存在し、特に脾臓及び脳では13.4及び8.3nmol/g tissueと多く含まれていた。AGPのリン酸化部位については現在のところ不明である。 part IIの後半ではAGPの細胞質内カルシウム濃度に与える影響について検討した。細胞質内カルシウム濃度に着目した理由は、AGPの化学的性質がRandriamampitaとTsienによって報告されているカルシウム流入因子(CIF;Nature,Vol 364,pp809-814,1993)の化学的性質と多くの点で一致したためである。現在のところCIFは未同定である。そこでもっとも強くCIFの効果が強く表れるマウス単球由来のP388D1細胞に酵素的に合成したAG6Pを添加し、細胞質内カルシウム濃度の変化を蛍光カルシウム指示薬を用いて分析した。AG6P添加によって10nM程度の細胞質内カルシウム濃度上昇が認められた。また細胞質内カルシウム濃度上昇が飽和レベルの半分となるAG6Pの濃度(Keff)は80Mであった。しかしグルコース6-リン酸、グルコース1-リン酸添加時にも同様の細胞質内カルシウム濃度上昇が認められたことから、このAG6Pの効果は糖リン酸化物に共通の性質であると思われる。しかし生体内のAGP量(例えば脾臓のAGP含量は上述の通り13.4nmol/g tissue、すなわち13.4M程度)がKeffと同じオーダーであることがら、AGPが実際に生体内で細胞質内カルシウム濃度調節に関与している可能性は十分に考えられる。細胞質内カルシウム濃度の測定の際に、AG6Pの作用とは別にグルコースが細胞質内カルシウム濃度を25nM程度減少させることを発見した。この効果のKeffは20M程度であった。またAGも、効果は小さく、Keffも1桁高いものの、細胞質内カルシウム濃度を低下させた。この糖や糖リン酸化物の作用による細胞質内カルシウム濃度変化の生理的意義は、CIFとの関係を含めて現在のところ不明である。 AGの関連物質を検索中に、組織培養用ウシ胎児血清中にGlolがヒト血清Glol濃度より二桁高い0.79mMという驚異的な濃度で存在することを発見した。また新生児血中のGlol濃度はウシ胎児血清ほどは高くなかったが、母体血の4-7倍であった。これは少なくとも胎児にはGlolを過剰に合成し体液中に放出する細胞と体液中のGlolを取り込み利用する細胞が存在することを示唆している。そこで本論文のpart IIIではラット肝癌由来のH-35細胞をモデル細胞として、Glolの形質膜透過性、Glol代謝、及びGlolの合成を分析した。[U-14C]GlolをH-35細胞に与えたところGlolは急速に細胞内に取り込まれ、かつその速度は実験に用いた濃度域(0.1-100mM)でGlol濃度に比例した。すなわち取り込みの見かけのKmは大きいが一方でVmatも非常に高い。一方胎児と母体でGlol濃度に差があることから胎盤に存在する細胞のGlol透過性は限定的であると考えられ、また赤血球、末梢神経等の細胞ではGlolの高血糖時における蓄積が知られているので、細胞膜のGlol透過性はその細胞種に依存すると思われる。また、培地のGlolに由来する細胞内の放射活性を陰イオン性順相HPLCで分析し、細胞内に取り込まれたGlolが速やかに酸化物やリン酸化物等の陰イオン性の物質へと代謝されたことを確認した。さらにこのH-35細胞及び前述のK-562細胞はグルコースの代わりにGlolを与えた培地中でも増殖した。Glolはポリオール経路によってグルコースやフルクトースに変換されるので、この経路を経由して解糖系によって代謝され、エネルギー源として消費されたことが示唆される。H-35によるGlolの消費速度をグルコース非存在下で測定したところ、ウシ胎児血清に由来する培地中のGlolの約半分が1日に消費されることに相当した。また安定同位元素トレーサー法を用いてグルコースからのGlol合成量を分析したところ、消費グルコースの0.3%程度がGlolへと変換された。以上の結果より、いくつかの細胞ではGlolを容易に取り込み、エネルギー源として利用し、かつ細胞内でのGlolの代謝回転が速いことが示された。 上述のとおり本論文ではAGPが細胞質内カルシウム濃度に影響を与えうること、細胞種によってはGlolを主炭素源として利用できることを確認した。しかしAG及びGlolを含めてポリオールの生理的役割はまだほとんど解明されていない。新たに開発した安定同位元素トレーサー法は細胞内の微量代謝物の分析に有効であり、ポリオールの生理的意義を解明する為にはこの分析法を応用した更なるポリオールの微量代謝産物の分析やその生理的役割の解析が必要である。 |